プライド&自意識の渦の中で

プライド、という言葉はいい意味でも悪い意味でも使われるが、ここで使用するプライドは完全に悪い意味、自らに向けた皮肉のような言葉だ。私の胸のうちには、いつからだろうか、醜いプライドが出来上がっている。それは突発的なものではなく、水滴が石を穿つようにゆっくりとした、長い長い下り坂でできたものだ。私はこのプライドを中学、高校の頃に自覚して以来、なんとか取り除こうと頑張っているのだが、一向に取れない。この中学校、高校の頃のプライド、自意識については思考がループする:高校生編で書いているので、そちらも読んでくれれば、と思う。この読んでくれれば、は形式的なものであり、本心では全く読まなくていいと思っていることを付け加えておく。だからリンクも貼らないし、引用もしない。

このプライドはどういったものなのかというと、自分が優位に立って欲しい、他人軸から自分が劣っていることを外に出すことが恥ずかしい、と言ったプライドだ。自意識、と言い換えることもできる。例えば、私は高校生の頃まで全く容姿を気にしなかった。強いて言えば、中学校の頃から少し体毛が濃いな、恥ずかしいな、と思っていたぐらいで、高校の頃は平気で寝癖をつけたまま登校していたし、髭もそこまで剃っていなかった。しかし、大学になると自意識が芽生え、私は容姿をひどく気にするようになった。その容姿、外見への不安は、反動からか、とても大きなものだった。その最たる例と言えるのが、自転車だ。私は大学入学の頃に買った灰色の自転車に乗ることがとても恥ずかしいことのように思えた。灰色の自転車に乗ることがなぜ恥ずかしいのか、理解できない人もいるかと思うが、私はその自転車に乗ることを相当恥じていた。

大学に入って容姿、外見に対する自意識が芽生えたのだが、私はそれに対処する方法を知らなかった。何がオシャレかもわからないし、何が変で、何があっているのか全くわからなかった。今でも、それは引きずっていて、たまに学校の建物のガラスに自分の姿が映った時、ひどく不安になる。この服装はあっているのか、人から笑われているのではないか、まだ中学生のような服装をしているのか、大人になっていないのか、と言われている、思われているのではないか。そういった感情のピークが、その自転車なのだ。今、思い出したが、私の当時持っている服装は大体が高校以前に親に買ってもらった服で、それは青とか灰色が多かった。その灰色の服を着て自転車に乗る時、私の自意識は頂点に達した。灰色の服を着て、灰色の自転車に乗ることが、世間から見れば全くおかしいことなのではないか、と思い、脇汗が止まらなかった。私の家から学校に行くまでには中学校があり、その登校中の中学生の団体とすれ違う時が一番怖かった。通り過ぎた後に笑い声が聞こえた時、それは私のことなのではないか、と不安になった。

そう、私は高校まで自分で服を買ったことがなかったのだ。今でも、中学校のときにしていた服装を思い出して、あぁ、となることもあるが、それは仕方がない。問題は、現在でも、そうだということだ。大学に入って自分で服を買うようになって、私は好きな服ではなく、他人から見ておかしくない服を選んでいた。だから、買った服を外に着ていくことは、私の感性が社会にあっているのかの審査の場だった。私は毎日審査の目にさらされていて(これは私の妄想なのだけど)、通り過ぎる人たちの表情を盗み見るようになった。私は自分がダサい、と言われることが途轍もなく恥ずかしかった。今も、やんわりそう思う。このGUで買ったシャツとズボンはおかしくないのだろうか。世間から見てダサいものなのではないか。私はこの自意識から脱却しようとして、好きな服を着ればいいじゃないか。自分の好きなものを着れば、と自分自身に言い聞かせているが、まだまだ時間がかかりそうだ。

この私の自意識の厄介なところは、ではそのダサさを抜けるために努力をしよう、具体的にはオシャレ雑誌を買ったり美容院に行けばいいではないか(私は美容院に行ったことがない)、と思うだろう。しかし、私にとって、そう言った行動はとても恥ずかしいのだ。学生時代から知っている友達、ひいては親に、おしゃれしようと頑張っていると思われたくないのだ。私はもしかすると、心の成長が遅いのかもしれない、と最近思う。今になって、ハタチを超えてから思春期が到来しているのかもしれない。私はこの年になってようやく、微量ではあるが彼女が欲しいと思うようになった。が、実際に行動にはつながっていない。自分がオシャレをしようとしている、ということが、今の自分のダサさを認めることにつながる。それが嫌なのかもしれない。もしくはモテようとしているのが恥ずかしいのかもしれない。私はまだ子供のままなのか。しかし、この子供のままだ、というのも自分をつく別な存在、悲劇的な存在だと言っているようで、気持ちが悪い。自分は普通なのに、欠陥を抱えた才人であると言いたがっているようで、哀れで恥ずかしい。こんなところにも自意識は現れる。

そして、私にはこの容姿・外見よりも自意識を抱えていることがある。それは学業である。私は大学一年生の時にあまり授業にでなくなって単位を半分落とし、以降ペースは変わることなく単位を落とし続けている。親は私に休学を勧めたり、船での世界一周旅行を提案したりするほどに優しくて、気をかけてくれる。この尋常ではないほどに恵まれている環境にいるのにも関わらず、心の病気とか外的要因ではなく、単に自堕落な自分のせいで単位を落とし、学生生活を燻らせていることが恥ずかしくてたまらない。私はしばしば、なぜ単位をおとしたか、という質問に対して、さも心の病気や外的要因があったように、そこまでとはいかなくても、口を濁したりする。醜いな、と思う。見下されたくないんだろうな。

で、私の学部は2回生にあがるときにコース振り分けがある。私は単位とを落としてコースを選べずに、ランダムに振り分けられることになったのだが、そこで入ったのが、その学部の中でもエリートしか入れない、少人数の宇宙基礎、というコースなのだ。私は戦慄した。なぜ、この落ちこぼれである私が宇宙基礎なる秀才集団のいるところに放り込まれたのか。私は2回生でも順調に単位を落としたが、他の人たちと交流は全くなく、おそらく彼らは同じ教室に単位を落としてランダムに振り分けられた人がいるなど思っていないだろう。全員が努力できる、勉強してきた集団であることに誇りと居心地の良さを感じているかもしれない。私がその均衡を壊す、と思うと、怖い。期待を裏切りそうで、怖い。そう、私はまだ言えていないし、バレてもない。もしかすると、二回生後期の時に宇宙基礎の人しかとっていない授業の期末テストに行かなかったことで察しがついているかもしれないが、まだわからない。早くバレてしまいたい、と思う反面、ランダムであることに驚かれ、頭が悪いのだ、と思われることが怖くて仕方がない。本当にこんな自分を変えたい。弱いところとか惨めなところを全て外に吐き出せる人になりたい。

今日は午後から実験がある。これが本当に億劫だ。チームワークで、七人でやるのだけど、他は全員べらぼうに頭がいいし、四人は友達同士で、一人は知り合いで、もう一人はぐいぐいと話の中に入っていった。私は孤立していきそうだ。しかし、彼らは優しく、前回の授業ではうち一人が私を話の中に入れようとしてくれた。優しいが、私は怖いのだ。話の中に入っていって、いつ自分のことを、勉強ができないことを、惨めな大学生活を送っていることをカミングアウトするのか。バレることが怖いのだ。あの実験のときの腫れ物扱い、どう扱っていいのか困るような雰囲気が本当に苦しい。高校時代で友達と話が盛り上がった時に、唯一知らない子が近くで困ったような顔をしていた。彼の気持ちがわかった。絶対に触れないで欲しいし、空気として扱って欲しい。自分の惨めさがより一層際立つから。変えたいな。こんな自分を変えたいな。全て吐き出せば変わるだろうか。私は大人だ。20を超えて21になろうとしている。大人になってまで、こんなんなのだろうか。

そして、私はこんな自分を愛してしまっている。この気持ちがあるから小説とか詩とか文章を書けると思っているし、この自意識を克服してしまえば平凡な人に戻るのではないか、と思っている。この自意識をアイデンティティの一つだと思っている。私の最大のコンプレックスに悩んでいるうちに、最大の個性に昇華されつつある。それは喜ばしいことなのだろうか。本当に、私は悩むしかないのだろうか。今は友達が欲しい。話せる人が欲しい。少し、怖い。一人で考えすぎてあらぬ方向にいってしまいそうなのが、怖い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?