AIGAという難病とコリン性蕁麻疹を患った僕。

初めまして。
数年前より、AIGA(特発性後天性全身無汗症)とコリン性蕁麻疹を患っている十山典です。

初めに

ブログにおけるテーマ


 
このブログでは基本的には自分の体験談を発信していきます。僕は医学を勉強しているわけではないので、医学的な知見に基づいた客観的に正しい真実をお伝えすることはできません。しかしながら、自分でよくこの病気にまつわる様々な側面について自分なりの経験から思索してきたので、それを共有していきたいです。そして、医学的な文章ではないため、自分自身の過去の日記からの抜粋等をして、当時の心情を赤裸々に書いていこうと思います。冷静かつ客観的ではなく、自分自身の闘病における内面的な側面について書いていきたいです。
 
また、ここで書かれている内容はただ一個人の体験談と考えでしかないため、全員に当てはまるものではありません。そのため、記載していることはすべて、「僕にとっては」という主観から書かれており、ただ一つのサンプルでしかないということをご了承ください。
 
 

ブログの構成


 
このブログは基本的にはAIGAと〇〇といったテーマ毎に書いていきます。現在絡めていこうと思っているテーマは、睡眠、運動、存在論、対人関係です。本当であれば、時系列順に因果関係で結び付けられた、一つのストーリーを描きたかったです。しかし、この闘病生活では多様な事象が絡み合っている故それが難しくなってしまいました。そのため、エッセイ集を読んでいるような気分でこのブログと向き合えていただけると幸いです。
 

ブログの意義


 
このブログは過去の自分への手紙のようなものです。数年間この病気と付き合い、多くの肉体的な痛みや精神期的な苦しみと直面していました。自分は人間として欠陥した存在となってしまった悩み。今まで当たり前に生きられた日常というものに対して羨望の眼を向けること。たまにそんな普通の生き方に対して希望を抱いたとしても、瞬く間に残酷な現実に襲われ、争うことができなく、より深い絶望へと陥ったこと。
 
発症から数年経って、病状が少し回復してきました。そして、なんとなく病気との関わり方がわかってきました。今では運動し始めた後に痛みが走り出せば、「そうきたか」、とまるで親が奇想天外な行動を起こす子供を眺めながら腕を組むような心情になれました。朝起きて、潜在的な痛みへの恐怖から昼過ぎまでベッドを出られなかった日もまだあります。そんな日でも、「怖かったんだな、よく頑張ったよ」と自分を許せるようになりました。
 
もし、この病気がない世界線で生きられたら、もっと楽しく生きられたのだろうかと妄想することもあります。ですが、この病気を患ってしまったということは変わりない事実です。僕はこのブログを通して、過去の自分に「それでも、生きていく」ということを伝えていきたいです。そして、もし現在進行形でかつての僕と似た経験をしている人がいれば、少しでも僕の文章が助けになることを願っています。
 
ブログの紹介が長くなってしまったが、これから第一回の文章を始めていきたいと思います。ここまでは少し堅苦しい文体で書いていましたが、日記調の文章が一番書きやすいので、ここからはです・ます口調をやめます。そして、このブログは僕が人生で初めて文章を世に出す場所となります。どうか暖かい目で追っていただきたいです。
 
 

 本文


 
第一回では、この病気の症状について記載していく。
 

病気の概要


AIGA(特発性後天性全身無汗症)とコリン性蕁麻疹の合併症
 
簡単にいうと、前者は汗をかけない・かきづらくなる病気で後者は汗をかくと痛い病気だ。そして、前者が国に難病として指定されている。難病とは治療法が分からなく、症状が長期的に継続するものだ。すなわち、AIGAというのはまだ明確な治療法が確立されておらず、まだ医者も模索中であるということだ。そして、患者数がわずか100-200名程度しかいないため、情報も限られている。わからないことだらけの病気だ。
 
 

症状について


 
AIGAは汗がかきづらい病気であるため、簡単に理解が及ぶと思う。もう一方のコリンという単語を聞けば、小倉優子のコリン星を多くの人が思い浮かべると思う。しかし、この可愛らしい名前をした病気は非常に厄介な悪魔のようだ。
 

痛みについて


コリン性蕁麻疹では汗が出るまで、全身がめっちゃ痛くなる。めっちゃ痛いという表現では捉えられないくらいの痛みが襲いかかってくる。この部分は過去の自分の日記から抜粋する。
 
「脱毛した直後の燃えた皮膚に針を無数に無差別的に全身に刺されるような痛みが襲いかかる。立つことがままならなくなり、壁に背中を叩きつけ、痛みを誤魔化すしかなかった。外傷の方がまだ許容できる。」
「全身が燃えるように痛む。その後に蜂が1箇所刺した後に、何百匹も同時多発的に他の箇所を刺していく。それが瞬く間に全身へと範囲を広まっていく。痛みを防ぐ意識が追いつかない。」
「夢の中に痛みがざっと浮かび、気がつけば真夜中に目を覚まし、身体が痒みの悲鳴を上げながら耐えることしかできなくなった。」
 
このように非常に耐え難い痛みをコリンは僕に与えてくれていた。

痛みが起きる時とは


コリン性蕁麻疹の痛みは体温の上昇に繋がる行為が察知された瞬間に始動する。歩き回ったり、日にあたったり、暑い電車の中に入ったりする行動等を含める。それだけではなく、プレゼン発表前に緊張したり、嬉しい知らせを受けて喜んだり、悲しい映画を見て悲しくなったりするような感情的な変動もトリガーになりかねない。そのため、少しの正常な状態からの変動そのものがコリン性蕁麻疹への合図となる。
 
コリンが始動すれば、前述した通りの痛みが全身を蝕む。これらの痛みはその部位が汗をかけるまで続いていく。とうとう汗が出て来れば、痛みは落ち着いていく。
 
ここで分かったのかもしれないが、汗をかけない・かきづらくなる症状と非常に相性が悪いのだ。汗をかきづらくなる症状を持っていれば、汗をかくまでの時間が長くなる。そのため、痛みと戦う時間は必然的に長くなる。痛みが襲っているときは心拍数が異常に上昇し、息も切れていく。痛みからまともな表情を保つことですら一苦労となる。人前にはとても出られないような痛みだ。
 
これが毎日起こる。ログインボーナスのようにこの痛みを毎日浴びることとなる。前の日の夜にランニング中に痛みを経験したとしても、翌朝には改めて痛みの餌食となる。まるでギリシャ神話のプロメテウスのような日常と同じだ。プロメテウスは山で鎖に繋がれ、毎日鷲に肝臓を食べられていた。しかし、その肝臓は毎日再生するため、翌日にはまた鷲に襲われる。そんな永久に続く日常的な痛みをこれらはもたらしてくれる。
 
たまに、痛みから逃れる日もある。ずっと部屋を出ず、部屋を過ごしやすい気温に保ち、感情の起伏を抑えれば、痛みのトリガーを発動しないこともできる。だが、そのツケは必ず払うことになる。痛みは蓄積され、初動の感度が高まり、発汗性が低下する。すなわち、翌日はいつもよりも些細な身体的・精神的な変動からトリガーが発動される。普段の倍に感じる痛みが全身を襲いかかる。そして、汗をかくまで普段よりも時間がかかってしまう。先ほどの日記のように睡眠中の体温の上昇が痛みを起こすこともある。そのため、深夜に毛布に包まれながら、全身に無数の針に刺される痛みを誘ってしまう。服を投げ捨て、壁に体を打ち付けることで乗り越えるしかないこともあった。このように、鷲に肝臓を食す機会を与えなければ、天罰が下る。与えられた運命から逃れることはできないように感じる。
 
しかし、逆に言えば、一度その痛みを経験すれば、しばらくは痛みから解放される。痛みが復活するまでの時間は数時間から数日などその時々によって変わるが、僕にとっては多くの場合はその日は解放された。そのため、午前中に痛みと闘えば、その日は痛みの恐怖から解放され、人間的な生活を送ることができた。
 

僕の日常的な対処


 
そんな人間的な生活を得るために僕は日常的に運動をしている。ランニングしたり、サウナ行ったり、部屋の中で筋トレをする。主体的に僕は痛みを巻き起こしに行っている。痛みが始まってから、氷で冷やしたり、冷房をガンガンに入れれば、体温を低下させ、痛みを抑えることができる。しかし、僕の経験則的にはこれらの行為は前述した、痛みからの解放の時間を短い状態にしてしまう。別の言い方をすれば、汗を出しちゃえば、次にコリン性蕁麻疹が発症するまでの猶予時間を長く保てる。そのため、僕は積極的に痛みを出して、汗をかくまで身体を追い詰め、痛みを乗り切っていた。
 
僕のルーティンとしては午前中に運動をする。ジムにあるクロストレーナーというトレッドミルと自転車の中間のようなもので運動することにより、痛みのログインボーナスをいただいていた。冬の間はサウナスーツを見に纏った上で走った。
 
症状が酷かった頃のクロストレーナーに乗っている時の文章がある。私小説のような文体になっているが、そのまま掲載したい。

冬のモーニングルーティン



走り始めてから数分経てば、痛みがお出ましになる。歯を全力で食いしばり、顔を歪め、時には天井を向いてゆっくり息を吸って吐く。「立ち止まるな、走れ、駆け抜けろ」と自分の心の中に部活動の鬼コーチを宿らせ、抗う。痛みは増幅していき、息が浅くなっていくが、身体を動かし続ける。汗をかかなければならない、この時間を少しでも短くしたいからこそ、運動量を増やしていく。「しんどいが、今はチャンスだ」と心の中で呟く。映画のクライマックスで苦難に立ち向かっている主人公と自分自身を重ね合わせ、自分を鼓舞していく。目の前の視界が薄くなっていくのを感じ取るが、走り続ける。
 
20分くらい経過した時に身体のどこかの汗腺が開き、汗がぽろっと流れるのを感じる。激痛が走るが、ラストスパートであることを確信し、足を動かすスピードを改めて格段にあげる。一つ二つ三つと汗腺が開いていく。そうして、一つずつの汗腺が開くように走り続け、痛みは消えてなくなる。
 
痛みが去った後にクロストレーナーを降りて、倒れ込むように椅子に座る。あしたのジョーの最終話のように魂が抜けている。痛みがあったという事実が頭からすっぽりと抜ける。一体何と戦っていたのだろうかという謎の空虚感に襲われる。だが、それに浸るほどの体力的な余裕がないからこそ、荒い息が正常な息の吸い方になるまで待つ。しばらくはサウナに入っている時のような放心状態を経験した後にやっと正気を戻す。そして、晴れてその日の痛みを頭から忘れる。誰も僕の最終決戦を知ることはなく、ただ平凡な一人の人間としてジムを出る。
 
 
これが病気に関しての基本的な情報となる。すべて自分の経験から導き出したため、人によっては異なる経験をしていると思う。ただ一つのサンプルであるというふうに受け取ってほしい。そして、もし、異なるふうな解釈を持っていたり、僕が注意浅く書き出している点があれば、それを伝えてほしい。
 

終わりに


第一回は想像以上に長くなってしまった。
次回はAIGAと精神の繋がりについて書いていこうと思う。
 
 
ここまで読んでくださってありがとうございます。
次回も読んでいただけると幸いです。
 
十山典


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?