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わかる ということ

 「わかる」という言葉には、いくつかの意味が含まれている。例えば、物事の道理や筋道、内容を理解すること。理解することは、つまり知ることや、意味を飲み込むことである。あるいは、判別すること。判別することは、見分けること、正誤を判断することである。または、単に了解・承知すること。願いや要求、意見などを聞き入れ、引き受けることである。日常ではこれらのどれか、または複合的な意味で、私たちは「わかる」という言葉を用いている。

 私たちヒトにとって、「わかる」ことは様々な行動原理に紐ついているが、それら行動原理は別々の起点に基づくものであり、ときに歪みを生じることがある。アリストテレスが著書【形而上学】で「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と記したように、私たちヒトは「理解すること、知ることへの強い欲求」がある。他の動物たちと比べて優れた観察力と分析力、想像力を備えたことに付随して、物事の原因を知ることが個と集団の生存に強く関わったおかげで、知ることの欲求を遺伝的な本能に刷り込まれたと筆者は考える。この「知ることの欲求」は、好奇心として働くことによって、技術や文化や社会そのものを発展させることに貢献した。一方で、不条理で不幸な出来事や、不安・恐怖に直面したときにも、この「理解したい」という欲求は働く。「理解したい欲求」を本能として備えることは、すなわち「理解できない=不安」の性質をもつことと同意である。「理解できない状態」は「不安な状態」であり、ヒトはその状態から脱却するために、なんとか物事を理解しようと試みる。ある人は、状況や事実、自身や他者の心理を分析することで知ろうとし、またある人は、神や魂、超自然的なナニモノかの力を借りて理解(=理由付け)しようとする。いずれのアプローチであっても、「わからない」状態から「わかった」状態に落ち着こうと試みるのがヒトの性質である。

 また、別の「わかる」こと、つまり判別することは、例えば、正誤、善悪、敵味方、安全/危険などを区別することに紐づく。ある物事の原因を知ることができた(=わかった)として、それが正しいのか、善なのか、味方なのか、安全なのかを区別して判断しなければ、それは浮動状態であり私たちヒトは落ち着かない。判断できていない状態は「理解できないこと」と同じく不安なのである。そこで、私たちは判断すべきための根拠や理由を見つけるための努力をして、または、過去の経験や知識、直感から、適当な仮説またはレッテルを貼って判断を完了させて、「わかった状態」にしようとする。

 「理解」と「判断」はしばしばセットで運用されるが、必ずしも全ての「理解」と「判断」に、根拠や確証が用いられるとは限らない。曖昧さがあるものに対して、経験・知識・直感に基づいて「仮説」を立ててわかろうとする。しかし、その「仮説」の土台となる経験・知識・直感に強く自信がある場合、「仮説」はいつの間にか「確証」にすり替わる。こと、他者の顔貌や表情、行動、服装といった第一印象から「この人はこうだ」とその人の性格を判断するとき、これは「曖昧な仮説」よりも「経験に基づいた確証」に近い感覚を持ちやすい。

 また、別の「わかる」、つまり了解・承知することは、社会の集団で生きる中でのコミュニケーションの一つと言える。相手の考えがたとえ自分には同意・理解できないことであっても、その社会での立場や相手との関係性から、「わかった」と伝えることは、社会生活に軋轢を生じさせないようにするための工夫だ。「理解できないけどあなたの主張はわかった」とでも言い換えられよう。

 「わかる」という言葉はこのように、人間の本質的欲求と社会生活のコミュニケーションスキルが混在するものであり、ある人が発した「わかる」は、他の人の「わかる」とは全く異なる場合がある、という性質がある。「わかる」ことは理解や判断の欲求と深く結びついており、裏を返すと「わからないことを不安に思う」性質を持っているのであるが、では、私達ヒトは「わからないことの不安」から脱却することは不可能なのだろうか。一般社会の中の仕事人としては、わからないことをそのままにすることはNGとされる。しかし世の中には、わからないこと、つまり、理解できないことや判断できないことであふれている。宇宙の果てや、地球の芯部、量子の世界、人の心、死刑や堕胎の是非、神の存在、死後の世界、など。「わかる」ことは、「理解すること」と「判断すること」のどちらか、あるいはどちらも必要であるが、後者の「判断すること」はその人の利害に基づいていることが多い。判断とは前述したように、主には善悪、正誤、敵味方、安全/危険を分けて決定することである。例えば、地球人の誰もが宇宙の果ては理解できない。しかし、多くの人にとって、そのことは自身の利害には関係しない。宇宙の果ての状態が謎のままでも、現在の生活が脅かされることはない。したがって、その善悪や正誤は判断されなくてもよい。つまり、わからないままでも問題にはならない。量子論も同じ理由で、多くの人にとってはわからないままでも生活や精神に支障をきたさない。しかし、身近な物事や同じ社会の人との付き合いでは、そうはいかない。私たちは、他人の心の中を理解することは決してできない。だが、同じ社会で関わる人のことは、敵か味方かを判断しなければならない。善悪、正誤、同一社会の価値観を持つか持たぬかによってだ。時には、理解できないものも、論理を飛躍させて理解したことにする。男だから、女だから、若い奴は、老人は、この国の人は、あの宗教の信者は、だからこうなんだ、といった具合に、実際には理解はできていないものでも、カテゴライズしたりレッテルを貼ることで「理解したこと」にして、善悪や正誤、敵味方の判断を下す。そうすることによって、他人や物事が(とりあえず)判断でき、「わかった」状態になる。思想や宗教もこれに活用される。絶対真理の神やその教えがあるから「そう」なのだ。何故なら「そうだから」だ。そうしてヒトは、わかった状態を得て不安から逃れられる。

 神などの力を借り、ひとたび論理を飛躍して「わかった」状態になることには、一つのリスクがある。それは、別の論理の飛躍によって違う「わかった」を持つ人と対立する恐れである。強い信念や確信を持つ者同士が分かり合うことは極めて困難であるばかりでなく、互いに攻撃性を持ちやすい。信念を脅かされることをヒトは嫌うからであるとともに、強い信念にそぐわない考えの他者は、敵となるからである。多くの個人間、宗教間、国家間の争いは、このことが原因であると言っても過言ではなかろう。全ての人がお互いに、自身の確信に基づく信念に多少の余白を持ち、他者の信念を受け入れることが出来れば、大小の争いは起き得ない。しかし、それができないのがヒトの性質であるのだろう。


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