宇佐見りん『くるまの娘』
『推し燃ゆ』は未読だが、複雑な家族の環境を描く物語として惹かれた。母は記憶に問題があって(脳に疾患を抱えていて)、時折自らの心をコントロールできなくなる。父は怒りをうまくコントロールできず、時折暴力的になることがある。そんな家族に距離を取るために、三人兄妹の長兄、末弟は家を出るが、主人公であるかなこ(かんこと物語の中では語られる)は家を出ることができない。
家族に問題があるにもかかわらず、その家族を捨てることができないという物語は山ほどあるだろうし、その結末部分でその家族と残酷に別れる決意をするという物語も多く書かれているだろうが、この『くるまの娘』には90年代の岡崎京子的な要素を感じることもできる。アルコールを体内に含んだ際の母親の暴力性や、父親の時折見せる残虐な言葉のぶつけ方は当然既視感があるが、主人公かなこはその二人を拒絶することなく、受け入れることを選択する。
問題はかんこがヤングケアラーであるということに収まらない。彼女自身も、精神を病んでいることが明らかになるからだ。学校では次の授業が始まって教室を移動しなければならないのに、同じ席で眠り続ける。そのようなかんこに手を差し伸べてくれる存在はこの物語の中では描かれない。救いを求める長兄や末弟は家を出ており、かんこが日常的に頼れる人物はどこにもいない。
そのような家族が父親の母の葬儀から自宅に戻る場面はリアリズムから離脱をしたように描かれる。狭い車内で末弟を含めての口論の後、かんこはいつの間にか眠りに落ちる。気づくと、運転していたはずの父親ではなく、母親がハンドルを握っている。母親が一家心中を試みているようだが、唐突に描かれるその場面はかんこや読者にとってはそれがリアリズムなのか、あるいはかんこの夢なのか判断がつかない(このあたりでかんこは何度も微睡に落ちるため)。父親も弟も母の選択を積極的に止めようとはしない。
この一家心中は未遂に終わるが、この後かんこは両親とは同じ屋根の下に暮らすことができなくなる。距離を取ることで彼女の精神はゆっくりと回復に向かうのだが、結末部分でも不穏な空気が続く。父親がかんこの暮らす車に乗り込んできて、買い物に行くと言う。その誘いにかんこは乗るが、父が運転する車はどこに向かうのかわからない。父親は自分の母との距離感に苦しんできたのだが、決定的な断絶を認識したエピソードがかんこに話されるとき、かんこがイメージするのはやはり心中である。絶望から逃れることができるのは死であるというイメージだが、その解決策に彼女/父/母が安易に乗らずに苦しみながら生きているという物語である。
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