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《浜通り旅二日目》日の出と、リスクと、未来へ残すもの

福島の海沿いを歩く旅二日目。
初日に泊まった宿で目覚めたのは午前4時。

カーテンを開けたままで寝て、空が明るくなり、鳥がさえずりだしたて、目が覚めた。


泊まったホテルは、海側に開けている部屋で、日の出が見える可能性あり。オーシャンビュー。

寝ぼけまなこで、宿泊地富岡の日の出時間を調べると4:40頃。

寝ては起きて、時間と外の様子を確認する。

水平線に雲らしきものがあり、半分諦めかける。

すると、

見えた!


メラメラ太陽が揺れて、線香花火みたいだ!


どんどん上がっていきます

このペースで天空を半日ほどかけて昇って落ちて、半周するのかと思うと毎日のことなのに感慨深い。何億年、何千億年?も繰り返しているのか。

海からの日の出を見るのはきっと二十年ぶりだ。

どんどん日は昇り眩しくなってくる。

カーテンを閉じてまた寝る。

七時に朝食を食べに、食堂に下りる。

バイキングです

朝は牛乳が旨かった!東京で飲む牛乳じゃない、これは生乳下?福島は牛乳が旨い。

興奮気味に、牛乳と味噌汁を飲み過ぎたら、部屋に戻り少ししてお腹が…

やばい、今日の行程もトイレとかないぞ。

チェックアウトして歩き出すと、天気予報が外れ暑い。体が熱くなったらお腹の調子も良くなった。

近くにある東京電力廃炉資料館に行くと混んでいて、一時間待ちなので諦め、受付の人に国道6号よりも海沿いの道を行けるか聞いたら、少しは行ける、というので浜街道を昨日に引き続き歩く。

しかし、小一時間も歩くと、帰宅困難区域の表示があり、結局内陸側の国道6号を、歩くしかなかった。


地面からくる放射線量が0.23μSv以下だと、住んでも人体に影響がない目安だそうで、このあたりは0.2くらいでした。

ここから内陸部の国道6号を目指します。

帰宅困難区域と住居可能のギリギリのところに、様々な原発事故の処理に携わる人の宿泊施設や事務所がありました。

国道に出ると、車の量がすごかった。

仙台と茨城方面を結ぶ大動脈で、天候のいいゴールデンウィーク。そうだ、世の中はゴールデンウィークだったのだ。

地元の「いわき」ナンバーの車は1割あるかないか。東北、関東の他のエリアの車ばかり。

天気予報も外れてどんどん気温が上がります。

歩道がないところもある。

人が入れそうな横道はどんなところも、柵で閉じられている。

昨日とうって変わって殺伐としている。
暑さだけでなく車が真横を猛スピードで通り過ぎるので、気持ち的に消耗してくる。

自分が歩いている国道6号線は立ち入り禁止区域の中で(国道沿いだけは通行可能)、今日のルートは巨大な、第一原発を中心とする汚染土の中間貯蔵施設に沿って歩いていることになる。

この辺りは、国道にも放射線量を表示している電光掲示板があり、次第に数字が上がってくる。

電光掲示板はスマホが撮影しにくく不明瞭。
ここは0.597μSv/hくらい。住める基準は超えている。

今回の旅で知りたかった事。原発事故の後に、福島県中にあった除染物質を詰め込んだ黒いデカい袋(以下、フレコンバッグ)は、どこに行ったんだろう、ということ。歩きながらもずっと考えていた。

すると、この看板。

中間貯蔵工事情報センター

トイレのマークもある。入ろう!

入った。スタッフが何人がいる小さな情報センター。「勝手に見ていいですか?」と聞くと「お時間はありますか?」と聞かれた。

「まぁ、適当な旅なので」というと、二十分程是非説明させてください、とのことだった。

この情報センターについて。

当初、福島中で除染作業をした時に出た汚染物質をフレコンバッグに入れ、とりあえず、各地に積んでいた。処分の方法を簡単に決められなかったのだろう。

しかし、それらが街にあると、生活が正常化しないので、当面生活できない避難指示区域の福島第一原発の周りにほぼ全部集めた、ということになるのだろうか。確か東京ドームの十倍くらいだったとか。

それをいま、中間処理し、コンパクトに貯蔵する作業に入っている。

除染作業で出たものの中には土だけでなく木の枝やゴミも混ざっている。フレコンバッグごと荒く砕いて、2回ふるいにかけ、燃やせるゴミと土に分ける。

燃やせるゴミは強い火力で燃やして灰にするものと金属片に分けて、最小化させる。これで残った純度の高い金属片はものすごい放射性を持っているので厳重に保管する。

土に関しては、除染の地域によって、低放射性か高放射性かをあらかじめ分けている。ふるいにかけられて粒が2cm以下のものは、放射線量が低度のものと、高度のものとで場所を分けた上で、中間貯蔵を原発の周りで、巨大な盛り土の形で行っている。


白いところが、第一原発。下の方で波打っている白い線は私の歩いた国道6号。その間の茶色は、土の中間貯蔵場所。その周りに、土をふるいにかけたり、焼却したりする施設がいくつとなくある。

この情報センターを受け持っている企業は、IAEAなどの視察でも案内をするような人達。

私達一般国民に一番伝えたいことは何かというと、低放射性の土は適切な使用をすれば、例えば農地の底の土に使っても、(その土の上30cmくらいの一般の盛り土をすれば)、国際的な放射線量基準を大きく下回る農作物ができていることをなど、安全性を知ってもらうことではないかと受け取った。

地元の農家さんと協働で栽培実験をして、全く問題ない数値になっているそうだ。

あと二十年後位には、ここに集まっている土の中で放射線量が高いまま街で、再利用ができないものに関しては福島県外に最終処分場を決めて、移動させなければならない。

中間貯蔵している、低放射線量で適切に使えば生活に影響がない土を、できる限り日本中で利用することで、最終処分場に持っていく土を減らすことを理解してもらうことが、このセンターの一つの使命だと感じました。(そうしないと、すべてを結局福島県内で保存しなければならないから)

今日の旅は、徒歩旅のルートとしては単なる国道で、全く心が安らがないもので辛かったが、この情報センターでの説明を聞いて、まるで福島第一原発の周辺を案内してもらえたような(画像などを含めて)経験になり、大変ながら来て良かった。

私からもたくさん質問させてもらったので、二十分どころか一時間ほどになりましたが、また新たな気持ちで歩き出しました。

一層暑くなり、第一原発に近づき一層放射線量も上がってきました。

1.253μSv(一時間あたり)

住める基準の5倍以上。帰宅困難区域で中間貯蔵施設の真横なので、不思議ではない。

ちなみに、成田からロサンゼルスまで国際線に乗ると、宇宙線という太陽からの放射線で、0.1mSv位受けるらしいです。0.10mSvは100μSv。

この地域を2〜3時間歩く分には、被ばく量は、3μSv。大丈夫。

一応、第一原発も少し見えたんですが、もうどうでも良くなってきました。

施設が見えてきました


立入禁止は厳重ですが、ここのように人が立っているところはあまりないです。その向こうに緑色のカバーでフレコンバッグの山が覆われています。

原発事故の後処理が大変なことは、ニュースで聞いていましたが、福島中で除染作業をして、その汚染された土などをすべて第一原発のまわりに持ち込んで、様々な処理をして、貯蔵をしながら、最終処分を考えていくという途方もない時間と労力と無限大に近いお金が使われていることに圧倒された。

これらは、私達だけでなく子どもたちの世代に負担として引き継がれていくのか、と思うと、ものすごいことがまだ、続いているんだなと重たい気持ちで傷んできた足で歩き、ゴール、双葉駅に着いた。

電車は一時間後。

でも、待ち合わせの時間はあっという間。

そして一駅で久々の浪江町。

このマンホール?、絵が好きで気持ちが救われました。バッチがあったら買いたい。

夕飯は、ホテルの近くのAEONでツマミの大人買い。

部屋で福島のローカルニュースを見ていたら、第一原発のある大熊町で農業を始めた若いフランス人の話が紹介されていた。

思うに、日本のデフレ時代は、商品の価格だけでなくて、「リスクをなるべく取らない」という気持ちのデフレでもあった気がする。

リスクを取らずに、誰かと同じように適当に批判したり同調したり。

でも、これからはリスクをとってでも、人生も、世界の未来も切り拓いていく人の時代になる気がした。

みなさんも、note、切り拓いていってください。

今日も長文をありがとうございました。

飲んで寝ますー

(続きです↓)