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「あの人」への手紙 六通目 、父へ

手紙寺発起人の井上が綴る、「あの人」への手紙です。


お父さん、僕は僕の中にあなたを見ています。あなたは微笑んで、僕にこう言います。たった一度の人生を悔いなく、俺の人生から学んで堂々と歩いてみろよ、お前はお前の人生を生きればいいと。前回の手紙では、何もかも曝け出して見せるあなたを通して、体面を繕う偽善な自分が見えて、余計にあなたに反発したと記しました。

あなたは、自分に真実があるふりをすること、立派であるように取り繕うことをとても嫌いました。あなたがあまりにも取り繕わずに、自分の姿を曝け出しているので、そのことを咎めて、もう少し僧侶らしく振る舞ったらどうなのか、そんなだらしないことではよくないじゃないかと責めると、あなたは寂しそうな顔をして「お前は立派なもんだな」と呟いていました。
またある時、「おい城治、名僧と言われてその気になっている僧侶がいるだろう。俺に言わせりゃそりゃ迷僧だよ」と問わず語りで言っていました。
 いまにして思うと、父は浄土真宗の僧侶として親鸞に習い、堂々とありのままの凡夫として業を尽くして生きられたのだと思います。

お父さん、今の僕は当時のあなたが見せてくれた取り繕いようのない凡夫そのものです。また一切が間に合わない、弁護しようのない身を生きています。そのような中であなたが私に見せてくれた姿勢がこれからを生きる力となっています。

僕が大学4年の時、あなたは体調を崩し、検査の結果が思わしくなく、逓信病院で再検査をした結果、余命半年の末期の肺がんだと診断されたのでした。
僕はその時、京都にある大学で仏教を学びながらアメリカへの留学の準備をしていました。だから、正直な私のその時の気持ちは、参ったな、というものでした。これで、自分の選択肢はなくなったと思ったのです。僕は父に反発の限りを尽くしておきながら、父の死を考えたときに寺を継がないという選択肢はありませんでした。ですから、アメリカ留学も、受かっていた大学院も諦めたのでした。
その後は週の半分を残りの単位を取るために京都で過ごし、半分を東京に戻ってあなたと過ごしました。東京では通院していた逓信病院の近くに借りた部屋で、戻ってくれた母と三人で暮らすようになりました。僕にとっては初めてゆっくりと三人で過ごす時間になりました。時を同じくして師匠が京都の大学の職を辞して、仏教公開のために東京で仏教講座を始められ、僕が毎回、聞法会に出かけることをあなたは何より喜んでくれました。

ある時、僕が師匠の講座に出ることを伝えると父が珍しく玄関まで見送りに来てくれました。粗忽者の僕が「行ってきます」と言って、ドアを閉めたと同時に忘れ物に気づき、ドアを開けた時のことは忘れられません。お父さん、あなたは出かけた僕に向かって合掌していたのでした。

亡くなっていく最後の数日はモルヒネも効かなくなり、いよいよ来るべき時が来たのだと覚悟しました。そのような中、聞法会に出かけようとする僕を「城治、ちょっと来い」と呼ばれましたね。そして、「お前は俺と似たところがあるから心配だ。だから、仏教の教えを聞き続けろ。決して、離れるな。離れた途端に歯車が噛み合うようにして人生が狂っていく」そう言われました。「人生が順回転しているうちはいいが、逆回転し始めると、小さな歯車が大きな歯車とかみ合い出して一気に逆回転が始まる。そうなったら止まらない。だから絶対仏教から離れるな」と。そして、「お前はいいな、仏教を学ぶ仲間がいて」そう言ったのでした。また、「俺が今から、お前に生きることの苦しさと悲しさ、そしてあがきを全部見せてやるからそれを見届けろ」そう言った後、「さあ、行け」と聞法会へと送り出してくれたのでした。それが父との最後の会話となりました。翌日の朝にあなたは誤嚥性肺炎となり息を引き取りました。

僕はあなたから、最後の会話になるその時間を削っても行かなければならないのが聞法会なのだと改めて教えてもらったのでした。それ以降、聞法会とは僕にとって、絶対にはずすことのできないものとなりました。


あなたが僕に向けて書いた手紙の存在を思い出したのは、あなたが亡くなって七回忌を迎えるときでした。
その時の内容はまた次回、手紙に書きますね。




井上 城治 | 手紙寺 発起人
1973年生まれ。東京都江戸川区の證大寺(しょうだいじ)住職。一般社団法人仏教人生大学理事長。手紙を通して亡くなった人と出遇い直す大切さを伝える場所として「手紙寺」をはじめる。趣味は、気に入ったカフェで手紙を書くこと。noteを通して、自分が過ごしたいカフェに出会えること
を楽しみにしています。



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