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神田をめぐる冒険 (中村政人さんインタビュー後半)

ネット配信の動画番組は、帯に短し襷に長しの感がありますが、これは文句なしに面白いです。映像配信クリエイターの川井拓也さんが、ノウハウの限りを尽くして作り上げたスタジオから発信する神田に関わる人々へのインタビュー番組です。

今回の対談相手は、アーティストでありアーティストの活動する場を創るプロデューサーでもある中村政人さん。編集されていない緊張感の中、まるでそこにいるかのような臨場感が楽しめます。ジャンルを問わずものを創る人、広義のクリエイティブに関わる人は必見のコンテンツです。

川井:「はい、ありがとうございます。じゃあ次のトピックとしては、TRANS ARTSというプロジェクトは3〜4年前からやってらっしゃると思うんですけど、」

中村:「2012年からだね。」

川井:「もう5年毎年やってらっしゃる。それは都市の中の再開発されるエリアだったりとか、これから壊されようとしているビルをアーティストに開放して展示をするというプロジェクトですけれども、これを仕掛けている動機とか、自分の思い描く成果がどんなものか、教えてください。」

中村:「3331の場合だとすると、箱じゃないですか。箱の中での出来事であり、箱から周辺に対してある程度の働きかけはあるんだけれど、エリアに関して考えると、エリアってもう少し広いじゃないですか。TATの錦町のエリアだとしても、錦町の2丁目3丁目、司も含めて神田のある程度のボリュームをエリアで占めるわけですよ。もちろん3331外神田から含めて、もう少しここまで考えると、途中に御茶ノ水の駅もあって、山があったり地形的にも変わってくる。このエリアの中をホームとして設定しているんですよ。僕は。」

川井:「誰にとってホームなんですか?自分?」

中村:「ホームエリアとして、僕らとして。そう自分たちとして。」

川井:「コマンドNとして?」

中村:「そうコマンドNとして。なぜならばそういう活動の動きをこのエリアでしてきてる。さっき言ったボイドの場所が、たまたまだけれども僕の勘所が働いたのは、秋葉原と上野の間のボイドと、神田と大手町の間、神田っていうか靖国通り向こうと靖国通りから大手町側のエリアとの間のボイドと、その隙間の中に事務所を作っていったっていう経験値から始まっているんです。そこでその挟まれたエリアは一体どうなっていくのか。さっき言った個と全体のバランスの中でも、創造的なプロセスを自分なりにも作れるだろうし、自分も成長しようと思ってるわけ。生活圏をこのエリアに収めてるわけさ、プライベートも。文京区のところもほぼ一緒なんですよ。区界ですけどほぼ。神田明神だけちょっと外れてますけど千代田区では。文京区にいたんですが、今は小川町に住んでるんです。歩いて数分のところです。でもこのエリアの中で自分が住みながら感じること、個として感じることと街が変化していくこと、その関係の中に委ねてる部分と攻めてる部分が両方あるんです。」

川井:「うーん、委ねてる、攻めてる、面白いですね。普通攻めないですよね。」

中村:「なんで?」

川井:「普通に生活してたら。そこがいいっているから。」

中村:「川井さんはずいぶん攻めてるでしょ。こんな場所作ってるんだからめっちゃ攻めてるでしょ。でも委ねるってのは、環境に対してアフォードされること、与えられる情報に対して自分が、生態的に動物として生態学的に感度を働かせること、つまり暑いとか寒いとか、でっかいビルがあると苦しいなとか、川があったら涼しいなとか流れが気持ちいいなとか、生態的に思うじゃないですか。生態学的にも自分の中に身を委ねるように感じること。山の中に入ったら、山の自然のミネラルを感じるじゃないですか。それと同じようなことですよ。都市部は都市部で、都市の生態があるわけですよ。それは生態学的に自分が委ねてる部分。委ねることによって自分のアイデンティティが発芽するある種の確率が高まるんです。」

川井:「それはどんな場所がいいんですか?自分で選ぶんですか」

中村:「そう、僕は自分で選んでる。」

川井:「この小川町を」

中村:「ここもそうだし、ちょっと前に韓国に留学するときに一番考えたことはそこなんです。」

川井:「俺が発芽しやすい場所はどこなんだろうと」

中村:「自分のアイデンティティを構築するためには、今起こっていることを今考えているようじゃ遅いんです。言ってる意味わかります?」

川井:「もうちょっと詳しく」

中村:「今アイデアが浮かんだことを、今言ってることでは、アイデンティティの構築には遅くて、自分が影響を与えられる環境に身を与えるというか身を捧げる、その場所に行った瞬間にもう始まるんで、」

川井:「うーむ、始まんない場所もある?」

中村:「いや、どんな場所に行ったって始まっちゃうんです。」

川井:「でも波動が違うってことですか」

中村:「波動が違う。でも選ぶことができる権利はあるわけじゃないですか。自我がどこで派生するかってことですよ。自分がどこで派生するか。つまりこの場の周りにいた時に今日はヒマナイヌさんの膨大なモノの量に囲まれたアフォードがあるわけ。アフォーダンス理論。感じてしまう生態的な性が動物として人間に備わっているから、どうしようもないんですよ。僕が拒んでもしょうがない。受けて感じてしまうものです。受けて感じてしまうことを前提にすると、今日はヒマナイヌのスタジオに行こうと思う意思が、アイデンティティを構築する際の最小限の行為なんです。行かないという権利もあるのよ。でも行くって約束しちゃったから、来なきゃいけないじゃない。来てみたら、こんなとこだからびっくりして、この炎の中で自分をさらけ出して、インターネットにさらけ出し、自分という自我を何かこう成長させようとしてるわけじゃん。その源はここに来るということを選んだ僕が決めたことでしょ。でも来てしまったらもうここから逃げられない。この環境から。与えられてしまって。でも与えられた同時性の方が圧倒的に影響があるんですよ。」

川井:「うーん」

中村:「でもその同時性を受け止める選択肢も残ってるわけ。次は来ないとか。少なくともその時に、僕は韓国に行こうかニューヨークに行こうか、学生の時に迷ったわけ。迷ったんです。自分を成長させるためにどっちか。一般的にはニューヨークですよね。ニューヨーク行ったら今頃もう億ションでバンバン売れてうわーっとか言ってるかも知れない。まあ無理かな。韓国へ行ったがために社会的な課題に対してすごく敏感になり、今のようになってるわけだけれども、つまり韓国社会が自分に与えてくれるものに、自分のアイデンティティを賭けたわけよ。」

川井:「なるほどー!」

中村:「ニューヨークに行って、当時200人以上日本人作家がいてその一人になって自分というものを成長させて、ヨーロッパ型の作品を作り、売れる売れないみたいな話に行くのか。それ以外の作品もあるんですよ。でもアジア型って誰も行ったことがない。戦後日本人として、誰も韓国に留学した人がひとりもいなかったんです。西洋画っていうか美術のコンテキストでは。」

川井:「ふーん、そうだったんですか」

中村:「ひとりもいなかった。おかしいでしょ。でもそこに身を委ねてみたらば、そこで与えられた影響は、韓国語しゃべれないものがしゃべれるようになり、いつの間にか声を大きくすることができ、最後まで諦めないような闘争心が芽生えてきて、最終的に形にするまでのフィニッシュのプロセスに意地はれるっていうか、作ることに対しての強固な姿勢を身につけてしまったわけ。それは僕の意思じゃなくて、韓国社会が僕に与えてくれたのよ。と思ってる。これが秋田にいて、雪かきもしないでのんびり飲んでばっかりいたら、こんな人にならないでしょう。言ってる意味わかる?」

川井:「その諦めない文化みたいなものは、韓国から?」

中村:「僕の場合は韓国から。徹底的に」

川井:「それは日本とは違う?」

中村:「全然違う!」

川井:「なんで違うんですか?」

中村:「もう毎日責められるもん、日々。日本人に対しての厳しさ。」

川井:「あーなるほど」

中村:「日本にいて日本責められないでしょ。川井さん戦後のあの条約どう思いますかとか言われないでしょ。秀吉が朝鮮を攻めたことに対してどう思うんですかって」

川井:「そんな昔のことを言われてもみたいになっちゃいますよね。」

中村:「言われないでしょ。言われるのよ。韓国行くと日本人というだけで言われるんですよ。当時タクシーの運ちゃんが言ってくるわけ。韓国語でだよ当然。僕は韓国語聞こえてきてるから、普通に言うと日本人だってバレるじゃないですか。お前たちは全く、この前はこうやって攻めてきやがってとか。」

川井:「この前!京都の人にとっての応仁の乱みたいなものですね」

中村:「そうそう、この前って言われて何の話かなっていうと秀吉の話なの。もうパターンなわけ。秀吉から始まって、日帝時代に来て、創氏改名されて僕らは大変だったんだ。お前らわかるかと。」

川井:「毎回それを?」

中村:「毎回それ。」

川井:「打ち返さなきゃいけない。」

中村:「そういうこと言われ続けてくると、ナショナルアイデンティティが揺らぐでしょ。そういう時にワールドカップでさあ、サッカーの練習試合かなんかで日本初、韓国で試合しますってときに、日本の子たちがおでこに日の丸かなんかつけて来るわけよ。お前ら袋叩きにあうぞと。頼むからやめてくれと。本当に思った。それまで韓国にいて、行く前はそんなこと思いもしないし、下手すりゃ僕もやってたかも知れないけど、いやそれは自殺行為でしょっていうぐらいに危険な感じはした。」

川井:「日の丸っていうだけでね」

中村:「日の丸っていうだけで。つまり教育的な流れもあるけど、街自体の、街から感じることがすごく自分を変えてくれた、変えさせてくれた、簡単に言うとすごく強くなった。「クンソリヌイギダ」っていう韓国語があるんですけど、「大きい声が勝つ」ということわざがあるわけ。変でしょ、ことわざとして。大きい声が勝つって。」

川井:「ジャイアンが勝つみたいな」

中村:「そうそう、それっていうのは、大きい声自体は大衆の声、ひとりひとりの声をまとめて、ボリュームを大きくして、大衆の声としてがっつり言えば勝てるんだと。つまりどんな権力者に対しても、大衆が力を合わせれば勝てるんだという意味なんですけど、でも実際は本当に大きいんですよ、声が。めっちゃ声がでかい!」

川井:「日本人が声が小さいっていう話もありますけどね」

中村:「それもあるけど、クンソリヌイギダ過ぎ!勝ち過ぎ。でもその辺がすごい面白かったのよ韓国は。めっちゃ面白かった。相当勉強になった。」

川井:「何歳ぐらいの時ですか?」

中村:「27歳ぐらい」

川井:「27から30歳ぐらいの時。ものすごいですねその戦いは。武闘派の頃じゃないですか。20代後半とか」

中村:「いやだってその前バブルでしょ。バブルで学生時代大学院、年収本当に1000万近くあって、学生なのに。」

川井:「63年生まれですからね。」

中村:「63年生まれ。バブルでみんな脳天気だったね。学生で動いてて動いてると動いてるだけお金くれたの。だからそういうもんだなと世の中思ってたの。申し訳ないよね。」

川井:「でもバブル時代をちゃんと生きた、リアルタイムで生きた人はどこかポジティブなオーラがあって、僕らバブルは大学時代だったから、」

中村:「僕も大学時代だよ。学部から大学院の学生だったし完全に学生。まあ浪人もしてるし、普通の人よりはちょっと年くってるけど、美大は普通に学生だったよ。芸大の学生ですごい稼いでた。仕事して。寝ないで仕事してた。でも仕事するとお金くれるじゃない。お金くれると信用がつくじゃない。信用がつくともっとこの業界来てよってくるじゃない。それを全て断って韓国へ行ったわけよ。」

川井:「ずいぶんストイックですね。」

中村:「だけどもうやってられなかったもん、最後はひどくて精神的に良くなかった。」

川井:「疲弊しましたか」

中村:「疲弊した。本当のやりたいことはそうじゃないと思ってた。ファイルを2冊持っていて、自分の本当のピュアな純粋なもの、切実なものはこっちのファイルで、こっちのファイルは、まあ傾向と対策でいくらでもできる自分。つまり言われたらできますよと。できるんだ。家具とかいっぱい作ってた。好きなのよこういう世界も。内装とかファッションとか大好きなわけ。でも大好きなものとこっちのピュアな自分が一致してなかったのよ、当時は。全く一致してなかった。完全に分けてた。こっちのファイル持って、一生さんとかいろんなところへ行くと、面白いね君はって言われて、内装とか含めて、コレクションのDMの絵を描いたりとか、バンバンやってた。めっちゃとんがってたわけ。そっちの業界で。でも僕はつまんねえなと思ってたの。打ち合わせ行くと、作品集がいっぱいあっていろんな画集があって、ミーティングは画集を見て、これがいいあれがいいとか言ってるわけ。ハアって思って。僕ら作家としてはさあ、その作家のものをコピペするようなミーティングとかできないじゃん。プライドが高いから。この作家のここと、この作家のここを足して2で割ってよというオーダーが来るわけよ。ひどいよねー!ひどいんだけど、」

川井:「それでよろしくー!シクヨローみたいな」

中村:「そうそうそう、それでもうわかるじゃん。すぐやればいいじゃない。やって、はいって渡すと、お金はあまり気にしてなかったんだけど、口座にお金振り込まれてて、あーっこういうのでお金くれるんだと思うじゃない。この業界はダメだと思って、ダメじゃないんだけど。」

川井:「いやいや、今の話それだけを聞いたら、今の世代は何言ってるんだよと言われちゃいそうですよ。」

中村:「それはそれで当然仕事でやってるんだから、回転が早くなきゃいけないし、流行を先取りしなきゃいけないからいろんな今の時代の作家のいい画集を集めてきて、これが最先端の作家だよって情報収集してるんです。ネットがまだないからね。今だとこれとこれをクリックして2で割るみたいなことがネットを見ながら言えるじゃない。でもその思考回路と思考プロセスにはちょっと行けなかったんだよね。中村少年は。」

川井:「少年っていうか青年ですね。もう」

中村:「青年か。だから面倒臭いタイプなんだよ。本当に。」

川井:「最後にひとつ時間もあれなんで。結果的にakihabaraTVから始まって、千代田区もしくは外神田この中心地は神田ですけれども、そこに根をおろすことになりましたよね、中村さんは。神田ってどんな場所ですか?何が面白いんですか?」

中村:「なんか行政みたいな言い方するね。」

川井:「最後はそういう風にちょっと締めとかないと」

中村:「うーん、僕は神田自体はまだピンときてなくて、」

川井:「ええっ」

中村:「ピンときてないですよ。神田ってものは。でも諸先輩がいっぱいいるし、僕はそもそも秋田ですからね。秋田の人間で第一世代として神田にいるわけで、うちの子とかは今高校で19歳だ、今受験真っ盛りで大変ですけど、この辺で生まれて湯島で生まれて、ここで育って、韓国に6年いて帰ってきて、ここを完全にホームだと思ってるわけ。」

川井:「ホーム?」

中村:「ホーム。故郷だと思ってるの。本当に故郷だと思うアイデンティティが育ってるの。彼の心の中には。」

川井:「彼が生まれた時にはもう」

中村:「もうここだから。」

川井:「祭りにも参加し、」

中村:「いずれにしても彼は東京がホームだと思ってるし、その中で湯島小学校があって、この辺でずっと遊んでた。友達も未だにいるわけですよ。小学校の同級生が。小学校の同級生がいるのよ。ありえないよね秋田県民からすると。」

川井:「えっ、どういうことですか?」

中村:「だって小学校の同級生は秋田にいるじゃない。」

川井:「あっ、近くにいないってことですね。」

中村:「そうそう、近くにいないじゃない。でも神田っていうのは東京の中で確信的な、なんていうのかな軸があるのよ、ここは。」

川井:「何の軸なんですか?」

中村:「なんだろね。精神かなあ。」

川井:「何で結びついてるんですか、その軸は?」

中村:「オペレーション的にはお祭りのようなものだと思ううけど、それは一般的な話だし、多分もう少しお祭りっていうオペレーションと同時に育成されている文化的な蓄積があるんだと思う。それは江戸期から、その前からそうだと思うけど、武家屋敷だったり商人の町であったり、この地域に宿ってるいわゆるゲニウス・ロキがあるわけだ。このゲニウス・ロキの蓄積が僕らの中に自然にアフォードされる、さっき言ったように環境的に与えられるものがここに育っていて、それを受けてるという意味で考えると、僕なんかはたかだか30年ぐらいなんで、一世代、そこで考えると全然言える話ではないんだけれども。でもものづくりに対するこだわりとそれをリスペクトする文化がこのエリアにはあるんです。」

川井:「職人街だったその文化も」

中村:「消費行動は、特に前のオリンピック以降の消費行動で考えると、青山・六本木」

川井:「西のほう」

中村:「西だった。それはなんでだったかというと、六本木に基地があった。米軍が基地に入ってそれらを引き受けてくれたおかげで、アメリカ文化は東京のそっち側だよと、こちら北東部は江戸期の文化をまだ残してますよと、残してくれたわけ。残してくれたというか残させたというかそういう文脈があるんで、神田っていうのはまだピュアなんです。めっちゃピュアなのよ。ピュアで切実感もあるわけ。」

川井:「切実感、何に対して切実ですか?」

中村:「つまり住んでる人たちのプライドが高いわけ。」

川井:「なるほど。何世代か江戸時代から住んでる人たちの」

中村:「神田の人たちのプライドの高さは、すごい大事だと思う。それが街の文化を支えてるわけだ。ヨーロッパの文化の貴族階級の人たちが街を支えている力を持ってる中に、ボトムアップ型の西洋文化が生まれているわけじゃないですか。つまりここから生まれてきているんだという自負を、自分たちが持ってるというバランスがあるわけでしょ。神田は神田で、少なくともこの地に宿っているものは、見えにくいんだけれども感じにくいんだけれども、それでもあるわけだ。」

川井:「見えにくいってのは、あるタイムスパンがないと見えない?」

中村:「タイムスパンもあるし、時間軸もあるし、実際来ても分かりにくい。どこに宿ってるかは。人を見るとわかる。」

川井:「人に宿る。」

中村:「人に宿ってる。人に宿ってるから人に会うと、こういう人がここにいるのねって、この考えはこうなのねっていうのが人に宿ってるのよ。それが面白いじゃない。神田っていうのはひとに宿ってる。まあどこもそうなのかも知れないけど、めっちゃ面白いよ。もう考えられないぐらい人の力が強い。」

中村:「限界集落で、秋田の中で例えば山村部に住んでる人がもう孤立してると、助けなきゃ、どうやって雪かきするのと、道に出てこれないと、っていう思いがあるじゃない。同じような意味で神田っ子の人たちも、そのプライドの中で、ぐーっと固まってたりする人たちが上ににいるわけよ。お祭りしかないみたいな。次の世代の人たち、青年部の人たちがこの人たちの想いを受け継ぎつつ、ここはもうちょっと変えようよとか思ってる人もいるわけだ。思っている人もいるけど、もっと下の人たちはそもそもそんなこと考えてもいないわけだ。でもその流れってのは大事じゃない。頑固な人がいて、それを解きほぐそうとする人がいて、」

川井:「三世代いるわけですね。」

中村:「三世代いるわけですよ。100年のスパンがあってもうそれを如実に感じるわけよ。僕とか相談受けたりするわけよ、もう既に。不動産相続の話とか。」

川井:「世代替わりが」

中村:「お父さん頑固で大変だけどなんとかって、僕らの世代の人が言ってくるわけだ。でもお祭りってオペレーションはそこを解きほぐすんだけど、お祭りは2年に1回だから終わっちゃうと、お祭りに参加できる人とできない人といるわけ。そう思うと神田っ子の中にもバランスがいろいろあって、でも面白いよね、奥が深いっていうか、それは人に宿ってるんだ。」

川井:「面白いですね。」

中村:「たぶんこのインタビューのポイントは、千代田区の文化を僕らの言葉の中、川井さんのセレクトされた僕らの受けてるインタビューの言葉中から、千代田という文脈と千代田という文化をなんとか売り出そうという試みでしょ。」

川井:「こんなにゲストにインタビュー意図を理解していただくとは、ありがたい話です。」

中村:「そういう意味でいうと、秋田県民の僕が30年近くこの地にいて、本当にリスペクトするんですよ。そのリスペクトするっていうのは、本人の問題だけではなくて、脈々と流れをちゃんと汲んで考えて、感じて大切にしているという流れがあるから。流れを感じるんですよ。すごいよねこれは。江戸期からの流れを完全に本人も自覚してるわけ。」

川井:「その自覚してるのは」

中村:「神田っ子の人が。自覚してるってすごくない?京都とか羨ましいのはそれが当たり前のようになってること。」

川井:「前の戦いは応仁の乱みたいな感じですね。天皇はんは留守してはるみたいな」

中村:「それは羨ましいし、そういう文化の流れを作り続けてリスペクトしつつ、ちゃんと自分がそれを守っている部分が神田にはあって。でも東京で消費行動が激しすぎる中でここはまだゆったりしてるんだよ。本当にゆったりしてる。そう思わない?」

川井:「神田が?」

中村:「だってこの前久しぶりにどこに行ったっけ。あ、渋谷だ。久しぶりに渋谷行っただけでドキドキしちゃったよ。何この交差点の人の数とかさあ。リアルタイムで渋谷のスクランブル交差点とか見ると、外人さんもいて観光地みたいになっててさ、ちょっと裏に行くともう右も左もわからなくなってて、俺広尾にいたのに。ダメだなぁと思ったな。もうここにはいれないと思った。」

川井:「最後にひとつ、中村さんがこれからやってみたいこと。相当いろいろ基盤を作られてると思うんですけども、3331を作り、プロジェクトルームも作り、これからやってみたいことを最後にお聞きして終わりにしたいと思います。」

中村:「やりたいことはいくらでもあるけど、川井さんは何やりたいの?」

川井:「僕はここで、ダムに沈む雑居ビルの中で、最後の徒花として、いろんな人のすごい印象的な会話を引き出したいというのがありますね。」

中村:「それは何に使いたいの?会話を何にしたいの?」

川井:「それはもうライブで見た人が、ここはふたりしかいないじゃないですか、ライブで見た人が100人か1000人かわからないですが、そういう人たちがまるでここで50cmぐらいしか距離がなくてカメラの前は、中村さんと僕が話した関係性をそのままフレッシュにライブ配信されてるわけで、これを見た人がいつか中村さんに会いに来たりとか、この場所に来たりとか、そういうこの視聴体験がその人の行動を変えるきっかけになったらいいと思っています。」

中村:「いいじゃないですかその言葉。視聴体験がその人の行動範囲を変えることになったほうがいいって最後に言った言葉。それが本心じゃないですか。僕はその本心を聞きたいし、その本心を聞いたらそれに対してのアイデアが浮かぶんですよ。浮かぶってことは、ここは神田でこれから考えようとしていることは、川井さんのような姿勢であり、そういう創造性を街につなげたいんですよ。そこはわかりますよね。新しい仕組みをいろいろ作ってきてて、この20年間さっき言ったように、190本のフレームを作って、場を作って、自分もいろいろやりたいのを我慢して、作家たち友達たちを応援んして作ってきたという心意気はどこにあるかというと、今川井さんが言っているようなものを本当にやりたいんだったら、僕らは応援するよっていう雰囲気を作りたいんです。仕組みを作りたいわけ。そこに対して美術館だとかギャラリーだとか、マーケットだとか以前に、ローカルなエリアの中で、あなたを応援するバランス、あなたを応援する仕組み、川井さんを応援する関係、ここを作りたいのよ、僕は。わかる?」

中村:「じゃあ川井さんはライブ配信で心を変えたいんだったら、もっとライブ配信やろうよと。どうすればもっとライブ配信が豊かになるの。お金はいくら必要なの?どれだけ環境を作ればいいの、ベストな状況は何なのと聞きたい。」

川井:「僕はフィールド・オブ・ドリームスという映画が好きで、ケビン・コスナーがとり憑かれて球場作るんですよ。動機がわからないけど野球場を作ると、その人物にとって重要なものと出会う場所になるんですけど、なんかそういう感じなんですよ。僕もよくわかんないんですよ。この酒を飲みながらサシ飲みしてるのを100人、1000人が見るかも知れないっていう状態を作ってることにとり憑かれているだけなんですよ。でもこれにとり憑かれていると何かすごいことが起こるかも知れないっていう予感だけがあるんです。」

中村:「僕はそのとり憑かれている川井さんのピュアなマインドと、切実な想いから環境を作ってきた状況、機材がいっぱいあってライブ配信せざるを得ない状況でやってきたこと、でしょ。せざるを得なかったでしょ。ご本人は。」

川井:「普通の事務所にはしたくなかったんです。」

中村:「戦略もありつつの、でもその性も入ってきていて、川井さんの自分を出したいっていう欲求もありつつ、でも流れは自分の中でこういうものを作りたくて作ったわけじゃない。これって表現じゃん明らかに。表現なのよ。表現はものから出来事に明らかに変わってきてるじゃない。3331でも出来事を表現として扱ってきてる。ものだけじゃないよね。ものももちろんリスペクトする時代なのは当然でだけど、出来事作る人すごいよねっていう時代になっていて、川井さんのようなタイプの人は出来事作る人じゃない。でしょ。ライブ配信をして、このライブがたまんないんだって言ってるわわけじゃない。つまり個がマスを変える、全体を超えるわけだ、ある意味。朝チャンネルひねってる時よりも、このチャンネル(ライブ配信)のほうが視聴率が高くなる日だってくるわけだよ。でしょ。一対一が世界中の人が何万人も何十万人も見てる日が来るじゃん。川井さんが頑張ってくれれば。」

川井:「そうなんですよ。僕ストレンジ・デイズっていう映画が好きなんですけど、99年の12月31日の話なんです。ミレニアムの話ですべての記憶がMDに記録できるというコンセプトのSF映画なんです。僕はそれにすごい影響を受けていて、その頭にかぶるものをかぶると、その人の知覚とか聴覚とかの感覚ですね、そういうものが全部MDに入るというコンセプトを基にした映画なんです。これがすごい面白くて。その映画で記憶ジャンキーな男はいつも前の彼女のMDを入れてデートを再生してるっていうダメ男なんです。これがすごい最高なんですよ。」

中村:「でもそれは記憶の一部を、自分の脳では記憶しないものをMDに置き換えてMDの中で安定的に保存しつつ、その安定感を時々楽しみたいっていう別フォルダというか別ハードディスクみたいな意味合いでしょ。これは」

川井:「そうですね。」

中村:「でもその別物があるがゆえに、自分が客観視っていうか安定できるっていうことなんじゃないの?もしこれが一体になってしまうと混乱するかもしれないし、川井さんを見てるとその別物をうまく使い分けてる感じもするわけだ。こういう機材も含めて。まあ機材フェチかもしんないけど。でも川井さんの話でいくと、機材フェチであり、記憶フェチであり、記憶フェチなのかな、その思いを留めておくライブとは別の領域?、ライブやりたいって言ってる割には、ライブのものを保存したい、記憶させておきたいフェチでもあると。」

川井:「この状況というのは僕と中村さんしかいないじゃないですか。この部屋には。もしかしたらこの映像見てる人はスタッフがいっぱいると思ってるかもしれないけども、実はサシ飲みなんですよ。僕はサシ飲みは初めてなんですよ中村さんとは。」

中村:「そりゃそうだよ。」

川井:「今までいろんなところで接点はあるんだけれども、実は初めてなんです。」

中村:「サシ飲みしようって言われても行かないけど、(笑)今日はこの川井さんの素晴らしい企画だから、OKしてスケジュールを何日も何週間も前から入れて、この前のミーティングで喧々諤々やって何も解決しないままここに来たわけよ。」

川井:「えっ、それちょっとどういうことですか?」

中村:「いや時間的にギリギリで迫ってきたっていうだけ。ここに来る前のミーティングでもめたっていうだけ。」

川井:「僕がすごい緊張してるっていう状態はめっちゃ伝わってると思うんですけど、横綱とまだ十両の相撲を見てるような感じですけど、」

中村:「僕は殴ったりはしないけど、でも殴りそうになる時はある。(笑)」

川井:「やっぱ緊張しますよー」

中村:「なんで緊張するの?」

川井:「だってラスボスじゃないですか。僕からすると。しょうがないですよ」

中村:「それが嫌なのよ。自分でも鏡見ると嫌なのよ。川井さんとのプロジェクトだと、九州の企画会議みたいなので川井さんが初めて来てて、そこでアイデアをプレゼンしてもらったのが最初ですよね。もうめっちゃ生き生きしていてなんだろうこの人と思った。」

川井:「楽しかったですよ。僕もアートをまちづくりに、今でいうリノベーションなのかわかりませんけども、まだ子供もいなかったから嫁と行ったんですよ。嫁もそんなにアート詳しいわけじゃないんですよ。でもなんか面白そうだから行こうって行ったらすごい面白がってくれたんです。あのとき藤井さんもいらっしゃったし」

中村:「あれ面白かったよね。あれは藤井さんのゆるい性格というか藤井さんのなす技だったというか、台風だったよねあのとき。しかも強引だったよね。突然企画プレゼンして一等賞決めるって。昼カレーライスの接待があってよかったよね。あれ時々言うんだけど、各家庭のご自慢カレーを各家庭で出してくるっていうサービスでもてなしてくれたんですよ。カレー鍋が5個とか6個とかあって、それぞれ自由に食べていいっていう話だったの。知ってる?」

川井:「中村さん1年に何百プロジェクトもそういうの参加してるのに、一つのプロジェクトを鮮明にそれだけ覚えているのはすごいですね。」

中村:「いやそんなに覚えてない。」

川井:「プロジェクトによりけりですか」

中村:「うん、よりけり。でもあれはいい企画だったよ。すごいいい企画。カレーの話を見るたびに、僕はあれがいいと思うわけ。一つの美味しいカレーを食べるより、各家庭の5種類のカレーを並べてもらって、ちょっとづつ食べるカレーとほうがはるかに美味しいし、はるかに地域のことを感じる。お母さんたちがカレーを作って、外から来た人をもてなすっていうようにカレーをふるまうっていう行為の総体が素晴らしい。つまり個と全体のバランスがいいでしょう。個と全体のバランスがいい。だから出会えてるんですよ。その後も長く続いてる。」

川井:「あれはKANDADA時代でしたよね。多分2000年代後半というか2007〜2008年くらい」

中村:「多分そのあたりかな。いやあでも今日は本当に面白かったなあ」

川井:「本当にありがとうございます。これ忠実にテキスト起こしをしますので。」

中村:「ええっ、じゃあ最後にもうちょっとちゃんと言わせてよ。言わせるような質問して」

川井:「言わせるような質問?ちょっと待ってください。」

中村:「千代田区にお金もらったんでしょう?これ」

川井:「最後の質問はあるんですけどね。これはプロフェッショナル仕事の流儀みたいなパクリになっちゃうんですけど、中村さんにとってアートって何ですか?」

中村:「なんだそれ」

川井:「でもアートにずっと立脚してるじゃないですか。」

中村:「もちろん、もちろん言えますよ。どの辺から言います?アートのどういうところが聞きたいです?逆にわかんないことが聞きたい?なんでアートってこうなのとか」

川井:「アートというものというか、僕は中村さんを個人的にウォッチングしていて、街の人たちに新しい刺激を与えるためのアートみたいなことを僕は感じるんですけど、まちづくりとアートというような文脈を感じるんですが」

中村:「うん、それは接点がそこしかないからだね、多分。だからアートっていう領域は、最近よく言うんだけれども、例えば手のひらをあげて、こっち側とこっち側があると、こっち側はものすごい市民活動、でこっち側はめっちゃエッジな現代美術の最先端だと思ってもいいですよ。僕らの領域は両方あるんです。少なくとも僕は両方ある。ほとんどの人はこっち側に偏っているわけ、アート界の人は。現代美術であり専門領域であり、自分たちの専門性を世界の中で問うということをやっている。でもこっち側の子供達であるとか、おじいちゃんおばあちゃんとかアートの世界とは無縁の人たちとどういう風に関わるかということに対しての領域は、あんまり議論されてこなかった。今までは。僕らが学生の頃も誰もここには関心がなかった。ほとんどの人は。でも僕がやってることはこちらの比重が高いから。比重が高いから僕がやってることのうち、川井さんはこっち側のことを結構見てるわけ。市民活動よりのものを。もちろんこっちの専門性の高いものもやってるわけ。でもやっててもそこは領域としては感じにくいかもしれない。じゃあ市民性と現代美術なり美術の専門性の2つの振れ幅は一体なんなのと。何なのこれは?どう思うの、川井さん」

川井:「うーん」

中村:「アートってどっちも言ってるのよ。子供の中にある美術教育も、ベネチア・ビエンナーレも両方アートって言ってるわけ。」

川井:「自分の感覚がどういうものなのかっていうことを測るきっかけなんじゃないですかね、アートは。」

中村:「うん」

川井:「自分はこういう風に感じるんだみたいなことは、映画とか漫画とかそういうものとはアートは違うというか、答えがないから感じない人もいるわけで、感じる人もいるし。例えば子供を連れて行った時に、感じるつまり何か面白がってるものもあるし、面白がらないものもあるっていう、それが僕は面白いと思ってます。」

中村:「つまり?アートとは?」

川井:「その人の感性がどう反応するかを測るリトマス試験紙みたいなもの。」

中村:「おおーっ!それは市民側もプロフェッショナル側もということを言ったからかもしれない。でも本来市民側から考えると、アートっていう言葉はほぼ無縁なんです。無縁でどっちかっていうとアートっていう言葉に対しては拒絶するぐらいにわかりにくいと思ってる。でもポイントはグラデーションなんですよ。ここから変わるっていうのではなく、微妙に変わっていくわけ。こっちのめっちゃ専門性のある領域、芸大を受験してとか芸大の先生やギャラリーを経営しているとか、そういう人は明らかにこっち側じゃないですか。ですよね。でもギャラリー経営している人だって、ある時からギャラリーを経営することになっただけであって、段階があるわけですよ。生まれた時からギャラリーを経営しているわけじゃない。そうなると、市民性から専門性に行くグラデーションてのはすごく幅広いんですよ。これは時間軸も考えていくと非常にレイヤーが深い、複雑。もちろん去年僕もベネチア・ビエンナーレ出させてもらって、作家性を問い、でもしかしアートワールドに対して幻滅し、こんな傾向と対策のアートワールドで演技はできないと、演技できる人はやってよと。俺はできないと。できないんだったらどこに来るかというと、振れ幅が極端にこっち側、市民性に行ったわけです。市民性に極端に立って、街に出てみたら誰も俺のことは知らないし、僕のやってることも知らないし、自分がアートって言ったって誰もわかんないわけですよ。誰もわかんない領域になって、じゃあ何が通用するのって言った時、すべてをやんなきゃいけない。プロデュースもするし、ディレクションも作家も元々やってただけど、さらにやんなきゃいけない。ポスターも作ったりして。それを見て市民側からすると、中村さんやってること意外と面白いねと言ってきてくれるわけよ。意外といいじゃないっていうような。で評価を受けてくると、頭に乗るじゃない。また新しいアイデアを出すわけだ。」

中村:「富山県の氷見市でも、きっかけは同級生がいたんだけれども、結果として例えば川を使ったプロジェクトを作ろうとか、川の水の流れの中だけであるレースを作ったりとか、そこで資金を得て、得たものを次の和船を構築するための費用に回すとかの流れを設計したわけ。これっていうのは、アートの専門性のある人たちにはまったく関係ないし、どうでもいい話なんです。だって何もアート界の話題になる要因がないから。ごく一地域の田舎にある市民活動だから。でもちゃんと考えてみてくださいよと言いたいわけ。市民活動として、そこに現場にいる人の目と心はちゃんと見てるんですよ。この中で。つまり、計画して実行するというプロセスをこの市民活動してる人たちは全部見てる。そしてジャッジしてる。相当厳しいジャッジです。厳しいジャッジというのは、まちづくりする人なんかはめっちゃ厳しいわけ。その税金をどう使っているのか。どういうプロセスでどう還元して、安全管理はどうなのとか、めっちゃ厳しいわけ。ここの厳しさは、圧倒的に美術の専門性がある美術館、ギャラリーまたはそれに準じた仕組み、国際展ベネチア・ビエンナーレに出ていく仕組みなんかより圧倒的に厳しいわけ。この厳しさに心を打たれたわけよ。当たり前だよね、街って厳しいじゃない。となると作家としてどっちを考えなきゃいけないのって言ったら、市民を考えた作品を作っていく、プロジェクトを作っていく、自分はそこで鍛えていく、そういう方向に2001年以降シフトしたわけよ。こっちの世界はぬるくてぬるくてしょうがなかった、僕の中では。」

川井:「すごいですね。」

中村:「まあ大変だよ、また話ふりだしに戻ったような感じになったね。どう繋げる?」

川井:「いやーありがとうございます。もう今日は」

中村:「はい。じゃあもう終わりだね。次回また話そう、どこかで。」

川井:「質疑応答にならないようにとも思ってたんですが、質疑応答どころの話じゃなくなってます。ありがとうございました。僕もだんだんろれつが回っていない。大変失礼しました。ありがとうございました。ではここで終了ということにさせていただきます。」


<前半>

インタビュー収録日時:2017年11月30日
インタビュー開催場所:ヒマナイヌスタジオ
テキスト起こし:田附克巳


※本記事は筆者ブログからの転載です。

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