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ブルーグレーの空に螢

学生時代、『女の子を泊めてあげるだけのオトコ』だったぼくは、今や超しっかり者の7歳下の妻の尻に敷かれている。あるときふと目にとめた記事で、ぼくの人生が180度転回する。

1.泊めてあげるだけのオトコ

 ぼくの家には、週に一回、むちゃくちゃかわいい女の子が泊まりにくる事態になっている。知ってか知らでか、無防備に破壊的なかわいさを垂れ流すももちゃんという女の子。ももちゃんとぼくは、大学とバイト先が一緒の友人同士。そんな彼女が週に一回、ぼくのうちに泊まりにくるようになったのにはわけがある。
 ももちゃんは、女子学生専用の学生寮に住んでいる。その寮は、もっぱら良家の子女が親の意向で入寮させられる場所で、ぼくらの間では、その寮に住んでいる女の子というだけで高嶺の花のように思えるのだ。寮の門限はなんと22時。お堅い寮母さんと寮長が時間通りに玄関と門を施錠し、お風呂のボイラーを止めてしまうのだという。良家の子女は、22時なんて時間に外をうろついていてはいけないということだ。運よく門限までに滑り込めても、22時を過ぎていれば水シャワーを浴びるはめになるというからたまげる。
 ももちゃんは、水曜日だけ遅番でシフトに入っていた。バイトが終わるのは23時。ももちゃんとぼくは最寄り駅が同じだから、いつも一緒に帰った。無口なももちゃんが、水曜日は寮の友人に頼んで中からこっそり鍵を開けてもらうこと、そしてボイラーの消えた風呂で水シャワーを浴びるという話をするものだから、「じゃ、水曜日はうちにくる?」と口をついて出てしまったのだ。そのときはなんの下心もなかった。本当だ。かわいすぎる子猫を拾ってしまった運命の瞬間である。

2.ぼくたちのルーティン 

 23時にバイト先を出て、最寄り駅に着くのは23時半頃。地下駐輪場から一緒に自転車を出し、夜道で自転車を並べ、コンビニに寄り、同じ部屋へ消えていく。どこからどう見ても彼氏と彼女にしか見えんだろう。アパートに着くのは24時をまわるころで、そこから黙々と順番にシャワーを浴び、ぼくのTシャツと短パン姿になったももちゃんは、ぼくと同じベッドで寝る。どう考えても彼氏と彼女へのプレリュードだ。でも、ちがう。ぼくは泊めてあげるだけのオトコ。
 翌朝の木曜日は、ぼくは一限目から大学の授業が入っている。ももちゃんは三限目からで、ぼくより少し遅く起きていったん寮に戻り、着替えをしてから大学へ向かう。ぼくが出かける時間にはベッドの隅で丸くなって寝ているももちゃん。「ゆっくり寝てな。鍵は外のポストに入れてね。じゃあ、また学校で」と声をかける。ももちゃんは目を閉じたまま、ひらひらと指を泳がせて「わかった」の合図をする。ぼくはひとつしかない鍵で玄関に施錠し、鍵をドアポストから家の中に落とす。どう考えても、これは彼氏と彼女だろう。でも、ちがう。ぼくは泊めてあげるだけのオトコ。

 学内で会えば、ただの学友でありバイト先の友人。ちらっと目が合っても、ももちゃんはひらひらと指先を泳がせてあいさつをするだけ。もともと無駄話をしない女の子だけど、最初にうちに泊めたときは、なんだかつれないなと寂しく感じた。だが、授業を終えてアパートに帰ったぼくは仰天することになる。ももちゃんを泊めた後の部屋は、なぜか空気がとても清浄なのだ。彼女がなにをしたのかはわからない。だけど、いつもより格段に場が清められている。ベッドはぼくのベッドじゃないみたいに端正にととのえられ、洗い残しの食器があれば洗ってあり、おそらく換気をし、ほこりや毛をとり、部屋のなかから完全に自分の気配を消したことを確認してから家を出ているのだと思う。急に彼女や母親を連れてくることになったとしても、まったく心配のない部屋に仕上がっている。女性がいたという空気感がまったくない。寂しいくらいに。これはプロの仕事だ。(なんのプロだ)

3.匂い立つ武勇伝

 気づけばみんなが「ももちゃん」と呼んでいたからぼくもそう呼んでいたが、ほんとうは桃子と書いて「とうこ」が正しい。見た目はぜんぜん「とうこ」っぽくなくて、だんぜん「ももこ」。でも、無口なももちゃんの中身を知ると、なるほど「とうこ」のほうが似合っているなと思えてくる。
 ももちゃんは、とにかくもてた。おそらくももちゃんに出会うほとんどの男が彼女と寝ることを夢想するだろう。そういうイマジネーションを掻き立てる、およそ破壊的なかわいさを無尽蔵に垂れ流して歩いている子だった。ぼくは知っている。彼女と学内ですれちがった男どもや、バイト先のバックヤードで一緒になった男どもは、なぜか「スン」と鼻を鳴らす。わからなくないよ、男ども。香水をつけないももちゃんは、匂うわけではないのだが、なにか匂い立つような雰囲気をたたえているのだ。
 背は高くも低くもない。太っても痩せてもいないのに、ウエストはやたらと細い。白いもちもちの肌(さわったことないけど、たぶんもちもちだろう)に、大きな二重、湖のような憂いをたたえた深いブルーグレーの瞳、さらさらの髪の毛、そして、ももちゃんはおっぱいが大きい。残念なことに、おっぱいのせいで彼女は「とうこ」ではなく「ももちゃん」と呼ばれるのだ。彼女の鎖骨からみぞおちの間には、誰も見て見ぬふりをできない見事な二玉が成っている。実際、ももちゃんが新宿や渋谷を歩くと、いわゆるスカウトと呼ばれる人に頻繁に声をかけられると言っていた。

 ももちゃんは、実によく寝た。寝たというのは睡眠とか添い寝のことではない。もっと直接的な即物的なほうのやつだ。無口なのに意外に肉食のももちゃん。それがまた男どもの妄想を掻き立てた。
 あるとき、バイト先の男だけで飲みに出かけた。僕も含めた5人の男の中で、なんと4人がももちゃんと寝たことがあると判明した。

(ももちゃん!)

 ぼくは心で叫んだ。5人の男たちの中で、ぼくが一番年少だった。彼らはデレデレとももちゃんのかわいさを語る。一回寝たっきり次のチャンスがないところが彼らの共通点。まるで人気すぎてなかなか指名ができない風俗嬢のことを語るように、彼らはデレデレと語りつづける。
 ぼくは少し、いや、かなり不快だった。ぼくのベッドの隅で丸くなって眠るももちゃんは、少なくともそういう人ではない。それでも、目の前にいる男ども4人とわたり合ったももちゃんと、ぼくの家の中をひっそりと清浄にする無口なももちゃんは、まぎれもなく同一人物だ。

「俺、長男じゃない?じゃお前、次男?」
「お前が三男?じゃ、俺が四男ってことじゃん。まーじかよー」

 今度は、ももちゃんと寝た順番の話らしい。ぼくは枝豆がこんもり盛られた皿を引き寄せ、ひたすら同じリズムで別の皿に豆をはじき出しながら、その気まずい時間をつぶした。なんでもないふりをするのにこんなに胃が痛くなったのは初めてだ。

「おい、木梨。次はお前じゃねえの」
 ふいに話をふられ、僕はまごついた。こういうとき、ふつうの男はどう切り返すんだろう。わかんないな、ぼくは泊めてあげるだけのオトコだから。胃が痛むのに、ぼくはレモンサワーを流し込んだ。つめたい液体がキリキリと胃に刺さる。

「えー。じゃ、おれは五男をめざしまっす」

おどける長男に、げらげらと笑う次男、三男、四男。あほだ。ぼくは自分が男であることが心底いやになった。

4.10円ハゲ

 ももちゃんが水曜日の夜にぼくの家に泊まりにくるようになって3か月は経っただろうか。バイト先の先輩たちと飲んで以来、ぼくの心には、無視しようと思えばできなくもないくらいの小さなしこりが芽生えていた。
 水曜日のバイト後、ももちゃんはいつも通りベッドの隅で丸くなって寝ている。僕は薄闇のなかで、ももちゃんの寝顔をじっと見つめた。ももちゃんとぼくは、先輩たちがいうようなエロい雰囲気にはならない。まるで妹か従妹でも泊めているかのような感じだ。ふつうの男は、こういうときどうするんだ。相手にその気がなくても誘ってみるのか。それとも相手をその気にさせるなにか決定的なことが、ぼくに欠けているのか。いったい、どんな状況になったら、ももちゃんとぼくがが絡み合うことになるんだ。ぼくは、そうなる条件をいろいろと思い描いてみた。

ももちゃんが丸腰の獲物で、腰抜けの僕が狩りをしきれないでいるのか。
じつは僕が獲物で、ももちゃんにとって狩りに値しない代物なのか。
僕が寝たくても、ももちゃんがその気じゃないときはどうなるのか。
僕はそもそも、ももちゃんと寝たいのか寝たくないのか。
ふつうの男は、寝たいかどうかわからなくても寝るのか。
いったん始めちゃえば、勢いでそんなことどうでもよくなるのか。

そんなことを考えて悶々していると、うっすらとカーテンの外が明るくなってくる。まただ。今日も眠れなかった。

昼休み、学食のテラス席でアイスコーヒーのストローをくわえたままウトウトしていると、同じクラスの伊澤がにやにやしながら声をかけてきた。
「なあ。朝までやっただろ。クマできてんぞ」
「なにをだよ。なにもしてないよ」

伊澤は、にやにやしながら続ける。
「知ってんだぞ。よく女が泊まってるだろ。あの白い子」
「なんにもあるわけないよ。泊めてあげるだけのオトコなんだから」
眠くてかなわない。僕は食堂のテーブルに伏せた。

「おい、木梨」
伊澤が、まだ何か言いたそうにしている。

「なんだよ・・」
半目で顔を上げると、伊澤の顔からにやにやが消えていた。

「ハゲできてる」

「ええっ」
思わず後頭部をまさぐると、右手中指にひんやりした感触があった。もうダメだ。これはダメだ。圧倒的敗北だ。ぼくは伊澤に洗いざらいを話した。

5.そして子猫バブルははじけた 

 伊澤に洗いざらい話してまもなく、ぼくはぐっすり眠れるようになった。ももちゃんが良家の子女のための寮を出て一人暮らしをすることになったのだ。僕の役目は終わった。かつて明け方まで悶々と考えたことの答えはひとつも出ないままだったけど、ぼくらの関係は軟着陸した。ぼくは臨床心理士を目指すことを決め、バイトをやめた。生活を研究中心にシフトし、大学院進学に焦点をあてた。子猫バブルははじけたのだ。
 学内でときどき見かけるももちゃんは、変わらず圧倒的なかわいさを無防備に垂れ流していた。ぼくは研究室にこもることが多くなり、ももちゃんを見かけることが少なくなった。事情通の伊澤の話によると、ももちゃんはたまたま友人と出かけた商店街の夏祭りで浴衣美人コンテストに引っ張り出され、グランプリを取ってしまったらしい。そして、たままた居合わせた芸能関係者の目にとまり芸能活動を始めたのだという。また少し、泊めてあげただけのオトコと、圧倒的にかわいいももちゃんとの世界が乖離していく。
 次にももちゃんの姿を見たのは、成人向け雑誌のグラビアページだった。その次は、テレビで水着のモモちゃんを見た。たしかに、ももちゃんの白い肌と見事なおっぱいと細いウエストは無敵だ。でも、ももちゃんが本当にその仕事をやりたくてやっているのかは謎だった。
 現役女子大生としてタレント活動をするももちゃんと関係をもつ男の数は、順調に記録を更新しつづけた。なぜぼくが知っているのかというと、彼女はよくも悪くも学内ではとても目立つ女の子で、そういう噂だけはすぐに回ってしまうからだ。
 10円ハゲもいつしか元通りになり、心理学の学びも佳境を迎え、僕の心はももちゃんの噂を聞いてもさほどざわつかなくなっていた。それでも潜在意識にはしっかりと刻まれていたようで、ときどき変な夢をみた。

セクシー女優から大御所タレントになったももちゃんがテレビ番組に出演していて、ぼくは「同じベッドにいながら、ももちゃんと寝なかった唯一のオトコ」としてスタジオに呼ばれる。ぼくはスタジオの袖で、情けないような誇らしいような心もちで、神々しく妖艶なももちゃんとの対面を待つ。

 じっとりと変な汗をかいて目覚めたこともあった。そんな夢をみるたび、僕はいよいよ勉学に打ち込んだ。大学院へ進学し、そして無事に臨床心理士資格を取得。ももちゃんの姿はテレビからもグラビアからも消えてしまい、消息はわからなくなった。

6.再会

 はたしてぼくは心理カウンセラーとなり、己の弱い心を陶冶するかのように臨床に明け暮れた。メンタルクリニックに勤務していた時代、ものすごくしっかり者の看護師の女性と出会った。その女性は、なかば押しかけ女房のようにぼくの妻となった。彼女は7つも歳下なのに、出会った瞬間から今までずっと僕を尻に敷いている。たいした人だ。
 すっかり大人になってからわかったのだが、いわゆるぼくは女性の気もちの扱いがあまりうまくない奥手と呼ばれる部類のオトコらしく、妻くらいの気性の人がその気になってくれない限り、いつまでも売れ残っているタイプだったのかもしれない。ビールを飲んでいつもよりさらに鼻息が荒くなった妻からは、そういうふうに恩を着せられるのが常だ。オーケー、異論はない。そういうことにしておこう。
 今日は、妻と息子はママ友の家でお泊り会をするといって出かけていった。ぼくは気楽に枝豆とビールで晩酌だ。ポストからとってきた郵便物を仕分けながら、枝豆を皮からリズミカルにはじき出す。仕事柄、依存症やひきこもりなど社会問題に関する専門誌を定期購読している。今日の郵便物の中にそれがあったのを思い出し、封を開ける。

(ふーん、今回の特集は若年女性の支援か)

 虐待や貧困、DVなどさまざまな困難の中で生き抜いた子どもたちが成長し、10代~20代の女性になったとき。その困難に対する社会的資源の少なさが叫ばれて久しい。そんな彼女らの受け皿となっているのが夜の街である。昨今は、NPO法人などの支援団体がいくつもでき、行政と連携しながら制度の谷間に落ちてしまいがちな若年女性の支援をしていることは知っていた。
 しかし、今回の特集は尼さんだ。夜の新宿や渋谷で托鉢をしてまわり、若年女性の見守りやゲートキーパーの役割を担い、寺を若年女性のシェルターとして開放している若い尼さんと、女性支援の先駆的存在である老境の臨床心理士の対談である。
 まずぼくは、表紙に映る尼さんがとてつもなく色っぽい美人であることにたまげた。いいのか、こんな目尻の艶な尼さんで。どきどきしながらページをめくる。
 尼さんの名は兆螢(ちょうけい)。タレント活動から水商売の世界へ、そして性産業へと取り込まれて自殺未遂をした経歴をもち、そこから這い上がるために相当な苦労をして30代で出家したという。なるほど、それでこの色気。その容姿があまりに妖艶なためか、それとも尼さんの経歴のためか、対談相手はけっこう興味津々で下世話な質問をしている。

「女ざかりに出家をされたわけですが、恋愛はもうなさらないのでしょうか。だって、相当おもてになったでしょう。昔の恋のお相手と会いたいとか、身体が熱くなるような、そういうお気もちになることはないですか」

「いわゆるふつうの恋愛はありません。色っぽいことはなにも。ですがね、ときどきふと思い出すのは、私を抱いた人よりも抱かなかった人のこと。彼らは当時こそ何も言いませんが、修行を経なければ気づけない私などよりもずっと前から深い慈悲を実践されていました。女性としての肉体をもつ私に女性の役割を期待するのではなく、肉を超越して私の仏性を見出し、対等な関係を築いてくださっていた。そのような方は菩薩であって、その導きによって私は今、このように地に足をつけて生きることができているわけです。もしお会いできたら、こう伝えたい。『その節は本当にお世話になりました。おかげさまでようやく命の使い道がわかりました。ありがとうございます』と」

雷に打たれたように、枝豆をはじき出す手が止まる。
心臓が早鐘のようにうち、脇と手のひらにじわっと汗がにじむ。
ももちゃん。ももちゃんだ。

「兆螢さんは、俗名を桃子さんとおっしゃるんですね。戒名に桃という字をつけようとは思わなかったんですか」

「ちいさくはかない螢の光でも、あつまれば一隅を照らすことができる。夜の街で、女性たちのためにおつとめをしたいと申したところ、師が半紙に書いてくださったのが兆螢という名です。街に出て、ちいさな光とつながりつづけなさいと背中を押していただきました。桃という字そのものにはとてもよい意味があるのですが、よくもわるくもこの名前によって背負うものが増えてしまった。桃にはピンク色や女性の肉体のイメージがあり、恥ずかしながら性産業の申し子のように見られた時期もあります。その自分を超えて、新しい私で出直したいと思ったのです」

 無口なももちゃんが喋っている。まっすぐ顔を上げ、自分の言葉で。僕の目頭はみるみる熱をもち、あたたかいものがぽろりぽろりと頬を走る。

 兆螢、兆螢。兆に「きへん」がついたら「桃」になるよね。そしてぼくの名前は、「木梨(きなし)」なんだよね。

ももちゃん!

 妻と子がいないのをいいことに、ぼくは子どものように嗚咽した。とはいえ、突然に帰ってこられたらたまらないので、我に返って玄関に走りチェーンをかける。なにやってんだ、ぼくは。そうこうしているうちにも鼻水がとめどなく流れる。

 特集記事で笑顔を見せるももちゃんは、当たり前だけど坊主頭だ。ぼんやりと頼りなげだった深いブルーグレーの瞳は憂いではなく意志をたたえ、性を超越したももちゃんは息をのむほど美しい。ももちゃんを抱かなかった男なんて、きっと他にもたくさんいる。ときどき思い出す菩薩は、ぼくのことじゃないかもしれない。ぼくは何もしていない。ぼくはただの腰抜けで。ぼくは何もできなかっただけで。本当は煩悩のかたまりで。

ぼくなんか。

 大学生だったぼくが、10円ハゲを作ってしまうくらい処理不能だった圧倒的な不全感。胸の奥で永久凍土のようになっていた不全感。一気に押し上げられ、そして涙とあいまって解けていく。平々凡々で、意気地がなくて、男らしくもなくて、なんの取り柄も色気もないオトコだから、せめて社会で役に立つ部類のオトコになれるようひた走ってきたんだ。
 でも、そうじゃなかった。始めてのような懐かしいような僕自身への敬意が、からっぽになった胸にぽわんと宿るのを感じた。

ももちゃん、菩薩は君のほうだ。

 消息が途絶えてから10年、彼女の苦節を思うとティッシュ一箱では足りないくらいだった。ずるずると鼻水をすすりながら、ぼくはふと我に返った。こんなにいっぱいティッシュを盛り上げて、妻になんて言われるか。いやいやいや、こんなときに何を考えているんだ。でも、突っ込まれると面倒なんだよ。そうだ、ビニール袋に入れてゴミ捨て場に捨てちゃおう。そうしよう。

 マンションのゴミ捨て場に向かう道すがら、いい匂いがしたような気がしてふと空をみあげると、明るい月が出ていた。月の光でぼうっと照らされた夜空が、ももちゃんの瞳の色を彷彿とさせる。

 『一隅を照らす』

ちいさな光を放つ若い螢たちが、ももちゃんとうまいこと会えますように。指だけをひらひらと泳がせる、ももちゃん特有の合図。若い螢たちと、その仕草であいさつをし合う彼女の姿が浮かんだ。

(完)


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眠れない夜に

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