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「生々しさ」が共感を呼ぶ文章をつくる

ライターとして文章を書くなかで「共感を呼ぶ文章」とはなにか? を考えてきた。
「拡散されやすい(ブログやメディアの)文章には、読者を『共感』させる力がある」と聞く。だけど、どうすれば他人に「共感」してもらえるのだろう。

考えた末に、たどり着いたのが「生々しさ」だ。
共感を得やすい文章には、生々しさがある。自分が書いた文章を読み返すときも、他のライターの文章を編集するときも、そこに生々しさがあるか否か、気をつけてみるようにしている。

では「生々しさ」とは何か? 答えはいくつかある。

まず「失敗」。失敗そのものを書くのもひとつの方法だが、それよりも何かが起きた、起きたことによって変化が生じたということを中心に書き、そこに「実はこういう失敗もあった」というエピソードを混ぜる。そのことによって共感を呼ぶのだ。

もう何年も前の話だけど、ゲーム開発者向けのカンファレンス(会議)で、あるサッカーゲームのプロデューサーの講演を聞いた。国内だけで100万本以上販売している人気ゲームなので、「自分たちはどのようにして成功したか」という話だと思っていたら、「こういうところで失敗した」というエピソードが中心で、そのゲームを知らない僕でさえ、すっかり話に引き込まれた。いま思えば、こんなヒット作を生み出す人でも失敗するのだなという思いから、「共感」していたのだろう。

喜楽はいらない「怒哀」をにじませよう

「生々しさ」を感じさせるもうひとつの方法は「怒哀」を書くことだ。

「喜」と「楽」を抜いたのは、理由がある。この2つは共感というよりはむしろ、「憧れ」の対象であると考えたからだ。たとえば有名人が「喜」や「楽」について書くと、「いつかは自分もあんな風になりたい」という憧れとして注目を集めることがある。しかしそれは、「共感」とは異なるものだ。

だから我ら無名な者は、「怒哀」について書くのがいい。平たくいえば、自分をさらけ出すのだ。恥ずかしがったり、イメージを守ろうとしたりしないほうがいい。思ったこと、感じたことを正直に書く。

ただし、ここでも「怒り」や「哀しみ」が文章のゴール、つまりは主題になってはいけない。先ほど挙げたように、書くのはあくまでも「変化」。その変化の過程で生じた「怒り」や「哀しみ」を書くことで、結果として「変化」を共感させることができる。

何を言っているのかわからないと思うが、書いている僕も「わかりにくいだろうな」と思っているので安心してほしい。

「共感」を呼ぶ文章には「生々しさ」がある。文章を書いているとき、頭の片隅にこのひとことさえあるだけで、おのずと変わるはずだから。

なお、このページのこの文章については、ここまでに共感してもらえるようなエピソードをうまく盛り込めなかった。その技量がなく、説得力を持たせられなかったことが僕の「失敗」である。

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