抑圧は人を詩人にしない

高校生の頃、現代詩フォーラムというサイトがあって、そこで時々書いていた人がいた。
実はその人は隣の高校に通ってて、わたしの友達の友達だった。わたしはその人の詩を自分の同時代人の詩だ、と感じていたが、まさか本当に、そこまで近かったとは思いもしなかった。
色々あって、ほんの数分だけ会えたその人は、とても美人だった。

彼女とわたしは、とりあえずツイッターで相互フォローの関係になった。しかし、わたしに話しかける勇気はなく、ずっと片思いのように見つめて、ごく稀にいいねしていた。

そうやってツイッターごしに垣間見る限り、本人は詩人になる気などいっこうなさそうな風情に見えた。無論真意は知らない。ただ、彼女のことを見込んで、本やサイトに作品を引用していた詩人はいた。

大学生になった彼女は、次第に詩を書かなくなった。「高校生の頃のものを見たら、あんなのはもうかけないと思った」「抑圧は人を詩人にする」、そんな趣旨の言葉を残していった。

彼女はいつだってクールに、世の大真面目に文学やっている人たちの斜め上をいって、卒業して、働き始めた。
数年を経て久々にみた彼女は、ちょっと肌が荒れていた。以前の、そこだけ空気が2度低いような、そこだけ解像度が高いかのような、冴えた空気はもうまとっていなかった。こういう人なら、他にもいるような気がした。

でも結局、彼女の言ったことは嘘だった。
働いているまま、ちょっと輪郭がもっさりしたまま、彼女はまた書く人になった。
たぶん今は、以前以上に読者を得ているだろう。事実、以前以上にいい文章を書いている。彼女は、抑圧が人を詩人にするわけではないことの証左だ。

ただ、言葉のために語る人が詩人(広義:漫画家とか、写真家とか、エッセイストも含む)になる。それだけのことだろう。わたしは詩人ではないが、勝手にそう思っている。
孤独とか、抑圧とか、若さとか、そういうものが詩に結びついて見えるのはきっと、そういったものが人間を言葉に奉仕させる力を強く持っているからではないか。
言葉のために語るための原動力は、若さや、抑圧や、孤独などだけに宿るわけではない。その強度をもたらせるものなら、他の何だってよい。そう信じたい。

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