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「無為自然」は何もしないこと?


無為は積極的?!

無為自然(むいしぜん)という言葉を聞いたことはありますか?調べてみると以下のような解説が多いです。

  • ありのままに生きること

  • 「無」の道に従って一切の作為を捨てること

  • 作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること

  • 努力は精一杯するけれど、最後の結果は天に任せるあり方

んー、分かるような、分からないような。今回はこの無為自然について詳しく解説します。

まずはじめに「無為」とは動作や作為が無いことではありません。そもそも東洋思想は「何もしない」という消極的なことを勧める思想ではありません。東洋思想はとても積極的で、活気があり、そして理論的です。積極的な動作や作為が存在することを前提に考えます。無為とは「何もしない」のではなく、むしろ逆で「やるべきことをやる」という意味です。

無為と自然の調和

次に「自然」について。これは皆さんご理解の通りです。この二つを重ねると「無為自然」となります。つまり「やるべきことが自然の法則に従っていること」という意味です。例えば私たち人間は、暖かな朝の日光に本能的に気持ち良さを感じますよね。その感覚に逆らわずに気持ちよくカーテンを開けてみたり、日光を浴びてみたり、少し外に出てみたり、軽く体を動かしてみたり。これらはごく身近な無為自然です。

一方で、既にお腹いっぱいなのに無理やり深夜の二次会に付き合ったり、そこでさらに飲んだり食べたり、不摂生を取り戻そうとして睡眠不足のままジムに行ったり。無理矢理に不自然なことを実行すること、これを「無為」の逆で「有為」といいます。私たち人間は、朝型や夜型のような個人差はありつつも「夜行性」ではないのです。

世の中のほとんどのサービスは、あえて24時間休まず提供される必要はありません。そうすれば、深夜に電灯をつける必要もないし、深夜特急を走らせる必要もありません。欲するから提供されるのか?提供されるから使うのか?私たちは既に麻痺しているかも知れません。本当の因果関係はどちらでしょうか?

もちろん高度に発展した現代社会では、夜勤が前提となる仕事、途切れてはいけない社会インフラに関わる仕事、いつ呼ばれるか分からない緊急性の高い仕事などは確かに存在します。それらは「エッセンシャルワーク」と呼ばれ、コロナ禍でも明らかになったように社会的に不可欠であることは間違いありません。しかしそれらが社会的な要請に基づいた仕事であるならば、「休息に充てさせる夜」というのもまた社会の仕組みの中で整備していく必要があります。

無知な「ありのまま」

このような観点で私たちの生活をふり返ると、実はさまざまな有為や不自然があることに気づきます。しかし、分かっていても習慣化してやめられない。だから「生活習慣病」などという、医学用語か社会学用語かよく分からない病名がまかり通ってしまうのです。自身が有為なことをしている自覚が無いと、なぜ病気になったのかも分からないまま、手術で「悪い」部分を切除してしまうような事態になります。本来は必要なカラダの一部だったのに。

森や山や海だけが「自然」ではありません。自分のカラダの中にある「自然」とはなにか?これに耳を傾けずに私たちはどうやって「ありのまま」に生きられるのでしょうか。

私たちは、心身の健康についてあまりにも人任せにしているのではないでしょうか。精神も身体も症状が出るまで何もしない、いわゆる無知な「ありのまま」で生活を続けていれば、心身が悲鳴をあげてから病院に駆け込んで薬をもらっても遅いですね。自己治癒力は失われてゆきます。

無為自然と道徳

無為自然な生き方とは、自然の法則に従って、やるべきことを積極的に実践することです。それには心身の健康を第一にすること、それが道徳でもあるのです。ご参考に、以前のnote「なぜ徳が必要なのか?」も引用しておきます。

道:宇宙万物の法則
徳:見えない「道」を見出そうと日々意識し、行動すること

『リーダーとして論語のように生きるには』車文宜・手計仁志

「道」つまり自然とは何かを知り、それに従って積極的に行動をすれば色々なことがうまくいくと言えます。

次回はこの核心について、四書五経の『大学』から説明していこうと思います。

車文宜・手計仁志


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