苔に触れる

わたしは旅好きではない。
旅するならばたいがい一人旅、目当ては美術館に行ったり町並みを歩いたりすることにある。

温泉旅館でのんびり、とかはさほど。
旅館の建物というのは、特定の誰かの持続的な暮らしを想定していないからだろうか。ほんとうにただの居所といった感じで、その建物、場所と関係を持ちようがない。足を接しているだけでそこに立てない。
まぁだからこそ、自分がどこにいるか以上に、どんなふうにいるか、に焦点が当たるのだろう。誰かとあい親しむにはよいとは思うけれども、それなら別にわざわざ遠出する必要もないわけだ。


わたしの旅は、外をクタクタになったり空しくなったりしながらひたすら歩くのである。町並みを歩いて観察する。
もちろんただ見るだけではそこのことは何もわからない。しかしともかくわからないままに歩き、目や耳や心に蓄積されていった何かがあふれるときを待つ。一匹一匹では見えない羽虫がよりあつまって見え始める瞬間を。

歩き疲れて、地面に沈み込むようになった体の感覚と、あふれてきたものたちがつながるときのよろこびを待って歩くのだ。
そのときはじめて、ぼんやり視界にあっただけの窓枠の作りや道の走り方が、見えるようになる。


一方自然はあまり見る気にならない。いや大いに自然は好きだし野生の生き物をみつけると狂喜するたちだ。とても見たい。けれども見るものではない。
視線は多かれ少なかれ相手を害するものだと思う。言葉で話すことのできない自然相手には一層そう感じる。


以前、軽井沢のセゾン現代美術館への道を1時間弱歩いたことがあった。雨の音(けっこう降ってた)も風の音も耳いっぱいに騒ぐしずかさで、体じゅう幸せだった。
そんな中に死にかけの蝉のような音がした。

アスファルト脇の茂みでリスが木の実をかじっていた。なんて端近に…
なにやら高貴なほどの余裕をたたえた、小さな生き物を前に、わたしは全身を耳と目にしてこわばっていた。


何分たっただろうか。ふと、ゆるむ。これはSNS物件ではと思ってカメラを向けた。

リスは、数秒で気づき逃げた。
相手を「いいね」に変換してしまおうとしたわたしのゆるんだぶしつけさは、たしかにリス氏を刺した。
わたしにはその覚悟が足りなかった。


自然と関わりを持つ、というようなことを考えていると、思い出すのは、金沢21世紀美術館の「ソン・エリュミエール」展でみた、ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイスの映像《庭園にて》。

着ぐるみのパンダとねずみが、どこぞの日本の庭だか小山だかを歩く。
中にいるのは明らかに人だ。不恰好な着ぐるみにはいって一歩一歩庭を進み、苔に触れる。不器用なもこもこの指先で苔に触れる。

その手つきのあまりにもおぼつかない、震えるような祈るような手つきに、こみ上げてくるものがあった(こういう非文が好き)。
これが気に入ったせいで、わたしは友達と21美にきた2週間後、1人で金沢を再訪するはめになった。


あんなふうに自然に触れたい、と思う。安全圏から不躾に見るのではなくて。
好奇に淫する視界をさえぎり、おのずと尖る耳や鼻を覆いながら、敬虔な化学繊維の毛皮に置く露を懸命に感じたい。見えない目で一心にみたい、触れられない手で一心に触れたい。
いや自然に限らず、本当は誰に対しても。


町中を歩くときだって、わたしの足も耳もぜんぶ手になればよいと思う。きぐるみの不器用な指先で触れる苔は、しっとりと押し返してくることもあれば、ぼろぼろと崩れてしまったりもする。それでも祈るように触れ続ける勇気を、わたしは持たないといけない。

いたずらな刺激にまどわされて受動的にみたりきいたりする目や耳はもういらない。こわばり、ふるえながら、今わたしのいるこの場所で、文字通り一所懸命に相対する目や耳になりたい。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?