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世界史的日中関係

もうあまり読まれなくなったのだが、戦前に人気のあったアナトール・フランスというノーベル賞受賞作家がいる。彼に『白き石の上にて』という作品があって、日本でも広く読まれた。

というのも、1905年に発表されたこの小説では、日露戦争の世界史的意義というのがくり返し強調される。「ロシア人と君たちの間には、君たちとサルくらいの違いがあるんだから」といわれた日本人がロシア人にケンカをふっかけて勝利する。それは、今までの白人支配が覆される契機になるかもしれない。そういう意義が示唆されているのである。

日露戦争というのは、日本では戦前のナショナリズム否定の煽りを食ってあまり語られることがないのだけど、当時は西欧諸国でもその(準)植民地でも衝撃をもって迎えられた。「黄色」の「半開人」が「キリスト教徒」の「白人」に勝利したのだ。西洋人はここに西洋文明の没落の兆しを見、非西洋人は解放への希望を見いだす。それが世界中の思想、文学、社会運動などに計り知れない影響を与える。

ちょっと日本人としての自尊心をくすぐられる。柳田国男もこの本を愛読し、英訳と仏文で三度くらい読み返して、いろいろな人に勧めている。自分の記憶違いでなければ、和辻哲郎なんかも、柳田の勧めに従って、この本を手にとって感銘を受けている。

しかし、実際に読んでみると、アナトール・フランスは、日本人が人種の平等などという高尚な目的のためだけに戦う人たちではないことくらい十分承知していたらしい。

「近年に至るまで支那人や朝鮮人に対して非常に残酷であった日本、いいかえればヨーロッパ人の支那における犯罪のお先棒であった日本が、支那の復讐者となり、黄色人種の希望となったのを見たときに、我々は人間や神々を盲目的に支配しているこの連鎖という女神の驚くべき行為を賞賛しないではいられないのです。」

つまり、日本は自分の意図とは関係なしに(「ことによると自分の希望に反して」)、世界史的な役割を果たすかもしれないということである。ヘーゲルのいうところの「理性の狡知」であり、日本人はただ神が歴史を操る際の道具にすぎない。

しかも、さらに失礼なことに、アナトール・フランスが白人支配の打破を期待し、また西洋の帝国主義者たちが畏れているのはどうも日本ではなく、中国のようなのである。

「それは日本が強国になって、支那を育て上げるようになりはしないか、支那に自分の国を防いだり、自国の資源を開発することを教えたりするようになりはしないか、ということなんですよ。つまり、日本が支那を強国にしはしないか、ということなんです。」

日本に期待される役割は、中国が近代的国民国家になることを手助けすることである。しかし、これは大事業である。

「もしも日本が戦争に勝って、老朽した黄色人の帝国を組織化しようと企てても、そんなに急に成功するとは思われないからね。何しろ、支那人に対して、支那という国が存在することを教えるには、かなりの時間が必要ですよ。というのは、支那人はそのことを知らないんだし、また、そのことを知らない限り、支那というものは存在しないからですよ。どんな国民でも、自国の存在を意識しないうちは、存在しないも同然ですからね。」

中国は文明であって国家ではないという当時はやりの言説で、これが中国を植民地化する口実として日本でも流布したのだが、どうやら西洋でも事情は同じだったようだ。

今日ではアジア主義というのは右翼の専売特許のように思われているが、アジア主義的な心情とというのは左右にまたがって抱かれていた。吉野作造のような大正デモクラット、柳田のように大正デモクラットに近い立場に立つ人々にもまた、アジア主義的な心情があった。『白き石の上にて』は、この戦前のリベラルのアジア主義的心情に共鳴したのである。

これを無知・無自覚な道具(日本人)による意図せぬ事業ではなくて、日本の意識的な民族的使命、そして外交哲学にしたいという願望が、柳田にも和辻にも、また京都学派にもあった。

後知恵で見ると、当たったのはアナトール・フランスの予想であった。大日本帝国政府は、中国が欧米列強に分割されない程度に強く、でも日本の要求には逆らえないくらい弱くしておく政策をとる。だが、蒋介石の北伐によって統一の兆しが見え、しかも米国やソ連がその後押しを始めると、大陸に無謀な侵略を企ててしまう。

でも、おかげで内戦が続いていた中国に反日ナショナリズムに基づく連帯感を生み、間接的に共産革命の後押しをする。外交関係樹立のために訪中した田中角栄か誰かは、毛沢東に「あの時、日本軍の侵略がなければ、われわれは国民党軍を打ち破れなかったでしょう。ありがとう」とお礼を言われて、びっくりすることになる。

そうやって、紆余曲折はあっても、この共産党の支配のもとで中国は国民国家となり、今や米国を脅かす大国として台頭してきているのである。

まさに「自らの希望に反して」、日本はその世界史的な役割を立派に(?)果たしたのである。え? それで、役割を終えてしまった日本はこれからどうするべきだって? とりあえずは、中国がかつての欧米列強や日本みたいなことをしませんように、って朝晩祈るのを忘れないようにしないと。それを中国の人々にいえた義理じゃないのが辛いところだけど。

(2009年10月28日。昨今の世論の動向を見ていると、こんな記事もウケないこと必至であるが、自分のなかの何かがこれを引っぱり出すことを促してやまなかった。)

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