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弘前は、なぜフランス料理店が多いのか?

 青森県西部にある津軽半島。中心都市の弘前市のシンボルが弘前城。1882年、旧弘前藩士の菊池楯衛が城内に1000本もの桜の木を植えたことが始まり。1918年以降、毎年お花見が開催されています。例年、ゴールデンウィークになると桜を求めて全国から200万人もの観光客が集まります。2023年は4月7日に開花宣言が出てました。平年より15日早い開花宣言は観測史上1位の早さです。4月13日に満開になり、現在、まさに見ごろ。桜のトンネルなど1700本ものソメイヨシノが咲きほこり、弘前城をピンク色に染めます。例年であればGW前半に見頃を迎える桜ですが、2023年はすでに散っているかもしれません。
 今回は、弘前市について旅行した話を書きます。

弘前城

 弘前公園の核となる弘前城は、弘前藩の行政の中心でした。1603年、津軽を統一した津軽家初代藩主津軽為信が計画を立て、1611年、二代目の信枚が完成させました。廃藩置県により陸軍の管理になった後、1894年5月、弘前公園として開放されました。
 現在の天守は1811年に再建されたもの。石垣工事のため、天守は本丸の内側に移動されています。2025年までは、移動した天守が見られる貴重な期間。JR 旧奈良駅(現在の奈良市総合観光案内所)の建物の移動時と同様に、建物ごと持ち上げて移動させる方法を採用しました。弘前城は、1983年に発生した日本海中部地震により石垣がズレました。この地震では弘前市でも震度5を観測しました。石垣の崩落を防ぐためにも、修復が必要と判断されました。

移動した弘前城天守閣

 公園内にある弘前城情報館では、弘前城の歴史、津軽氏の歴史などを知ることができます。

洋館

 1872年、廃藩置県によって弘前県となり、青森県に改称されるまでの2ヶ月間、県庁が置かれました。青森市に県庁が移った後も青森県の中心の存在としてあり続けました。
 1895年、弘前~青森間に鉄道が開通、1899年、第八師団司令部が設置され、軍都としての機能も持ちました。
 さらに教育にも力を入れていました。明治時代、外国人宣教師を積極的に迎えてキリスト教、欧米の進んだ文化、教育、技術を導入しました。1922年には、官立弘前高等学校(現在の弘前大学)が開校しました。
 軍都、教育に力を入れていたことを背景に、ユニークな洋館が弘前市内に建てられました。現在も弘前城の南側を中心に保存されてます。 
 当時の有名な建築家は、堀江佐吉。大工として函館、札幌で公共事業に携わり、洋風建築に出会い、研究しました。地元に持ち帰って、津軽地方に洋風建築の設計、施行に携わりました。洋風建築をベースに、日本の伝統工芸を応用させ、和洋折衷の個性的な外見、内部までこだわりを詰め込んでいています。街中散策で個性的な17の洋風建築に出会うことができます。
 今回は、そのうち4軒の洋館を眺めました。

旧弘前市立図書館

 赤いドーム屋根、木目もわかる白い外壁、緑色の窓枠が印象に残る建物。1931年まで図書館として利用された後、賃貸アパート、喫茶店としても利用されました。現在は、弘前藩の資料が保管され、内部を当時の図書館の状態に戻しています。歴代館長の写真などが展示されていました。

旧五十九銀行本店

 1904年建設。1943年、青森銀行になり、青森銀行弘前支店に変更され、1965年の移転まで銀行として利用されていました。現在は博物館として利用されています。木造2階建て青いトタン屋根、天井には、「金唐革紙」という貴重なものが使われ、内部には、防火窓、青森のケヤキで作られたカウンターなど見所です。

旧東奥義塾外人教師館

 青森県初の私立学校、東奥義塾(中学、高校として現存)の外国人宣教師の住居。当時の書斎、寝室が現存しており、当時の生活を知ることができます。裏には弘前市に建てられた洋館のミニチュア、1階にカフェが併設されており、優雅なひとときを送ることができます。

スターバックス弘前公園前店

 陸軍第八師団長官舎(1917年創建)をリノベーションしたお店。元々は弘前市長の公舎、戦後に米軍の進駐部隊司令官宿舎として使用されていました。日本で2番目にイノベーション店舗として建物をそのまま活かしています。お土産にぴったりな商品が、津軽地方限定の4種類のびいとろ。びいどろとは、青森県で作られている厚手のガラス製の容器です。ガラスの浮玉を砕いたものが原料です。大きな特徴は、底のまだらもようの美しさ。共通の雪をイメージした白に加え、弘前市限定の弘前公園に咲き誇る桜をイメージしたピンクのびいとろが販売されています。


 詳しくはこちらをお読みください。

 ほかにも、陸軍第八師団の厚生施設であった旧弘前偕行社、ゴシック様式の赤レンガ造りの教会など、17軒もの建物を弘前市内て散策できます。

フランス料理

 中国料理、トルコ料理と並んで世界三大料理の1つ。フランス料理は、16世紀、宮廷にイタリア料理を持ち込んだことがルーツ。1533年、ランス王であるアンリ2世の妻がイタリア出身で、イタリアのシェフを宮廷に連れて行ったことにより、イタリア料理がフランスに伝来しました。時が経ち、17世紀になり、フランスの宮廷に伝わったイタリア料理が独自の料理を目指した結果、高貴な料理に変貌を遂げました。この時に、テーブルマナーも誕生し、上品で高級な料理というイメージができました。しかし、18世紀末に発生したフランス革命により、王政が崩壊。この影響により、宮廷の料理人が失業し、街中でレストランを開業するようになり庶民にも広まりました。
 格式が高く高級なイメージのあるフランス料理は海外からの来賓へのおもてなしのため、明治時代に日本に伝わりました。同時期に弘前に伝来しました。当時は外国人宣教師の食事として採用されました。海の幸、山の幸の豊富な青森の食材と研究熱心な料理人が融合した結果、弘前にはフランス料理を提供するお店が増えました。
 今回は、「レストランポルトブラン」で月替わりのオススメランチ2600円(2022年8月当時)をいただきました。オードブル、スープ、魚または肉料理のメイン、デザート、パン、コーヒーという正統派のフレンチコースをランチで堪能しました。高級なイメージのあるフランス料理ですが、リーズナブルで格式高い雰囲気を味わいました。盛りつけも美しく、ソースの種類も多い料理。サーモン、ホタテ、タイなど海の幸から青森鶏など山の幸まで様々な食材とフランス料理の豊富なソースの種類の組み合わせを堪能できました。日本料理とはちがう素材の活かし方を感じました。


 テーブルマナーを学んでから堪能すると、より高級なお店へ挑戦もできるようになります。

営業時間 11:30~14:30、17:00~21:00
定休日       日曜日
アクセス JR弘前駅から徒歩30分、弘南鉄道中央弘前駅から徒歩10分

 弘前市は春の桜、秋のリンゴだけではないことを感じました。洋館めぐり、フレンチを堪能するなど楽しみが多くありました。

まとめ

 江戸時代は弘前藩の拠点で中心都市の機能を果たし、明治時代は軍事都市でありながら、教育に力を入れた街に変貌。外国人宣教師を呼び、積極的に海外文化を取り入れ、食事のためにフランス料理を導入。その結果、街中にフランス料理店、洋風建築が増加。

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