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【燕三条でキッチンのリフォームを考えた前編】燕三条でものづくりが発展した理由

結論: 農家の副業から「あったらいいな!」に発展した



燕三条に行ってみた

燕市と三条市は、新潟県の中央部にあり、新潟市から新幹線で1駅12分、在来線では、越後線吉田駅または信越本線東三条駅で弥彦線に乗り換えて1時間ほどかかります。

燕市と三条市は、ものづくりの街として知られています。キッチン用、園芸用など、さまざまな場面で使える製品がそろっていました。キッチンのリフォームを考え、燕市と三条市で作られた製品を買うために、燕三条駅構内にある燕三条ウイング、燕口から徒歩10分ほどのところにある燕三条地場産業振興センターを訪れました。

燕三条ウイング

JR燕三条駅構内の2階にあり、上越新幹線、弥彦線のホームからも近いです。デザイン性、機能性に優れた、「あったらいいな!」という製品に出会えます。手の温度が伝わって、ほどよく柔らかくなるアイスクリーム専用スプーンは、思わず買ってしまいました。1000円でお釣りが戻ってくる値段で、お土産にもぴったりです。
燕三条でつくられたアウトドア用品が集まったアウトドア展など、ものつくりのイベントも定期的にあります。
また、弥彦神社、岩室温泉など、燕三条地域の観光情報を仕入れることもできます。さらに、Wifiや座席も整備されており、電車の待ち時間にもぴったりです。

道の駅 燕三条地場センター

キッチン用品、園芸用品など、日常に使える製品がそろっていました。収納が便利で収納スペースもとらない、コンパクトなフライヤー、ヤカンや、トウモロコシの実を外す道具など、「あったらいいな!」を形にした製品が販売されています。
銅、アルミなど素材の違いがわかるタンブラーも販売されていました。材質による雰囲気、熱の伝わりやすさの違いなど理系心をくすぐります。
インテリアだけではなく、お土産として、燕三条地域、新潟県ならではのグルメも販売されています。

燕三条イタリアンBitというレストランもあり、食事だけではなくカフェとしても利用できます。新潟県の食材や気候を利用したコーヒー、スイーツがそろい、一息できます。タンブラーなど燕三条で作られた洋食器で盛りつけられていました。また、レストランでも食べられるスイーツ、パスタソース、厳選した燕三条のキッチン用品も販売されていました。

燕三条の洋食器とバスクチーズケーキ
燕三条製のタンブラー(一部写真加工あり)

なぜ、燕市と三条市は、ものつくりが発展したか?

農家の副業がきっかけ

燕市内と三条市内は、信濃川、五十嵐川、中之口川が流れています。江戸時代、これらの川で氾濫が頻発しました。氾濫するたびに川の流れ、平野の場所が変わり、米などの作物が安定してとれない場所でした。
特に燕市では洪水が多く、たびたび浸水したため、氾濫の被害が燕市より小さかった三条市が先に発展したと言われています。

1625年、江戸から三条にやってきた役人の大谷清兵衛が、農民の救済のため、江戸から釘鍛冶を招きました。当時、江戸では、人口が急増中。住宅地など建設ラッシュが起こり、建築用材の一つである和釘の需要が高まっていました。

三条市の産業の発達

新潟県の東は、福島県があり、江戸時代から会津街道によって、つながっていました。会津は、鶴ヶ城を中心とした城下町をつくるため、建設業が発展しました。会津のノコギリ、ナタなどの製法が三条に伝わり、刃物がメインの金属産業が発達しました。さらに、南東の旧下田村から五十嵐川を通して木炭、日本海から信濃川を通じて鉄が運ばれました。

また、三条の商人は、全国各地から求められているものについて、情報を集め、職人に依頼して安く作って販売されて全国に広まりました。これが、現在の最先端工業に通ずるきっかけになりました。三条の商人は、「何が必要か?」という意識で情報を集めていました。

1923年9月1日に発生した関東大震災の復興のため、大正時代には、大工道具が生産されるようになり、被災地に送られました。
燕市と三条市は、弥彦線が通っています。弥彦線は、元々弥彦神社の参詣客のために、つくられました。1926年の全線開通により、越後線、信越本線と接続しました。信越本線とつながったことにより、東京とつながり、物流も発展し、さらなる三条の産業の発展に貢献しました。

高度経済成長期には自動車の普及により、大工道具から作業工具へ主役が変わりました。時代の流れに沿って金属産業の主役も変化しました。
現在では、測定機器、アウトドア用品、冷暖房器具など多種多様の製品をつくるようになりました。

燕市の産業の発展

燕は、洪水の被害が三条より多く、三条より遅れて発展しました。三条から請負で和釘の生産を続けていました。越前国小浜(現在の福井県小浜市付近)と並び、和釘の名産地として知られるようになりました。

江戸時代中期に、間瀬銅山(現在の新潟市西蒲区付近、弥彦山の北麓)が開かれ、大正時代まで銅が採掘されていました。間瀬銅山がきっかけとなり、燕市が銅製品で発展しました。間瀬銅山でとれた銅から、鎚起銅器《ツイキドウキ》、キセル、矢立(携帯用の筆と墨壷がセットになった元祖筆ペン)がつくられました。鎚起銅器とは、一枚の銅板から、叩いて延ばしたり、丸みを帯びたり、変形させて作った銅製品を指し、やかんなどがあります。銅は鉄より熱が伝わりやすいため、温まりやすく、鉄のやかんより、早くお湯が沸きます。

しかし、明治時代、和釘から洋釘、キセルから紙タバコ、矢立から万年筆に変わり、衰退し始めました。

燕市が再び、ものつくりの街として発展した理由は、1914年から始まった第一次世界大戦。戦禍の広がったヨーロッパでは、洋食器工場が軍需工場に切り替えられました。そのため、ヨーロッパの国々は、洋食器の代替生産国を求めていました。鎚起銅器によって高い金属加工技術を持っていた燕市が注目され、1915年から金属洋食器の生産が始まりました。現在では、国内生産量の90%ほどを占め、世界へ輸出されるブランド品として成長しました。
1921年、ステンレス鋼によるキッチン用品の生産も始まりました。

間瀬銅山の発見による銅製品の発展から、現在では、フォーク、スプーンなどの洋食器や、タンブラーなど時代に合わせた製品がつくられるようになりました

オススメの燕三条製品

持ち運びも収納も便利なやかん

水不要!野菜のうまみを凝縮したカレーが作れる鍋

まとめ

燕三条地域を流れる河川の氾濫が頻発し、農業が不安定。

燕より被害の小さかった三条が先に和釘の生産を開始。その後、会津藩から刃物類の製造が伝わり、鉄製品が発展。

一方、燕は、三条の下請けとして和釘を生産。しかし、間瀬銅山の発見により、銅製品が発展し、三条に依存しなくてよくなりました。第二次世界大戦を機に、ヨーロッパから洋食器の生産を依頼され、発展。

現在、燕三条地域では、キッチン用品、アウトドアなど「あったらいいな!」と思う製品が造られるようになりました。

後編へ続く

後半では、燕市と三条市でそれぞれ誕生したラーメンについて話します。「隣街なのに、ラーメンが大きく異なるのはなぜ?」お楽しみに。

燕三条wing
営業時間 10:00~18:30
定休日 12月30日~1月1日
アクセス JR燕三条駅直結

道の駅 燕三条地場振興センター(物産館)
営業時間 9:30~17:30
定休日 毎月第一水曜日、年末年始
アクセス JR燕三条駅から徒歩10分

道の駅 燕三条地場振興センター(燕三条イタリアンBit燕三条本店)
営業時間 ランチ 11:30~15:00
     カフェ 15:00~18:00
                  ディナー18:00~23:00
定休日 水曜日+不定休
アクセス JR燕三条駅から徒歩10分

参考文献

鈴木郁夫、赤羽孝之,(2007) . 新潟もの知り地理ブック . 新潟日報事業社.
花ヶ前 盛明 ,(2011) ,新潟県謎解き散歩 ,新人物往来社.
NHK,(2023年09月09日放映),「燕三条〜燕VS.三条 モノづくりの町 発展のカギとは?〜」『ブラタモリ』

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