現代の政治との向き合い方

「選挙に行く意味が分からない」
「誰に投票するべきかわからない」
「でも世間には行けという圧力があり、出来るなら能動的に行ける理由が欲しい」

こんな人向けの記事です。

問題点の整理:選挙に行くのが億劫である理由

選択コストが高い

橘玲著『バカと無知』における「投票率は低ければ低いほど良い」という章では以下のような文章かある。

学校では「投票は国民の義務」と教えられ、社会人になれば(あるいは大学生でも)「選挙に行った?」と訊かれる機会は増える。民主的な社会では、「選挙に行かなければならない」という(かなり強い)同調圧力がかかっている。
もちろん、行っていないのに「行きました」と答えることはできるが、ウソをつくのは気分が悪いだろう。だったら、投票してすっきりしたいと思わないだろうか。
日曜に出かけるついでに近所の投票所に立ち寄るだけなら、じつはコストはそれほど大きくない。同調圧力に対処するためにささやかな負担をするひとが半分いることは、不思議でも何でもない。
だとしたら、真のコストはどこにあるのか。それは、候補者の詳細な情報を入手・検討し、誰に投票するかを決めることだ。

橘玲. バカと無知―人間、この不都合な生きもの―(新潮新書) 言ってはいけない (p.70). 新潮社. Kindle 版.

この文章の前には「有権者一人の投票が選挙に与える影響はほぼゼロである」という事実を述べており、有権者の合理的選択は「候補者についてなにも知らずに投票する」ことになってしまうと述べられている。

これは至極まっとうな意見で、自分が選挙に行くべきという意思をゴリゴリと削るものであった。まあそれでも選挙には行き続けていたのだが、最近この理屈をアップデートする機会があったので、それについて書いてみようと思う。

因みに橘玲氏の「投票率は低ければ低いほど良い」というのは前章の「バカと利口が議論すると結論の質が下がる」という内容を受けた極論で、「極左右政党は熱心な支持者が多い」という内容にも触れられており、実際は投票率が下がると残念な政治になると考えられる。なので、自分が極端なバカでないと思うならば投票には行くべきなのである。

恐るべきキャンセルカルチャーの余波

キャンセルカルチャーとは「有名人の不適切な行為を追求し地位を剝奪するという糾弾活動」の事である。これは有名人本人をその地位から引きずり下ろすだけではなく、余波として周りの人も巻き込む。「あいつを応援してたやつ頭大丈夫かよw」みたいな感じで。

自分が応援していた政治家がキャンセルされると「応援していたやつにも責任があるのでは?」といった雰囲気が流れ始める。そうなると、「良識ある」有権者の行動は非常に縛られることになる。この事実はコストをさらに引き上げ、政治に対する活動をより縮小させてしまう。何なら批判する側はキャンセルされることはないため、ずっと文句を喚き続ける「魔族」が誕生してしまうこともある。残念ながらそれなりに見かける光景だ。

論点整理:選挙の目的は何か

人を選ぶことに終始しがちな選挙だが、それは本質はそこではなく、「自分の望む政策がなされること」である。繰り返すが人を選ぶことではない。

昔は「地元議員」なんてのが強い力を持っていただろうが、最近はそういうものに縛られていない有権者層が増えていると思う。そういう人にとっては特に、人で選ぶ理由がない。

なら現在、何で政治家を選ぶことをお勧めするかというと「特殊だが支持できる政策」である。人で選んでいないのだから、キャンセルカルチャーの余波に怯える必要はない。

因みに「政治家も人であり、一般的で矮小な目的のために動いている」という前提を持っておくと、この後の話の流れについてきてもらいやすいのではないかと思う。

政策で選ぶと何が起こるか

政治家とは、ただの理想家では食っていけない。極まった左翼右翼は食えるだろうが、そういう思想に染まる層は少ないのでパイが少ない。各党の幹部級人物は比例代表で受かるだろうが、政治家としては少数派だろう。
なら、一般の政治家はどのようにして食い扶持を得ているかというと、「人気の政策を主張する」ことで票を得ようとする。

例えば、多くの政治家が「減税」を謳うのは多くの国民がそれを望んでいると理解しているからであり、そうでなければそんなことは言わない。とはいえ実際に実行するかは別であり、減税ばかりを謳う政治家に票を入れたところで特にいいことはない。何故なら「ほかに言う事がありません」という空っぽの票乞食だからだ。そんな奴は替えがいくらでもおり、その辺りのサラリーマンよりも少し面の皮が厚いか頭が悪いかのどちらかだ。

では他の勢力が重視していない政策を提示し、票を集めた場合はどうか。これによりその党が与党にならなくとも、「この政策は票を集める」と政治家は理解する効果、つまり「民意を示す」ことができる。
次からは票の欲しい議員はその政策を主張することになるだろう。

その政策が一般論になっていき大半の政治家が主張するようになった時、初めてその議論が前に進む。恐らく政治家も自分(又は所属政党)から票が離れることを恐れており、与党であっても強引な採決はできるだけ避けたいと考えているだろう。ならば、有権者は「臆病な政治家の為に、雰囲気を整えてやる」くらいのことはするべきではないだろうか。有権者とは政治に参加する資格を持つ者の事であり、世間一般に流れる雰囲気よりも、もう少しくらい積極的になってはどうかと思うことがある。

因みに大半の政治家が主張する減税が進まないのは、利権も絡んだ複雑すぎる事情があるためである。最初に大きすぎる岩をどけようとしても無理である。もう少し切り込んだサイズの政策であれば、政治は動くのではないだろうか。むしろ「動いて当然」の議論ならば、この方向で進んでいくはずである。

政権交代は必須ではない

ありていに言えば、自分が望む政策を行ってもらうために政権交代というのは特に必須ではないと考えている。目標と手段を勘違いしてはいけない。
頑張って政策を考える野党の皆さんには申し訳なく思う気持ちもあるが、与党になりたいなら鞍替えすればいいし、組織の欠点を見つけ出して指摘するのが得意だから野党にいる人も多いと思うので、単なる趣向と割り切ってもいいだろう。特に人を嬉々として煽る政治家はたまに見かける。それは一部の層の有権者にウケるというパフォーマンスなのかもしれないが、まあそういう「危ない有権者層」が自分で犯罪に走らないのは国会で「代弁」してくれている議員がいるからであると考えると、まともな政治家の皆さんには申し訳ないがサンドバッグになってあげてくれという他ない。(そのための高給である)
政権交代が結果的に起こることはあるかもしれないが、これは与党が民意に「乗り遅れる」のが悪いのであり、乗ってくれるなら別にそれでも構わないという印象だ。

全くこんなお願いをする権利がないことを分かったうえで書くのだが、野党の政治家は一般論の綺麗事は与党に任せ、「多くの人が感じているが言い出しにくい」ことに、機会を伺いながら全ベットしてみてほしい。文句をつけるだけの行動には価値を感じないので(多分自分含めた若者がこの傾向がある)、変われないならそのうち自然退場となるだろうが。選挙区を選べば、特殊な政策を打ち出しても受かることはできるのではないだろうか。

「人情」の優先順位を下げよう

政策で選ぶということは、それ以外の人格、地元、所属などをできるだけ気にしないということである。つまり「人情」で選んではいけないということだ。それが回りまわって自分の利益にもつながるだろう。

政策と人格は区別するべきだ。ジブリがいくら良くても、宮崎駿の政治思想に賛成するわけではない。作曲者が薬中だからと言って、世界に一つだけの花やASKAの歌の価値がないわけではない。もし人格が悪いから政治を暴走させれば、落選させてやればいいだけの話だ。民衆にはその力がある。
人格で何か気にする点があるかと言えば「批判を受け入れることができるか」「他人の説得により自分の意見を曲げられるか」といった点は見ておくといいかもしれない。この辺りは人格に難がある人が社会生活で必要なスキルで、これができそうならその他の人格は気にせず、政策を見よう。

また、地元を気にするのは賄賂みたいなものだし、フェアでない。「当選させる代わりに地元に利益をください」と言っているようなものだ。ある程度は参考にしてもいいだろうが、一番の判断材料にしてしまうと回りまわって損をするだろう。
また、地元愛にあふれた人物は地元をえこひいきするため国にとって良い政策の邪魔をするかもしれない。国が豊かであればパイの生産の手を止めて奪い合いをするのもよいだろうが、パイに余裕がないのにそれを始めるのは愚かというものだ。

所属政党はその人の政策の背景をうかがい知るのに役に立つ。なので「この政党だから選ぶ」のではなく、「この政党だからこういう思想の元この提案をしているのだろう」という風に使おう。

とはいえ、ここに関しては勝手に変わっていくような気もする。昔は人情で通る「地元議員」なるものが多かったと思うのだが、明らかに減少していく未来が見えている。何故なら若者は都会に吸い上げられており、都会では「ここは○○さんの地元なのよ」とか言われても応援しようとするモチベーションは低いからだ。地元議員さんは、地元に利益を出しつつ社会にも利益のある政策を打ち出していけばより大きな支持を得られるのではないだろうか。

この記事の発端

現在、日本維新の会が社会保険料の軽減を求めた意見を提出し、ネットの中でだけだろうが話題となっている。じゃああなたは維新に票を入れるのか?という問題は、中々回答が難しい。何故なら「維新を支持する」と言えば、維新が今後受けるであろうキャンセルカルチャーの余波を受けてしまうからだ。現代においてデジタルタトゥーとは非常に恐るべきもので、特に高い地位にいる人(目指している人)は気にするべき案件だろう。

それについて考えていた思いついた事を、この文章にまとめてみた。これは一般論であり、この維新の提案に対する考え方というだけではなく、応用性があると思っている。

本稿の主張をまず自分が実践すると、「私は社会保障費削減を支持するため、他の政党がなびいてこない限り、また維新がその主張を続ける限り票を入る」となる。
今後維新が票を伸ばした結果悪さをするのは十分にあり得るが、どの政党がとってもそういうことは起こりうる。「私はこの政党を全面的に信用して票を入れた」などと思っていなければ、自分が受けるダメージもあまりないし、思想に筋が通る。完璧を求めると動けなくなるのは、今の世の常であるように思う。

「維新の悪さは維新を支持したやつにも責任がある」と言われることもあるだろう。だがその責任とは、(損害の大きさ)/(総支持者数)で算出され非常に小さいと言える。もっと言えばよい方向に作用した効果で相殺してもよい。その責任が重たくなってきたなと思えば、票を入れるのを止めるという方法で責任を取ればよい。過剰な責任を求める輩を相手にする意味はない。

まとめ

現在の政治はかなり複雑になっており、政治家を政策、人情、正当などの全てを勘案して選択するのは非常にコストが高い。キャンセルカルチャーを考慮すると「人格的に応援出来(その人を応援することで自分の道徳的価値が高まっ)て、政策が自分の望みと一致する政治家」を応援するのが正解だが、そんなものを求めても存在せず、そのため政治が硬直的になってきている。明らかに変えるべきところも変わらない。

それならば、政策を判断基準として重く置き、民意にそぐわない政治方針、及びそれに固執する政治家をふるい落としていくのが妥当な戦略ではないだろうか。政治家も票が欲しければ賢明な選択をするだろう。

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