0003リコリスガール

リコリスガール

わたしの影。わたしは彼女のことをリコリスガールと呼ぶ。正確にはリコリスキャンディガール。リコリスキャンディはわたしがいちばん好きなお菓子。真っ黒で、およそお菓子らしくないその姿。おそるおそる口に運んだ時の衝撃、まずい! 真っ黒で、あまにがくて変な味。ゴムみたいで、わたしはしかめ面をしていた。それなのに、たちまちその袋を食べきるほど癖になり、やみつきになって、足はすぐに輸入食材屋さんに向かっていた。
それでわたしは、わたしの影を親しみを込めて、リコリス、と呼ぶことにする。最初はあんまりいい顔をしなかったな。影の彼女もリコリスはいっしょに食べていたから、その味は知っている。彼女にはそんなにお気に召さなかったみたい。黒いものばかり食べている彼女に、その風体の異質さは感じなかっただろうけれども、味や触感が好みではなかったんだろう。でも、わたしのお気に入りだと知って、受け入れることにしたみたいだ。
わたしの影。黒くてあまく、いなくなったら口寂しくなってしまう、わたしのいちばんの友達。

わたしがわたしの影に出会ったのはいつのことだろう。もちろん、生まれた時から、だということは理解している。産道をくぐり抜けた先、強烈なライトに焼かれるようにして彼女もまた、生まれた。
想像をたくましくて、おなかにいる頃から、とも考える。行き交う、母の胎内の血液。ピンク色に染め上げられた内蔵がほのかに明滅していて、わたしは照らされていたかもしれない。影も胎動していたかもしれない。それはわたしのあずかり知らないことだ。わたしに胎内にいた頃の記憶など微塵も残っていないし、それは影にとっても同様で、赤ちゃんだった頃の記憶はない。
わたしたちが出会ったのは(お互いを意識したのは)よくある出来事からだった。わたしは、隣の家に住む、かれんちゃんとよく遊んでいた。ある時、彼女がかげふみをして遊ぼうと言ったのだ。わたしは、いいよ、とこたえた。
きっと、わたしの他にも、こういう人はいるのじゃないかと思うけれど、かれんちゃんが、わたしの影を踏んだ時、わたしに強く痛みが走ったのだ。それは、実際的な痛みではなくて、心が痛むというようなことだったと思う。胸の辺りが、重苦しく詰まるようで、こわいような、泣きたいような、変な気分になったのだ。
「あなたが鬼よ」
かれんちゃんにそう言われても、わたしはもう、うまく動くことができなくなってしまった。大事なお人形をよごされたみたいな、そんな気分になったのだ。
今もまだ、わたしは他人の影を踏むことは苦手だ。ただ、わたしの影が踏まれることに関しては、もう苦しくない。それは彼女が、踏まれることをひとつも苦にしていないからだ。彼女は言う。
「だって影だもの」
いたくもかゆくもないわ。
それでも、わたしは、影を踏まれた時の人間の心の痛みを知っているから、なるべくそれをしないようにしている。とはいえ、不自然にならないようにも心がけている。目の前の人の影を踏みながら、わたしは愛想笑いを浮かべることもできる。あなたの心が、どうか痛みませんように、と祈りながら。
リコリスは他人の影が重なっても苦しくはないの。
「さあ。影は影よ」
よるとはちがうもの。
夜になると影は少し気を塞ぐ。わたしが、朝、ベッドの中で少し気が塞ぐように。
楽しい夜もあるわよ。
もちろん、と影は言う。あなたの夢の中は、たいがい楽しい。

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収録:真昼に落ちた流れ星


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