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「光る君へ」第11回 「まどう心」 女の想いをすくい取れない男の身勝手とは

はじめに

 月は満ち欠けするものです。同じ状態のまま一定であり続けることはないというこの世の無常を表していると言えるでしょう。それは、その月を見て相手を想い続けるまひろと道長の恋も同様です。前回、結ばれた二人の想いは、哀しいけれど満ち足りたものであったのでもありました。
 煌々と輝く満月から光がちりちりと二人に注がれるシーンは幻想的だったと言えるでしょう。そして、この世を正さなければならないという絆…それこそが第1回「約束の月」であったのかもしれないと、その回収まで感じさせました。


 しかし、今回、お互いへの想いは募るにもかかわらず、二人の恋路には早くも陰りが押し寄せ、危機が迫ってしまいました。その大きな原因の一つは、彼らを取り巻く政局が、大きな転換点を迎えてしまったことです。花山帝の側に父がいるまひろは敗者の立場です。逆に道長は、父がこの政変の勝者です。決定的に立場を違えた二人。
 現実は、彼らの想いを結びつけましたが、一方で過酷な試練も課すのです。しかし、二人は愛を貫くにも、世を正す「約束」を叶えるにも、まだあまりに若い…いや、幼い。こうした状況の変化に、何の現実的な具体策も持ち合わせていません。


 ただ、そうした二人を取り巻く外側の事情以上に、彼らの恋愛が未成熟なものであるということのほうが陰りを見せた大きな要因と思われます。前回note記事で、道長が想いを託した「古今和歌集」の恋歌は恋の進展に合わせた編纂がなされているという話をしました。道長は「恋一」と「恋二」を使いましたが、実際は「恋三」を「契りを結んで後になお慕い思う恋」、「恋四」を「契りを結んで後になお. 慕い思う恋」と「恋五」を「恋」と続きます。
 これは、身体を重ねたことは、恋の終着点ではないことを意味しています。言うなれば、まひろと道長はまだ契りを結んだだけで、恋の過渡期にいるに過ぎないということです。

 そもそも、肉体的な契りを結ぶことは、二人の距離を物理的にゼロ距離にして想いを遂げることです。互いを分かり合えたと実感し、幸福にもなれますが、それは錯覚です。実は、契りを結ぶとは、互いの身体的な距離をゼロにしてもなお相手の気持ちが分からないことを知るというある種の絶望を内包しているのです。

 まして、身分違いの二人の恋路には未来がありませんし、またゆっくりと育む時間も場もありません。最初から刹那的な関係と言える二人には、焦りと諦めと絶望があります。それは、恋心を燃え上がらせる触媒にもなりますが、逆に決定的なすれ違いを生むこともあります。それが第11回では形になったのではないでしょうか。
 そこで今回は、寛和の変の成功が右大臣家に何をもたらしたのかを整理し、それによって炙り出された道長の問題点とまひろの哀しく寂しい想いについて考えてみましょう。


1.政変によって現実を突きつけられるまひろ

(1)倫子の思い遣りある苦言

 一夜にして散位となった為時が呆然自失の体で帰宅するシーンから物語は始まります。秘かに行われた禅譲劇は、右大臣家の者たち以外の貴族たちには寝耳に水のことです。「終わりだ…」という呆然とした表情には、一夜にして、生活の糧も、将来も失ったこと衝撃が伝わります。

 おそらく為時は、19歳と若い花山帝の御代は長く続くと見ていたのではないでしょうか。その若き帝に信頼されての任官ですから、少なくとも息子が出仕するころまでは身分も生活も安泰と考えていたと思われます。彼が兼家の間者を辞したのは、花山帝に申し訳が立たないからですが、一方でそのくらいの将来の算段はしたでしょう。
 それは、宣孝の指摘どおりあまりにも近視眼的な見通しでしたが、それでもたった2年間で花山帝が退位することになるとは誰も思わなかったでしょう。一時までは実子たちまで欺き、全ての貴族を出し抜いた兼家&晴明の謀の巧妙さを考えれば、為時の甘い算段もあまり責められませんね。


 ただ、はっきりしているのは、政権は摂政になった兼家のものであるという事実だけです。そして、その命を既に拒絶してしまった以上「兼家さまはわしをお許しにならない」ということも。為時の「家」の命運は、為時では挽回できないということです。だから「終わりだ…」と目の前が真っ暗になり、将来の不安を口にする惟規にも「父はもう何もしてやれん。死ぬ気で学問に励め」としか助言できないのです。花山帝の後ろ盾もないのですから。

 もっとも、このとき為時は、右大臣家の嫡男、道隆より4歳程度年上の37、8歳(岸谷五朗さんと井浦新さんだとピンときませんが)。初老が40歳の時代とはいえ、次代の御代のチャンスがないではないと思われます。にもかかわらず、ここまで絶望するのは、兼家の権力が絶大であり、右大臣家の天下が長らく続くであろうという確信があるのでしょう。学者肌で政治に疎い為時にも、ようやく兼家の恐ろしさが実感できたと察せられます。


 それと同時に、自身の至らなさも痛感したことでしょう。寛和の変によって、為時は目まぐるしく政局が変わる内裏の奇々怪々を改めて知ることになりました。帝の傍にいたにもかかわらずこの異変を全く察知できなかったのですから、政局を詠めない、ついていけない彼は内裏で生き抜く処世術に欠けています(長年、蔵人の書記官という俊古は地味ながら上手くやっているのです)。
 ですから、仕官そのものが向いていないことを突き付けられた今回の一件で、自信を喪失してもおかしくないでしょう。息子に自力で頑張れとしか言えないのは、内裏での処し方について何も教えられないということもあったように思われます。


 父の「死ぬ気で学問に励め」に、最悪だという表情をする学問嫌いの惟規は相変わらずしょうもないですが、呆然とし肩を落とす父の姿と嫡男の弟の情けない顔を見たまひろは、我が家の先を考えて居ても立っても居られなくなります。我が家の明日の生活がすぐにでも立ち行かなくなるからです。落ち込んでいる場合ではないのですね。こういう状況下で、我が家のために動こうとするのが17歳の娘だけというのは、為時も惟規も甲斐性がないとしか言えませんね。まひろは自然とちやはがしてきたことをせざるを得なくなっていく…というのが今回の彼女の物語です。


 ともあれ、世間知らずのまひろは、直に散位の状況を受け入れる前にやれることをやろうと動きます。まず出向いたのは、自身の唯一のツテである土御門殿、倫子のもとです。彼女の父である左大臣源雅信の力であれば、取り消し、あるいは次の除目での任官が叶うと考えたのです。

 まひろの来訪を快く受け入れ、為時の散位にも素直に案じてくれる倫子ですが、左大臣の力を借りたいという申し出には「それは難しいわ、だってそれ摂政さまがお決めになったことでしょ?」とにべもありません。「ですから、左大臣さまに…」となおも言いすがるまひろを遮って「摂政さまのご決断は、即ち帝のご決断。左大臣とて覆すことはできません」と厳しい表情でピシャリと一喝します。


 まひろの立場から見ると、倫子のにべもない返答は一見、冷たく見えますが、彼女は政の本質を知らないまひろに事の道理を説いているに過ぎません。要は、摂政の兼家は右大臣のときの兼家とは違うのだということです。何故、彼が貴族の頂点のために摂政の座を欲したのか。それは、摂政は帝が何らかの理由で政務を取れない場合、代わりに政務を判断する決定者だからです。成人後の帝の政務を支える関白よりもより、天皇の代理人としての意味あいが強い職務です。

 更に中盤の臨時の除目でわかりますが、兼家は右大臣を辞し、摂政職と大臣職を兼任しませんでした。これによって、最高行政機関:太政官の上司である太政大臣頼忠と左大臣源雅信の二人の風下に立つことなく、全ての人臣の上位に立つことに成功したのです。つまり、摂政の権力を太政官から独立させることで、兼家は、より摂政=帝という形を純化し強力な権力を手にすることができたのですね。


 倫子の説明は、こうした摂政:兼家という権力者を端的に説明しています。最早、便宜上、誰も叶わなず、誰も彼を止めることができない…兼家はそういう職責に上り詰め、その地位を固めたのです。こうした動きには、右大臣家の繁栄のため、先例や法の抜け道を駆使して、冷徹に事が進められています。情の差し挟まれる余地は一切ありません。
 ですから、敢えて、倫子は、回りくどい気遣いをせず、現実を突きつける形でまひろに告げているのです。これが、彼女なりの優しさであるということは、厳しく言った直後に、ふっと表情を緩め「ごめんなさいね、お力になれなくて」と詫びる姿に表れています。倫子の本音は申し訳ないという点にあるでしょう。


 これまでの「光る君へ」で描かれてきましたし、以前のnote記事でも指摘してきましたが、本作の政とは、利害関係だけの殺伐とした権力闘争です。権謀術策による生き残りをかけたパワーゲームには、マウントの取り合いとだまし討ちといった男たちの理屈だけがまかり通ります。より力のある男だけが生き残る…その男らしさを象徴する政の世界を、当の兼家が「内裏の仕事は騙し合いじゃ」(第5回)で言いきったの皮肉なものです。

 政は、まひろの考えているような単純な世界ではありません。そこは、土御門殿サロンで交わされるような繊細な情感の交流会ではないのです(ここはここで空気を読まなければいけませんが、まひろもだいぶ馴染みました)。雅信の愚痴も母娘で聞いているであろう倫子は、上流貴族であるがゆえに、そうした男たちの世界と女たちの世界との境界線が見えているのかもしれません。


 しかし、まひろは、倫子の忠告を曲解し、「では、摂政さまに直接お目にかかれば…」と、あろうことか直談判の暴挙に走ろうとします。まひろがそう言いかけたところで即座に「お止めなさい!」とまたも彼女の言葉を遮って窘める倫子は、そう追いつめられているまひろ自身の立場も、その危なっかしい気丈さも哀れに思っているのでしょう。冷たい言葉と承知の上で「摂政さまは貴女がお会いできるお方ではありません」と断言します。

 その言葉の表向きは、身分の違いを弁えよという意味あいです。しかし、裏にあるのは、兼家の元へいらない直訴をして不興を買うことでより立場が悪くなることへの危惧でしょう。権力闘争に明け暮れる男たちは、まひろが情で訴えて通じる相手ではありません。そんな頂点の座に到達した海千山千の策謀家、兼家ならば尚更です。彼女が傷つかないために、先に傷つかないようにしようという配慮だと思われます。
 因みにまひろにそこまで忠告できるのは、倫子はまひろよりも5歳年上(道長の2つ上)のお姉さんだからですね。彼女なりにまひろを気に入ってのことでしょう。


(2)政の理屈を語る兼家の警告

 ところが、倫子の心遣い空しく、為時のため何とかしたい猪突猛進娘は、忠告を無視して、兼家の住まう東三条殿へと直訴しに行ってしまいます。居座る彼女に困った家司が、兼家に取り次いだとこと、何故か、彼はまひろに会うことします。「賢いと評判の高い為時の娘、そなたのことか」という最初の言葉からして、単純にどの程度の賢さかという興が沸いたというところでしょう。

 果たしてまひろは、慇懃に振る舞いながらも滔々と為時が兼家に長年忠実であったこと、不得手な間者も務めたことなど表裏含めて父の功績を並べ立ていきます…ああ…一番、ダメなパターンですね(苦笑)自分側のこれまでの功績を伝えたことについては、言い方は引っ掛かりますが自己PRの範疇としましょう。
 しかし、最後の「何故、何もかも取り上げられねばならぬのでございましょうか」という詰問調の言葉は余計です。相手に父の任官を頼むことが目的であるのに、へりくだらないばかりか、相手のしたことを責め、自身の正しさを主張する…どんなに敬語を使っても、「どうか」を3回も言って頭を下げようが、相手の心には響きませんよね。

 …って、この失敗、どこかで既視感があると思ったら、第1回で為時が円融帝に出した自己推薦状で、他人の能力の無さを指摘することでそれを任じた帝を結局批判して、任官を見送られた件とよく似ていますね(苦笑)宣孝の「なまじ学問が優れていると誇り高くて厄介」(第1回)も同時に思い出されます。似た者親子ですね。

 しかし、宣孝は、腹を立てた様子もなく、わざわざ立ってまひろの元まで近寄ると「そのほうは誤解しておるの…わしのもとを去ったのは、そなたの父のほうであるぞ」と、まひろの非難はそもそも筋違いであると諭します。

 一見、優しげなこの物言いを、情に訴える隙と見たまひろは「存じておりまする。摂政さまが長い間、ご苦労であったと仰せくださったと」と訴えます。しかし、自分と父の関係を知らぬのだと無碍にしなかった兼家ですが、全てを知っての言上とあれば話は違います。声を荒げると「そこまでわかっておって、どの面下げてここに参った!」と断じます。彼からすれば、自分の行為を詫び、反省の弁を述べるならばともかく、自分を棚に上げて、免職を責めるのですから、まひろの直訴は破廉恥以外ではないのですね。

 それでも、兼家はまひろに「そなたの父は、わしの命は聞けぬとはっきり申した。わしは去りたいと申す者は止めはせぬ。なれど、一度背いた者に情けをかけはせぬ」と、その理屈と自分の人を使う際の信条を丁寧に説明してやります。
 まず、去る者を追わずというのは、その気の無い者はどんなに引き留めたところで使い物にならないからでしょう。理由が、晴明のような利害であっても、道兼のような敬愛であってもよい。要は自分の意思でやっていると、彼らが思っていることが大切です。それでこそ、使う者たちを信用できます。
 また、相手の自己判断と自己責任にしておくことは、問題が起きたときには自分に責が及ばないようにしておく、自己保身としても有効な方法です。勿論、兼家自身は、そのための対価を彼らに十二分に払わなければ、関係は維持できませんし、彼らが自ら働くようこちらから褒美を仄めかすこともします。

 そして、「一度背いた者に情けをかけはせぬ」については、政争に明け暮れた兼家のこれまでの半生の自戒があるのではないでしょうか。騙し合いばかりの内裏の政で、彼自身も裏切られ、痛い目に苦い経験が多くあるのでしょう。誰も信用できない内裏で相手をある程度、信用、信頼しなければならないのが政治なのでしょう。
 だとすれば、一度裏切る相手に情けをかけるようでは、相手につけ込まれるだけです。ですから、この言葉は、自身を裏切った為時を恨んでいるといった個人的な感情ではなく、自己防衛の手段と言えるでしょう。

 このように兼家の理屈には、政の世界で生き抜くための冷徹なルールと非情な手段があるだけです。まひろの甘っちょろい情がつけ入る隙はない…というよりもそれを拒絶するところに成り立っていることがわかります。倫子の忠告どおりなのですね。


 ただ、兼家と政治的な同盟を結ぶ他の者たちは多くの場合、彼とは対等ではありません。下々の者は、兼家からの申し出にそうせざるを得なくなり、引き受けることになります。そして、彼は下々の者たちの人格や生活など考えていません。あくまで、利用できたときは、施しをしてやろうという上から目線で他人を見ています。
 ですから、兼家の理屈は、一定の正しさはあるものの、あくまで強者の一方的な理論であり、上流貴族特有の傲慢さがあることは押さえておきたいですね。

 ある種のパワハラという意味では詭弁でしょう。つまり、貴族社会における政の本質は、強者が弱者を思いのままにすることにあるのですね。権力闘争が止まないのは当然です。そして、その蚊帳の外にいるまひろは、男たちが支配する政の本質に無用のものとして、跳ねつけられたということになります。


 まあ、兼家の相手が晴明くらいになれば、その駆け引きをお互いが楽しむような阿吽の呼吸になっていきますが。それは、晴明が、余人に替え難い特殊能力と、仕事を仕事と割り切る捌けた老獪さを兼ね備えているからです。使う兼家たち権力者も、彼を簡単に無碍にはできないのですね。だからこそ、常々、あれほどの腹芸が必要になります(笑)
 対して為時は、兼家にとっては替えが効く人材だった。だから、余計に引き留められなかったというのはあるでしょう。

 ともあれ、そんな政の理屈も知らずにしゃしゃり出てきた小娘に時間を取られたことは、面白くはありません。「わしの目の黒いうちに、そなたの父が官職を得ることはない…さがれ!」と傲然と言い放つのも無理はないでしょう。
 元より免職してからは為時について、兼家は彼をさして気にも留めておらず、再任官は考えていなかったでしょう。しかし、まひろの余計な直訴によって、為時を今後、自覚的に排除しようとするとなると、事態を悪化させただけと言えますね。

 道長に告げた「虫けらが迷い込んだだけじゃ」と吐き捨てる言葉には、つまらぬことに関わったという彼の苛立ちが見えます。ここにも、上流貴族の傲慢が見えます。それだけに、その答えに、道長は、まひろの将来が気になって仕方がなくなってしまうのですが、それについては後述しましょう。


 さて、一旦はまひろの話を聞こうとした兼家。まひろはどうすべきだったのでしょうか。彼女の賢さに関心を抱いているのですから、真正面から理屈を並べ立てて、相手を責めたのでは意味がありません。その賢さを機転に替えなければいけません。

 兼家は「我が家」第一主義で自身の利益になることに聡く、プライドの高い人物です。為時に代わって、父の愚かさを嘆き、詫びることで反省の態度を取ることが最初でしょう。そこから、自身の賢さを証明するのです。何らかの問答もよいですが、実利を求める兼家には、いかにして自分が役立てるかを説き、その功をもって、愚かな父の再任官を願い出るしかありません。

 どう役に立つのかは、いくつかあるでしょう。何と言っても、元々、彼女が土御門殿サロンに入ったのは、間者になるためでした。ですから、既にサロンに参加していることを伝え、政敵である左大臣家の動向について伝えることを申し出るのです。勿論、バカ正直に伝えることはありません。兼家もそこまで期待はしないでしょう。ほどほどの報告でよいのです。
 こうすれば、為時は10年待たずとも任官されたでしょう。結局、まひろのほうが、政を奉じ、「我が家」の繁栄だけを考える男たちの理屈に合わせて、役立つ以外にないのですね。


(3)「家」を守る手法を説く宣孝の忠告

 散位となった為時を一言慰めようとまひろ宅に訪れた宣孝は、摂政に直談判を持ち込んだまひろに「肝が座っておるな」と呆れるというよりも面白がるように感心します。しかし、まひろ自身は結局、上流貴族たちの厚い壁に阻まれたことで自虐的です。そして、現実を見て、自分がちやはのように働くしかないと言います。

 このような主婦を家刀自と呼びますが、本来、貴族の子女たちのすべきことではありません。そもそも、良家の子女たちは基本的には家の中にいて、父親や兄弟以外の男性とは会うことなく、婿を取るのが通例です。家刀自にせよ、女御にせよ、働くことは、「家」の男たち以外の目線にその身を晒すことになるため、はしたないこととされたのですね。


 ですから、宣孝は、はしたなく働くことを勧めず、「婿を取れ。有望な婿がおれば何の心配もない」と婿取りを至極当然のように口をするのです。それに対し、まひろが口にした「このような有り様の家に婿入りするような方などおりますでしょうか?」という疑問も当然のことです。彼女は、実家に資産がないことで、為時に側妻を作られ苦労する様を見てきています。また、女性の側の資産を目当てにした婚姻も珍しいことではありません。
 家柄か、資産か、いつの時代もこうしたことが問題となりますが、平安期は特に女性にそれが求められた時代かもしれませんね、ひどい話ではありますが。実際、紫式部が26歳になるまで婚姻できなかったのは、為時が10年も散位の憂き目にあったのが大きな要因だと思われます。


 まひろの当然の質問にも「人のことにこだわらねば、いくらでもおろう」と意に介しません。そして「それと博識であるし、話も面白い」と立て板に水の言葉でまひろを持ち上げます。
 しかし「器量は…」で一瞬、言葉を詰まらせるのがいけませんね。その微妙な間に、「ん?」と片眉を吊り上げるまひろの反応がかわいいですね。その可愛げのない顔つきに気圧された宣孝は「そう悪くない」と答えてしまいます。直後にムッとするまひろの表情に女心が表れていますね。自虐的に自分の魅力を否定的に語る彼女の本心を見抜けないのですから、宣孝がその後に述べる女性たちへの思い遣りなるものも、あまり信用はおけませんね。
 一応、宣孝は、まひろを「誰でも喜んで妻にするであろう」と結んでいますが、気休めの方便にしかなっていません。


 しかし、「婿を取れば、一事が万事全て丸く収まる」とは言われるものの、相手にこだわらないということは、嫡妻になることを諦めるということです。いくら妾も当時の貴族にとって常識化しているとはいえ、容易く受け入れられるものではありません。「それに私は妾になるのは…」と本音を漏らします。
 彼女があからさまにそれを嫌がる理由はいくつかあるでしょう。まず、母がその存在に内心は心を痛めていたからです。自身がそういう女になり、嫡妻を苦しめることは居たたまれません。
 次に和歌に堪能な彼女は、妾となった女性たちの切ない思いを、和歌を通じて知識として知っています。
 さらに彼女は前回、父の妾である高倉の人を見て、身寄りもなく貧しい妾の最期がどれほど惨めなものであるかを目の当たりにしてしまいました(今回もその様子がわざわざ挿入され印象付けられています)。心根の優しい父であればこそ、最期を看取りますが、見捨てられることもあるでしょう。
 そして、道ならぬ恋をしている彼女には、妾というものが現実に迫っているのかもしれませんから、余計に恐ろしく映るに違いありません。

 そんな彼女が抱える懊悩にもを気づかず、多くの愛妾を持つ宣孝は「どのおなごもまんべんなく慈しんでおる。文句の言うものなどおらんぞ」と豪語します。彼の経済的な余裕が言わしめる言葉でしょうし、彼は実際、慈しんでいるのかもしれません。彼は、貴族の中では気持ちがいいくらい捌けていますし、性格も良心的な人物と見受けられますからね。ただ、それでも女性たちの本心はわかりません。
 というのも、この後に「男はそのくらいの度量はあるものだ」という、有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)全開の台詞が来るからです。宣孝の言葉は、多くの女性を養えるのは男の甲斐性というものであり、またどの男性も複数の女とつきあうのだという当時の常識そのものなのでしょう。当然、宣孝は何の悪気もなく言っているだと思われますが、ここには平安期における恋愛や婚姻が、いかに男性中心のものであるかということが凝縮されています。
 結局、宣孝の言うところの妻たちが皆、幸せであるというのは、あくまで男の側から見た都合のよい自己満足でしかないのです。ですから、まひろは実に胡散臭そうな顔で宣孝を見るのですね。


 まひろの表情を世間知らずと見た宣孝は「もっと男を知れ」と応じますが、目の前のいかにも学問バカの向こう見ずな少女が大恋愛の最中にあって、その身も経験済だとは…まあ、思いませんよね。的外れな忠告は仕方のないところです。

 ともあれ、彼は「身分の高い男より富のある男がよいな。若くてわしのような男はどこかにおらんかのう…」と冗談めかすと、親切心から「探してみるゆえ心配するな」と励まします。まひろは思わず笑ってしまいますが、宣孝の申し出については軽く横に首を振っています。これは、大恋愛にある中、他の男は考えられないとい純粋な恋慕と、妾というものを恐れているからです。


 道長との恋にときめき、契りもかわしたまひろですが、その恋に先がないことも知っています。ですから、これまで彼女は、現実の婚姻についてまでは具体的には考えたことがないのではないでしょうか。
 しかし、為時の散位によって、生活が苦しくなろうとする中、首を横に振りはしたものの、宣孝の「婿を取れば、生活の問題は一気に解決」という話は無視できません。急速に当時の婚姻というシステムが、現実問題として彼女の頭を占め始めるのです。
 男の論理が罷り通る政によって苦境に立たされた為時一家が、その苦境から逃れる方法もまた男の都合が罷り通る妾という婚姻システムなのです。この世はけだし、男性社会であることが、まひろに突き付けられているということになるでしょう。


(4)まひろと倫子の絆

 とはいえ、彼女にとって具体的な実体としての男性は、想い人である道長ただ一人。二人で遠くの国へ逃げることを諦め、道長を政の頂点に立つよう促したとはいえ、その根底にあるのは、彼への深い愛情です。婚姻しなければならないかもという現実によって、秘めた想いが揺り起こされてしまう、あれで良かったのかと思い惑うのは仕方のないことでしょう。

 再びときめく際、彼女の脳裏に閃くのは最早、道長の顔ではありません。まひろの髪を撫でた道長の手であり、まひろの首筋や身体を這ったであろう彼の口元です(同じとき、道長も同様にまひろに触れた指の感触を確かめるように思い返しています)。これはいやらしい意味合いではなく、二人の関係が戻れないところへ進んだこと、契りの記憶が二人を縛っていることを仄めかしています。

 思い返す際、喜びよりも戸惑いの色が強いまひろの表情が、印象的ですね。身体に刻まれた情熱的な熱い想いが、彼女の幸せでもあり苦しめているのです。前回、彼女が口にしたとおり、「幸せで…哀しい」のです。


 そんな鬱々とした心持ちを隠しながら、参加した土御門殿サロンのお題が「古今和歌集」、「恋四」の歌という、彼女にとって直球ストライクだというのが心憎い演出ですね。

  君や来む 我や行かむのいざよひに 真木の板戸もささず寝にけり
   (訳:いとしいあなたが来てくれるだろうか、それともわたしから訪ね
    て行こうか。十六夜の月夜に迷っているうちに、板戸を閉めるのも 
    忘れていつの間にか寝てしまいました)

この一首に姫たちは「もどかしい」「おなごはひたすら殿御を待つだけなんて」と本音を口にします。切ない恋心には共感するものの、何故、女性は常に受け身でなければいけないのか、その平安の常識を不満に思う女性はいたことでしょう。そして、「待っているうちに寝てしまうなんて何て寂しいのかしら」とその不憫さに納得がいきません。


 すると、まひろ、遠慮がちに「寝てはいないと思います。寝てしまったことにしないと自分が惨めになるからと思ったのではありませんか」と推察します。本当は悶々と夜を明かしたに違いないと言葉の裏にある詠み手の想いを察したのです。辛い気持ちを表現しながら、言葉にできないその先の深い情愛を込める…和歌の奥深さですね。
 この言葉にならない秘めたる想いは、今、現在進行形でまひろが抱えるものです。まひろが「恋四」の歌に込められた心のひだをすくえるのは、彼女がそれだけの経験をしたからです。道長への恋慕が確実に彼女を大人にしている証左と言えるでしょう。


 これまで描かれたまひろのサロン内での発言は、無意識のうちに知識をひけらかすという空気の読めない痛さが目立っていました。しかし、今回の解釈は女性の繊細な気持ちを汲み取るものでしたから、周りの姫君たちも素直に得心して頷いています。
 そして、その解釈は「言葉の裏が読めるようになると良い歌が詠めるようになる」という赤染衛門が、講義の題材としてこの歌を選んだ目的とも合致しています。サロンの空気をつかむ…この点でもまひろの成長著しさが見えるのではないでしょうか。


 そんな彼女の成長を確かめる倫子の静かな、それでいて意思のある表情が1カット挿入されるのが上手いですね。彼女の観察眼は、まひろのその成長の裏にある鬱屈を読み取ったのではないでしょうか。その原因が父親の散位にあることも察したと思われます。
 だから、彼女はサロンがお開きになった後、「少しお話していかれません?」と呼び止め、その後についての話を聞こうとするのです。サロンの主宰としてだけでなく、この年下の生意気な少女を一人の女性として気にかけているのです。


 倫子の問いにまひろは「父のことは、もうくよくよしてもなるようにしかならないと思っております。亡き母のように私も家のことをしようと思っております」と気丈に返します。
 それが悩んだ末での答えであることを察する倫子は、その言葉に空元気を感じたとしても、安易な同情はしません。
   また宣孝のように婿を取ればよいなどと彼女の気持ちを無視する余計なアドバイスもしません。そもそも恵まれた環境にある倫子が、まひろのような苦労は根本的には理解できません。上から目線の安易な言葉は控えるべきでしょう。
    それこそが、余計なお世話を控えることが、この場合、彼女の意思を尊重し、対等に扱うということになります。まひろの自尊心の高さと賢さを誰よりもわかっているのは倫子かもしれません。

 ですから、彼女は、忙しくてもサロンに来るよう促し、茶目っ気たっぷりに「息抜きにはいいところでしょ?」と笑いながら、気さくに励まします。効果覿面、倫子の言葉を聞いたまひろは、ぱああああっと明るい笑顔を見せます。日頃の鬱屈を払うのは、女性同士の適度な共感と心遣いというのは興味深いところ。男たちの慈しみではないのですね。

 倫子の心遣いに感謝しかないまひろは、思わず、「倫子さまはどうして婿を取られないのですか?」と割と余計な質問してしまいます。おいおい…とは思いますが、まひろは降って沸いた婚姻という現実と諦めなければならない深い恋慕との間で、揺らぎ続けています。その悩みの深さが、いささかはしたない質問をまひろにさせたのです。


 まひろによれば、倫子のもとには多くの恋文(和歌)が届いているとのこと。まひろとは真逆の選り取りみどりの状況にもかかわらずアクションを起こさないことは不思議に見えます。まして、彼女は既に20歳を超え、当時としては老嬢にあたりますから尚更です。
 倫子は不躾なまひろの質問に「私、今、狙っている人がいるの」と心のうちを明かし、ガールズトークが始まります。「両親は私は猫にしか興味がないと思っておりますけれど」との言葉からは、その恋が秘めたるものであることがわかります。

 因みに倫子が、そこまでのプライベートな秘事を明かしたのは、相手がまひろだからでしょう。
 一つは、身分が違いすぎるため、彼女が自分のライバルになるとは全く思ってもいないということです。無意識の見下しですが、当時の状況からすれば致し方ないことでしょう。彼女の身分であれば、嫡妻は当然ですから、ライバルは同格しかあり得ないのです。
 そして、もう一つは、まひろが「恋四」の歌の真意がわかるほどに女心が察せられる賢さと心根を持つと見たからです。他の姫君たちは、浅い見識と軽さゆえに本当の恋バナはできません。倫子なりにまひろを気の置けない友だちと思い始めているのかもしれませんね。


 うっとりしたように「実は思う人はいるのです」と答える倫子の乙女心に嬉しくなってしまったまひろは「それはどなたですか?」と勢い余って、また不躾なことを聞いてしまいます。
 憧れの倫子さまの恋話にはしゃぐまひろの気持ちはわからないではありませんが、その思い人が誰かを知る視聴者は気が気ではありませんね。ギリギリのラインを無邪気に攻めてくるまひろにハラハラするばかりです。まったく…心臓に悪い←

 しかし、倫子もそこは「言えない」と可愛く返します。乙女心は秘めてこそ乙女心ですからね、当然の回答に視聴者も安堵します(笑)「ああ、そうですよね」と流石に自分の不躾に照れるまひろに、倫子は「でも必ず夫にします。この家の婿にします」と力強く宣言すると、キリッとした目だけをまひろに見せます。この狙った獲物を逃さないというハンターの顔つきと自信が魅力的ですね。
 ただ、その目つきも一瞬のこと。いつもの茶目っ気で「そのときまで内緒~」とうそぶきます。その可愛い返しに、まひろがキャーという表情になっているのが実に微笑ましい…「それは楽しみでございます」「私も楽しみ~」というキャッキャウフフのガールズトークは続きます。

 このガールズトークは、まひろに活力を与えているというのがポイントです。今回、劇中で引かれた「恋四」の歌や、宣孝の婚姻話に象徴されるように、平安貴族においては、恋愛も婚姻も基本的に受け身です。
 しかし、そんな中でも倫子は「狙った人を必ず夫にする」と自分の意思を示し、自ら選択すると言うのです。唯々諾々と男たちに振り回されるだけでなく、限られた中でも自分らしく生きようとするしたたかさが倫子にはあるのです。土御門殿の女性の家風を母から継いでいるのかもしれません。もっとも倫子の強さは、挫折しらず、苦労しらずの恵まれた環境があればこそなのですが。

 ただ、まひろは、そんな倫子の強さに憧れ、刺激を受けます。意に染まない婚姻などはせず、倫子に告げた自力で家を支えるという選択を後押ししてもらえたような気分があるのでしょう。
 おそらく、それは倫子も同じです。まひろに恋バナをする中で、道長を夫にするという思いをさらに強くしたのではないでしょうか。


 つまり、二人のシスターフッドな関係が、互いを勇気づけたのです。だから、次のシーンから、まひろは、家刀自(主婦のこと)として一念発起します。慣れない家事に明け暮れ、時間があるときは家計のために写本作りに励むという生活を始められたのです。貧しさから始めたことであるにもかかわらず、溌剌として見えるのは、その選択が自分の意思によるものだからです。
 まひろにとって正しい世とは、身分にかかわらず人が人として、生き方を自分で選び、それを周りが尊重することなのかもしれませんね。

 その暮らしぶりを覗き見した道長が、蕪を洗うまひろに目を奪われます。道長視点のカメラでは、蕪を洗う水面の煌めきがまひろを照らし返し、汗をふくまひろを美しく彩ります。これは道長の贔屓目ではなく、道長がまひろの内面を見たということです。道長はルッキズムの人ではありませんから、生きようとするまひろの生命力、内面の美しさに再びときめいたのです。まあ、そのときめきが悲劇の始まりになってしまうのですが…


 ところで今回、まひろが心の底から笑顔を見せたのは、倫子とのガールズトークだけです。いかに本作が女性同士のつながりを意識しているのかを象徴していますね。
 ただ、私たちは、倫子が道長の嫡妻になるという史実を知っています。それは大河ドラマにおいては逃れようもない運命です。ですから、この先間違いなく訪れる倫子の思い人が道長と知ったときのまひろの衝撃を考えるとやりきれなくなる方々も多かったのではないでしょうか。しかも、何もかもが自分よりも勝る憧れの女性と道長が結ばれる。彼女が、その自信の無さと相まった敗北感と後悔にうちひしがれるのは、この翌年…すぐ先のことです。

    因みに、第8回のnote記事でも触れましたが、打毬の際に倫子が道長に関心を持ったことにまひろが気づいたかもしれないカットが打毬後のサロンにあるんですよね。既に道長と逢瀬の仲になったせいか、今回はそれを忘れて倫子に聞いているようです。もしかすると道長と倫子の婚姻を知ったとき、そう言えばあの時…と思い返すかもしれません。どのみちショックは変わらないでしょうね。

 しかし、実はそれは倫子も同じことです。彼女は道長を夫にする自信に溢れています。しかし、実は彼女の預かり知らぬところで、既に道長の心には生涯をかけた恋人が住んでいます。人の心は他人にはままなりません。物理的に排除できても、心の中まではどんな優れた人も手出しできません。つまり、ある意味で倫子は、戦う前からまひろに敗北しているのですね。
 観察眼に優れ、頭のよい倫子の勘は鋭いはず。道長の想い人がまひろであることは、いつの日か気づかれてしまうことでしょう。唯一、打ち明けた相手にその人を奪われていたことを知る残酷さ…それは、まひろに訪れる哀しみ以上かもしれませんよね。まして、彼女は挫折というものを知りません。彼女が心の強さを試されるのはこれからなのですね。

 ともあれ、今回は純粋に楽しいガールズトークに興じる二人だけに待ち受ける運命が、居たたまれないですね。ただ、はからずも同じ男を慕ってしまった…そのことは憎しみや嫉妬にもなりますが、裏を返せばその共通点は、互いの気持ちをもっとも理解できることにつながるのかもしれません。まして二人は取り合いをし、どちらかを騙し、出し抜いたのではなく、たまたま結果的にそうなったのです。

 ですから、互いにその才を認めているまひろと倫子が、いつかはこの絶望的な関係を乗り越え、互いの悩みを共有するような、より成熟したシスターフッドの関係になるのではないかと期待しています。それこそ、かの「源氏物語」で描かれた紫の上と明石の御方の和解のように。だとすれば、二人の関係性は、ある意味においては、道長とのつながりよりも深いものになるかもしれません。男性中心の貴族社会の中で、女性たちが自分の生き方と内面を守るには女性同士の絆が欠かせなくなるでしょう。

 そして、改めて築かれた信頼関係があってこそ、まひろの中宮彰子の女御&教育係という話になっていくと思われます。この件は、道長以上に入内する娘を思う倫子の意向が反映されているような気がしますから。


2.寛和の変が右大臣家にもたらす益と害

(1)露骨な地固めを始めた兼家

 政変によって、摂政へと上り詰めた兼家は着々とその座を固めていきます。先にも述べた太政官と摂政の独立もその一つですが、劇中では宮中に直廬(じきろ)という執務室を設けたことに言及されています。これは、天皇の国母である皇太后の殿舎で帝に代わって執務を採るということで、皇太后が幼帝の後見をする中国の「皇太后臨朝」をモデルにしたものですが、こうすることで藤原家の外戚としての強権を固めたのです。
 そして、詮子が皇太后に奉じられたことで彼女自身もまた権力の一端を担うことになります。勿論、彼女は牽制されていいるものの兼家とは意を異にしていますから、これは今後の火種ともなるのですが、まずは右大臣家…もとい摂政家一門による権力の一極集中の一環としてここでは押さえておきます。


 そして、兼家がここまでして貴族の頂点を目指したもう一つの理由は、人事権です。人事権を思うままにできることが、自身の目指す政の実行への近道であるのは言うまでもありません。他の貴族の目もありますから、権力の行使に匙加減は必要ですが、人というものは愚かにも人事権を掌握する権力者へ自ら忖度するものです。放っておいても、いずれは強引な人事が罷り通り、それが先例となっていくでしょう。

 因みに人事権を行政府が完全に掌握すると思いきった政治ができますが、一方で官僚たちが政治家たちに忖度するようになるため結果的に腐敗していくというのは、現在の日本の政治が証明していますね。非常に危ういことを兼家はしていると考えてもらってもよいでしょう。


 ともあれ、その人事権をもって、臨時の除目を行うのが、摂政、兼家の最初の仕事です。その目玉は二つの点です。一つは、自身が辞任した右大臣の席を藤原為光に任じたことです。為光は斉信と先の弘徽殿女御、忯子の父で、兼家の異母兄弟です。斉信が道長をライバル視するように、為光は兼家の政敵です。しかし、兼家はその恩讐を超えて、為光を右大臣の座に就けます。

 これは二つの目的があります。一つは、自身は太政官から独立しつつも、こちらからは太政官への影響力を残しておくためです。具体的には、太政大臣頼忠と左大臣源雅信を牽制するために、同族一門の為光と手を結び懐柔策に出たということです。為光は除目の席で、思わぬ昇進に満足気ですが、一方でこれを受け入れることは、藤原家の中での兼家と為光の上下関係を明確にしたことにもなっています。為光一家は兼家一家の風下に立つことを確定すること、これが二つ目の目的です。

 さて、除目の目玉のもう一つは、言うまでもなく「権大納言道隆」「参議道兼」という飛び級同然の二人の公卿としての参議入りでしょう。然したる実績もない息子二人を最高会議のメンバーにあげるのこと、詮議を優位に進めるだけでなく、兼家死語の権力掌握も容易に行えるようにする地固めがあからさまに行われたことになります。
 藤原顕光と雅信の二人が渋い表情をしたのは当然のことです。今頃、実資が自宅で「おかしい!」「あってはならん!」と激高していることでしょう。残念ながら、愛妻の桐子は亡くなっているので日記に書くしかありませんが…

 ともあれ、他の公卿たちも同様の不満を思いながらも、面従腹背。帝の即位式に全力を挙げるという兼家の言葉に従うしかありません。クローズアップされる兼家の顔に権力者特有の傲岸さが漂っているのは、最早、異を唱えるものなど誰もいないことを仄めかしているのです。


 そう考えると、東三条殿まで行き、彼のやりように物申したまひろは、恐いもの知らずというか、恐ろしい子ですね(笑)それから、道綱の人事に心を砕くようしつこく言い募る道綱の母も(笑)
 ただ、道綱の母の言った「男は座る地位で育つのです。自信のないくらいの地位が良いのです」という言葉は、現在でも「地位が人を育てる」という言葉と言われる至言ですが、このことは道隆や道兼、そして道長が、身に余る地位に就く中でその心根を変質させていく可能性も示唆しているようにも感じられますね。


 面と向かって物申すことができければ、裏から摂政家を呪うしかありません。懐仁親王が一条帝として即位する朝、花山院が数珠を手に大威徳明王真言を唱え、呪詛を始めます。前回の顛末を見れば、彼がこうしたくなるのも仕方のないところです。元は政への志も高かったにもかかわらず、気の迷いにつけ込まれ19歳にして出家させられ、政治生命を完全に断たれたのですからね。

 さて、花山院の呪詛と呼応するように、即位式の準備中、帝が座る高御座に子どもの生首が置かれ、高御座が穢されるという事件が起きます。この高御座生首事件は、「大鏡」に出てくる事件として知られますが、子どもの生首なので採用されるとは思いませんでした。さて、皆がおののく中、首をさっさと除けて、鴨川へ捨てるように命じ、それを知る役人と女官たちに他言無用を厳命、何事もなかったかのように即位式を進めさせた道長の手際は、見事でした。結果、滞りなく即位式は行われ、花山帝の呪詛ははじき返され、天命は一条帝と託されることになります。


 この顛末には、権力の趨勢を決めるのは、それにかかわる人間の意思の強さ、具体的な権謀術策など人の所業の積み重ねであり、決して怪しげな術のみにて決まるものではないということです。天運を引き寄せるのは人の力ということでしょう。陰陽師である晴明も、最後は人であることをよくわかっている人物ですね。ですから、彼は人を見極め、その心理を操ることを旨として、術の類はあくまでその補助と考えている節があります。


 ですから、花山院一人の恨みつらみなどは、生首を使ったところではじき返されるのは道理です。一条帝の即位で最後、その背にある北斗七星がクローズアップされるのは、これが帝の証だからです。中国では北極星と北斗七星は皇帝の象徴ですし、日本においても天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、通称、妙見さんという最初の神として尊重されています。同時に北斗七星は、生死を司ると言われます。

 したがって、花山院の数珠が弾け飛び北斗七星を成し、一条帝の背に北斗七星が輝くというのは、一条帝が死の穢れを跳ね返したことに他なりません。そして、それを成したのは道長の機転であり、その意を知った上で即位式を挙行した兼家の差配。つまり、人の意思の強さなのです。まあ、兼家の強欲が花山院の恨みに勝ったという身も蓋もない言い方もできますが(笑)


 その夜、道長と酒を酌み交わす兼家は、道長の機転を誉めそやします。高御座が穢された件で問題になるのは、穢れそのものではなくそれを理由に他の貴族がつけ込んでくることにあったからです。やはり、呪詛そのものよりも、それによって生まれる人の心と言動が重要なのですね。だからこそ、その隙を生まない配慮と機転にこそ、道長の政治的資質があると言えるのでしょう。

 道長の「誰の仕業か突き止めなくてよろしいのですか」と問いに、兼家が「新しい帝は即位された。それが全てだ」と返すのが印象的ですね。真犯人を突き止め、政敵として排除することもやり方の一つですが、最早、それは些末なことなのです。一条帝の即位によって、摂政、兼家の地位は確定しました。その既成事実が重要なのです。事実より強いものはないからです。


 思えば、兼家の権謀術策は常に実利を求め、既成事実を作ることに腐心してきました。詮子の入内と皇子誕生、円融帝との談合による懐仁親王の東宮確定、忯子に皇子を産ませない、花山帝の出家…全て動かしようのない事実という布石です。つまり、兼家は極めて現実主義の人間であり、迷信や呪術の類もその事実を作るための道具立てとなる実効性の高さにおいてのみ、信用し、利用しているのですね。当然、人間を使える使えないで選別するのも、その一つと言えるでしょう。ですから、今回の道長の処置の仕方に自ら酒を注ぐほど気を良くしているのは、自分と同じ資質を道長に見たからかもしれません。


 たしかに道長は迷信深いほうではありません。しかし、彼が生首を処置し、「穢れております。お許しを」と恐れおののく官人と女官を見ながら、自身はその袖であっさり血を拭い、「穢れてなどおらぬ」と事もなげに言えたのは、父も知らぬ道長の経験によるものです。
 彼は前々回、直秀を自らの機転の結果、死なせてしまいました。自分の甘さでいとも簡単に人が死ぬことを体感したことは、彼にこの世の非情を実感させたはずです。また、直秀を自らの手で埋葬した彼は、横たわる遺骸が持っている厳然たる死の重さも、自らの罪の意識と共に意識したに違いありません。

 死そのものを知ってしまった今の彼には、あの生首も驚きはしても心胆を寒からしめることはありません。死とはもっと厳粛な現実だからです。だから、彼は粛々と処置できたのです。ただ、父の現実主義と違うのは、そこには取り返しのつかない苦い後悔が伴っていることです。彼にとって直秀の死は忘れられない、忘れてはいけないものなのです。
 ですから、「穢れてなどおらぬ」との言葉には、単なる事実と捉えるだけでなく、彼なりの感傷があるのではないでしょうか。死を穢れと言ってしまうことは、直秀の死もまた穢れだと冒涜してしまうことになりかねない。道長に直秀の死を穢れと思うことはできません。他の死に対しても同様でしょう。

 ともあれ、こうした道長の感傷もまた、兼家による摂政家による権力の一極集中の流れの中に組み込まれていきます。これを機に五位の蔵人に任じられたというナレーションは、そのことを象徴していますね。勿論、まひろとの約束がありますから、彼は進んでそこに関わろうとしてはいるのですが、なんだか哀しいことにも見えますね。


(2)出世による一家分裂の兆し

 東三条殿では、晴明を迎えて、兼家と道隆一家による酒宴が開かれています。道隆が子どもら紹介する様、そして兼家の「わしは摂政まで上り詰めた。これから先は道隆の世である」との言葉(道兼に聞かれなくてよかったですね)から、兼家が既に後継者を後の中関白家にしようとを内々に決め、その引き継ぎをする腹づもりであろうことがわかります。晴明は、兼家の謀を支えた知恵袋であり、優れた術師です。兼家にとっての切り札的な要の存在を、道隆一家に引き合わせるというのは、これから先の権謀術策の中心も道隆に託そうというわけです。

 兼家はそのための地固めを自分の目の黒いうちにしておくのです。結果的に謀に利用できたとはいえ、一度は失神した兼家は自分の健康に対しての不安もあるでしょうからね。息子たちの強引な任官もそうしたことが反映されているかもしれませんね。


 さて、道隆の嫡男伊周を紹介された晴明は卒なく「ご立派のお姿でございますな」と無難な世辞を述べます。上機嫌の兼家は、その世辞に「聡明で物怖じせぬところは貴子に似ておる」と自慢げに語ります。さりげなく貴子を褒める言葉にしているのは一族の結束をはかる兼家らしさでしょう。

 そうした兼家の上機嫌だけに後押しされた伊周は「晴明どの、父は笑裏蔵刀でございます。顔は笑っておりながらも刃を隠し持っておりますぞ、お気をつけなさいませ」と、ことさら賢さをひけらかすような気取った言葉を連ねます。12、3歳の小僧がカッコつけただけとも取れる言葉に、流石、聡い母、貴子は窘めますが、「私はもう大人です。我が藤原の将来を背負う覚悟でおります」と不遜な態度を崩しません。そんな伊周に父、道隆は才気ほとばしる我が子よと目を細め、その鼻っ柱の強さを男らしさと見る兼家は満足そうに笑うばかりです。まあ、親バカ、爺バカでしょう(苦笑←


 対する晴明は、一瞬、眉を動かすもののそれ以上の変化は見せず、静かにその言葉を受けます。しかし、その一瞬の変化で彼は伊周の性情を見抜いたように思われます。伊周自身の意図はどうあれ、彼の発言は初対面の相手に初手から恫喝に出で、マウントを取ろうとする行為です。その礼儀に欠けた態度は、身分卑しき官僚に対する傲慢さが、まず見て取れます。
 また初対面の相手に自分の賢さを見せようとする点からは、見栄っ張りという無用のプライドの高さもよく見えるでしょう。仮にも陰陽寮に務める当代随一の科学者である晴明に対して、そうした態度を取れば、薄っぺらい知識を教養と勘違いしているタイプと見透かされるだけです。
 そして、それは祖父が何のために晴明を自分たちに引き合わせたかが全くわかっていないことでもあるのです。結局、伊周はその偉そうな言動だけで傲慢さと器量の狭さと先見性の無さを見て取られただけです。一瞬で将来性がないと、品定めをされたことでしょう。兼家の血統には珍しくもないその人間性に興味は湧きません。


 ここで思い返しておきたいのは、第7回での晴明と道長とのやり取りです。第7回note記事でも触れたことの繰り返しになりますが、簡単に見ておきましょう。このとき道長は、まず兼家の無礼な態度について非礼を詫びるところから始まっています。これを通り一辺倒の言葉と受け取った晴明は、「道長さま、お父上とのこういうやり取りは楽しくてならないのです」と毒を含んだ言葉で返します。それは、自分に対して居丈高になる上流貴族に対する揶揄があったのですが、そもそも晴明を軽んずる気持ちのない道長は、晴明の言葉を真に受けて「これからも父をよろしく頼みます」と頭を下げるのです。

 予想外の言動に晴明のほうが戸惑う番です。彼は道長の真意を測るようにしげしげとその顔を観察してしまいます。それは道長が訝しむほどの視線でした。結局、晴明が道長から何を見たかは語られていませんが、伊周との態度の差からはある程度の推論が考えられます。それは、本当に賢いものは、自身の才をひけらかす真似はせず、謙虚でいるということです。つまり、晴明は道長から兼家の家らしからぬ無垢で懐の深い人間性を見たのではないでしょうか。

 道長と伊周は、やがて摂関政治の主導権を巡って争うことになります。このシーンは第7回のシーンとの対比になっていると思われます。そして、晴明の目には既にその勝敗は見えているのだろうと思われます。ですから、伊周の恫喝に対しての晴明の「頼もしいご嫡男。お楽しみなことにございます」との返事は、その場のおためごかしと相手を小馬鹿にした皮肉であるとわかりますね。
 まあ、伊周がこれからしでかすことを考えれば、視聴者には別の意味で「お楽しみなことにございます」が(爆笑←


 ただ、この後、紹介された道隆の一の姫、定子については、伊周と違い、道隆の「ゆくゆくは入内させるつもりでおる。皇子を産み、我が家をもり立ててくれるようよろしく頼む」との言葉もあってか、胡乱な顔つきでその人相を見ています。人柄だけでなく、その天命も見ようとしたように見えますね。結局、何を見たかは明かしませんが、この先を占う何かが見えたように思われます。
 兼家の「これから先は道隆の世である。晴明、どうかよろしく頼む」との言葉に晴明は「承知つかまつりました」と答えるところから見て、この先も自分とこの家は持ちつ持たれつになるだろうことまでは読めたのでしょうね。

 因みに伊周が指摘した道隆の性格については、晴明はその雅やかさの裏にある酷薄さも不測の事態に弱い臨機応変さに欠けた能力についても、とうに見抜いていることでしょう。


 さて、ここで兼家のご機嫌伺いに来た道兼が参上します。招かれざる客です。酒宴を見ての台詞が「何故、私が呼ばれていないのですか!」なのがおかしいですね。自分が一番頑張ったのに仲間外れはひどい…つまり父の愛を受けられないことへの不満の爆発なのですから、処置を間違うとヤンデレ(誰かを慕うあまりに精神が病んだ状態)になりかねません。

 精神不安定になりかけた道兼を兼家は抱え込んで連れ出し、二人きりになります。兼家としては、道隆一家を晴明に紹介したことで、自分が後継者になるラインが消えたことを悟られてはいけないという危機感によるものです。聞かれたのが道長であれば、道理を心得ていますから挨拶だけして一歩下がって終わりなのですが。


 しかし、道兼の「帝のご譲位にあたり、この身を賭して働いたのは私にございます。兄上ではございません!」との言葉は、後継者云々ということよりも、父の愛情が兄だけに向けられていることへの不満の比重が高いように思われます。まあ、あんなに自身の身体を痛めつけ、花山帝を連れ出すという離れ業をやってのけたのは、父への敬愛のなせる業でしょう。
 自分こそが愛されるべきだという増長を招くことは想像に難くありません。兼家が都合よく利用しすぎなのです。兼家は公卿の目があるため遅くはなるが「必ず報いる」と言い、今日の宴もあくまで定子の入内が主であり道隆が脇であると、愛情は長男に向いていないとなだめすかします。さらに道兼の娘も入内させるよう考えているといるのだと付け加えて、バランスを取ります。
 もう何だか愛人にお前が本当は一番だからと言い訳している男にしか見えませんね、兼家(苦笑)

 そしてトドメは「お前が道を切り開いてくれたと思っておる」との言葉です。兼家の役に立っているのは道兼だけ。この言葉に道兼は、その言葉を待っていましたと泣きそうな表情になりますが、いくらなんでも幼すぎるというかチョロ過ぎて可哀想になってきます。そして、兼家は「公卿たちはしきたりにうるさい。まずはあやつらの心をつかめ。地固めをするのじゃ」と新しい使命を与えます。

 彼が報われないと駄々をこねるのは、目標を達成してしまったからです。だから、彼は新たな役割を与えたのですね。「さすれば堂々と兄を抜くことができよう」と念押しまですれば、自動的に道兼は頑張ります。父上のために頑張る子ですから。果たして、道兼は、いいことをきいたとばかりに、にんまり笑うと力強く頷きます。

 さて、この場を上手くやり過ごし、またも道兼の気持ちを利用することに成功した兼家の手練手管は流石ですが、急場しのぎで「さすれば堂々と兄を抜くことができよう」言ったのは、やり過ぎだったのではないでしょうか。道兼に言った人脈づくりをせよ、との言葉は、彼に後継者の道を意識させます。その結果、宮廷内に道隆派、道兼派の派閥ができる可能性が出てきてしまいました。

 兼家は、一族団結を標榜しここまで来ました。それは、程度の違いはあるにせよ、息子たちはそれぞれに兼家に対して敬意を持っていたため、そのスローガンで東三条殿一族での権力奪取を叶えるに至りました。兼家という権謀術策に長けた一流政治家の求心力で、「家」をまとめ上げてきたのです。兼家は、こうした自身の求心力を過信していますが、目的が達成され、周りに敵がいなくなった今、今度は摂政家で誰が後継者として主導権を握るののかという内部抗争が始まるのは自明というものです。

 ですから、この一幕は、摂政家の内部分裂を予感させるものになっていると言えるでしょう。道隆と道兼が争うことになるとすれば、ほくそ笑むのは兼家の支配から抜け出し、道長と独自の勢力を持とうとする詮子でしょう。彼女にとっては、長兄、次兄が争う潰し合いは、好都合というものです。彼女自身も皇太后として正式に政治介入する権限を得ました。着々と力をつけ、父兼家が死ぬ頃にはその力を確実にしたいと思っていることでしょうね。
 そして、当の道長もまた、まだ具体化しないものの、政の頂点を極めようと考えています。政治抗争は目の前なのです。寛和の変は、彼らに権力という大いなる利益をもたらしましたが、そのことは彼ら自身の争いの始まりに過ぎないのですね。

 そう考えると、蔵人になっただけで満足し、同格になった弟道長にも「ちゃーんとやっておるか?」と無邪気に様子伺いにきて、一度菓子をあげた相手の顔も忘れてしまう呑気な道綱だけが、兼家一族のオアシスですね(笑)まあ、母親には忸怩たる思いがあるでしょうが、道綱はその太平楽で平穏無事に生き残っていくのですから、それも処世術というものですね。


(3)道長の中から炙り出された傲慢さ

 こうした兼家一家内が内部抗争を内包しつつある中で、道長はまひろとの約束を叶える決意をしていますから、否応なしに…いや、自ら進んでこうした権力闘争に身を投じなければなりません。それは、心優しい道長のまま、世を正す志を持ちつつ、兼家のような的確で冷徹な権謀術策を使えるようになるという、葛藤に苦しむ困難な道です。

 道長がそのことにどれほど自覚的であるのかは、まだわかりませんが、進んで「我が家」の宿命を受け入れるようになったことだけは間違いありません。それはオープニング後の同僚たちとの会話でも如実に表れます。公任、斉信、行成の三人は、花山帝禅譲に道長も一枚噛んでいたことから、この件が右大臣家の一家をあげての謀であると察します。そこで、現れた道長に、ライバル心剥きだしの斉信は「それで?どうやって~、真夜中に帝を連れ出したのだ?」と挑発的に鎌をかけます。

 これまでの道長であれば、「俺は詳しくは知らん」と曖昧な返答に終始するでしょう。無能を装い、無駄な角を立てないのが彼のやり方です。しかし、今回ばかりは違います。「聞かないほうがいいよ」と暗に謀に自分が関与したことを認め、自分が政治的な動きをしていることを明言したのです。「もう終わったことだ」と一同はその場を収めますが、行成だけはその道長の微妙な変化に気づき、戸惑うように彼の顔を見つめます。不審そうな行成に「ん?」と不思議そうにする道長に「お顔つきが…」と絶句するように言います。

 飄々とした雰囲気に変わりはないでしょう。しかし、その顔にはある種の充実が窺えたのではないでしょうか。その精神の充実が自信のある先ほどの態度にもつながっています。その変化が余りにも急であり、その理由を測りかねているというのが行成の心情でしょう。それまでの心優しいばかりの道長とは違うものを感じ、戸惑っているのですね。


 それは生来、道長が持ち合わせていたものが、表に出てきただけなのでしょう。だから、道長自身は自覚がないのです。その自信と心の充実は、想い人であるまひろと結ばれたからであるというのは間違いありません。もっとも、童貞男が初体験をしたとき、たかが一度のことで、一時的に妙に気が大きくなるというのは、男性あるあるですので、この自信は自意識過剰の錯覚かもしれません(苦笑)

 まあ、一時的な自意識過剰としても、高御座生首事件での堂に入った機転の利かせ方などでは、その効力が高く働いたと言えるでしょうし、仕事について、「家」の宿命については、ある種の恐れが晴れて、粛々と役目を果たせるようになったことは、世を正すというまひろとの約束を考えれば、悪いことではありません。

 ただ、それは摂政家という血の宿命、権力を指向する人間特有の非情さを受け入れていくことになるでしょう。その結果、それまでは彼の優しさと結びつくことでその鷹揚さとなっていた大らかさが、非情さと結びつくことで傲慢さへと転じてしまう危険性を孕んでいます。慎重さが優柔不断となるように人の性格は、心の持ちようで裏にも表にもなりますから。

 もっとも年若い彼は既に30半ばの道隆やアラサーの道兼と違い、まだ世間の目からは、兼家の色がついていません。その意味では敵をつくりにくく、盗賊を撃退した件など宮中内での評判もあり、彼のこれからは彼次第です。政変前夜頃に、兼家が万が一のときに道長に家を託したのは、こうした兼家色の薄さもあってのことです。ですから、五位の蔵人になったばかりの道長は、粛々と仕事を覚えることから始めています。


 しかし、その何事もない手持無沙汰は、道長をまひろへの意識へといざないます。折しも、東三条殿から追い返されるように退出していくまひろを見てしまった道長は、為時が散位となり、その家が生活的に苦境に立たされていることを知ってしまいます。どんなに志を持とうと、まひろを思おうと、地位を持たない三男である道長には、為時の任官をどうにかしてやることもできません。「虫けら」と言い放った父に口利きをすることもできません。ですから、彼女を想い、ひたすら悶々とするのみです。それは、得意の弓術で矢を外すほどに心を乱します(百舌彦が驚くぐらいですからかなり珍しいのでしょう)。


 同じ月を見て、現状を思い、相手を想うと言う点では、まひろと道長は通じ合っているように演出しています。まひろと道長がそれぞれに送られた詩の3つ目を指でなぞるという行為をしているのが巧いですね。あの人の一番の気持ちの高ぶりに触れることで、あの夜かわした熱い想いを思い返しているのです。道長は彼女の苦境を思い悶々とし、まひろはその夜の契りだけを心の支えにして頑張ろうと決意しています。二人は互いを想いながらも、実は少しずつズレているのですね。

 道長は彼女を救い出すことだけを考えています。しかし、妾になることを嫌がるまひろは、男の情けにすがり施しを受けることを由としていません。それは楽をすることになりますが、その先に待つのは決して幸福ではないことを、彼女は知っているのです。何故なら、妾になるということは、相手との関係が上下関係になるから。対等ではなくなってしまうのです。彼女が望む、直秀のような理不尽な死を出さない世の中とは、人々が身分に関係なく対等に生きられることなのでしょう。

 さて、二人のズレが顕在化してしまうきっかけが、家刀自として懸命に働く姿であったことは皮肉ですね。先にも述べたとおり、ここで見せた彼女の美しさとは、彼女の内面の美しさです。ですから、道長がそこに惹かれ、想いを再燃させてしまい、再度の逢瀬を決意してしまうこと自体は仕方ありません。寧ろ、彼女の内面の魅力に気づける道長を評価してもよいでしょう。

 しかし、道長はそのまひろの美しさがどこから来ているのか、そのことに気づいていません。男の理屈に従わざるを得ない世の中で、彼女は倫子のように限られた中でも自分の意思で進む道を決めて、それに邁進しようとできる限り生きること、そこに希望を見出したのです。彼女が清貧の中で奮闘するから美しいのではありません。自分の意思で決めたことを貫こうとする、その志が彼女の家刀自を溌溂とした美しさに見せているのです。そして、それだけが、道長に対して操を立てるということだと信じているのだとすれば、彼女の純真は切ないですね。


 本当の貧しさをしらない道長は、そのことを知りません。そういう彼が、まひろを呼び出すことを乙彦が難色を示すのは当然です。貧しい貴族を裕福な貴族が妙な希望を持たせて、弄んでいるようにしか見えないのでしょう。きっぱりと「若君、もういい加減にしてくださいませ!」と強く言ってのける乙彦の株は爆上がりですね。今回、一番カッコいいのは彼でないでしょうか。下男としてですが、もっとも彼女を大事にして仕えているのがわかります。そして、そんな彼だからこそ、お嬢様の恋心を知っていますし、彼の熱意に真実を見るからこそ、逢瀬の取り次ぎをしてしまうのが哀しいところです。
 ただ、このときの乙彦の直感は正しかったと言えます。道長の想いは真剣で本物であっても、本当の意味で身分差というものを理解していないことが結局、彼の傲慢を生むことになるからです。



 婿を取らず、頑張ろうとした矢先の彼の呼び出し。それは、彼女なりの道長への誠意でもあります。だからこそ、その呼び出しはご褒美のようだったでしょう。溢れる思いが走り方にも、顔にも全身に表れていますね。道長には見えませんが、抱きしめ合ったときのまひろの嬉しさの表情には安堵すら窺えます。ここしばらくの間、様々な形で突き付けられた男の理屈に支えられた厳しい世の中の現実が、いかに彼女を苦しめてきたかが窺えますね。

 そうではない想い人に受け入れてもらえることが癒しになると信じたのかもしれません。久方ぶりに交わされる口づけは、前回のそれよりも濃厚です。互いの想いが深まり、確かめ合うといったように見えます。


 その確信があればこそ、道長はプロポーズを切り出します。その口上は「遠くの国にはいかず、都にいて政の頂を目指す。まひろが望む世を目指す。だから、側にいてくれ」というものです。彼女との約束を果たすために生きていきたいという真摯な想いを伝えたつもりなのでしょう。彼なりに彼女を想い、彼女の期待に応えて生きていく強い決意をしたのでしょう。先ほどの働く彼女を見た瞬間に彼女しかいないと思ったことも、この気持ちを強く後押ししているでしょう。

 「二人で生きていくために俺が考えたことだ」という言葉には、この言葉を待っていたんだろというような自負が見えて、ちょっと痛いですね。しかし、考えてもいなかった唐突な申し出に驚くまひろの顔は喜びではなく、戸惑いです。思わず突いて出た言葉が「それは私を北の方(正室、嫡妻のこと)にしてくれるってこと?」だったのは、今回の彼女の懊悩を考えれば仕方のないところ。本当になれると信じての言葉ではないでしょう。ただ、確かめたかっただけ…彼が他の男たちと同じか否かを。男は宣孝の言う通りなのかどうかを。


 この後の無言の二人を交互に移す切り返しショットが入りますが、互いを想い合うだけにそれだけで十分です。「妾になれってこと?」とその真意を確かめるだけです。返す道長に悪びれる様子は全くなく「そうだ、北の方は無理だ。されど、俺の心の中ではお前が一番だ。まひろも心を決めてくれ!」と一気にまくし立てます。

 良家の子弟である彼からすれば、まひろとの約束、政の頂点に立つには、良家へ婿入りすることが必須です。ですから、嫡妻が無理なことはまひろもわかっているはずだと思っていたのでしょう。また、彼が政の頂点に立つまで待っていては、今、生活苦にあるまひろは救えません。それゆえの最善の選択が、まひろを妾に迎えることだったのでしょう。


 しかし、道長の最善の提案が、極めて安易であることは、「俺の心の中ではお前が一番だ」という言葉から察せられます。気持ちさえ通じ合っていれば、一生添い遂げられるというのです。人の心は移ろうということがわかっていないということが、問題なのではありません。彼にとって婚姻が、単に好き合っている者が一緒に過ごすという恋愛の延長線上にしかないということが問題なのです。

 まひろが今回、婚姻、そして妾という問題に急速に向き合わなければらなかった理由は、生活が立ち行かないという現実問題に迫られたからです。そう、結婚とは、恋愛感情よりも現実の生活、日々を生きていくことに比重があるのです。だから、現在でも経済力が一番の問題になりますし、金銭感覚など価値観の違いを許容できる相手を選択するのです…って、私は独身なのでよくは知らないんですが←


 「恋愛は人を狂わせ、結婚は人を冷静にする」とは、けだし名言ですが、まひろと道長のズレはまさにそれです。ですから、「心の中では一番でも、いつかは北の方が…」というまひろの将来を見据えた言葉に、「それでもまひろが一番だ」と道長は「今」しか見えていない言葉を返し、会話にならないのですね。

 「耐えられない、そんなの!」と叫ぶまひろの脳裏には、十六夜の読み手のように妾になっていつも悶々と彼を待ち続ける毎日、あるいは貧しく、身寄りがない高倉の人のような末路など、人生というものが駆け巡ったのかもしれません。
 あるいは、情熱的で裕福な道長のことです、通うなどという面倒なことはせず、東三条の一角に住まわせるかもしれません。そうなった場合は、嫡妻と彼が過ごす場面を見ながらも、籠の鳥として自由を失い生きていくしかなくなります。それはそれで地獄でしょう。幼い頃にまひろの元を飛び出して死んだあの鳥と同じ気持ちになるかもしれません。
 物語を想像することに長けた彼女は、さまざまなパターンを想定し、そのどれもが不幸な結末になるようにしか見えなかったのではないでしょうか。


 そんなまひろに「(俺を好きだと思っている)お前の気持ちはわかっている(から大丈夫だ)!」などという、妾の厳しく哀しい現実を知らない、婚姻の何たるかも知らない道長の言葉に「わかっていない!」と返すのは当然です。現在もその傾向がありますが、婚姻とは女性の側にリスクが高いものです。平安期の形態であれば尚更です。それを無視して、安易に幸せになれるだろうと考える道長の優しさは、寧ろ残酷です。彼が、平安期の婚姻形態を当たり前だとする男の理屈に全く疑問に思っていないことを象徴しています。

 結局、道長なりにまひろを真剣に考えてはいるのでしょうが、「俺が」一人で「考えた」ことは、まひろと共にいたいという自分の願望を叶えることが全てであり、彼女の気持ちには全く寄り添っていないのです。大体、急に婚姻を申し出る前に、もっともっと時間をかけて、互いの望みについて話をすべきです。なかなか逢えない二人ですが、忌憚なく様々な話ができることが元々の二人の関係性の良さだったのですから。一方的過ぎる彼のやり方は、まひろを苦しめる男の理屈そのものですし、また彼女の母を死なせた上流貴族の傲慢さを道長もまた内包していることを証明してしまいました。

 直秀を死なせたときと同じく、安易に上流貴族の特権を振りかざしてしまっているのですね。あのとき、大切な友を失ったことを忘れていないはずですが、そうなってしまうのは、恋に盲目だからか、それが兼家の「家」に生まれた、育ってきたものが自然と身に着けてしまった傲慢さなのかまでは、わかりません。

 そのことは、偉くなって世の中を正してほしいという彼女の願望の真意も、道長は見落としているということを意味しています。       彼女は身分は違えど、どこまでも対等で道長を愛し、彼を見続けたいと願っているのです。道長に情けにすがり、施しをされる妾では、それは叶いません。自由でなければ。
    そのまひろの気高さを、本当は道長もわかっているはずなのですが、恋路に狂う今の彼にはそれが見えなくなっています。性急に現実的な形としての解決ばかりを求めてしまうのは、自分の激情を遂げたい思いに比重があるからです。結果、まひろを救うつもりが、余計に苦しめてしまっていまうのです。

 しかし、道長はそんな彼女の苦しみに向き合うことはなく、ひたすらに自分の提案をけり続けるまひろを我儘と断じます。哀しいことにまひろは道長の「ならばどうしろと言うのだ…!どうすればお前は納得するのだ…言ってみろ」という怒りに答えを持ち合わせていません。

 いや、世を変えるためにこの恋路を諦め、お互いの道に邁進するというのが答えなのかもしれません。あくまで頭で理解している答えです。だから想いが強すぎて、感情はそこに追いつきません。それを再び口にするのは永遠の別れを意味することになりかねません。答えられませんよね。
   そして、彼女はおそらく「耐えられない、そんなの!」と叫んだ瞬間に自分の醜い心にも気づいてしまったのではないのでしょうか?彼のことが好きで好きでたまらないがゆえに、実はまだ見ぬ北の方に対して既に嫉妬と憎しみの炎を燃やしていることに…決心は揺らぐばかりです。

 だから、まひろは「勝手なことばかり言うな!」と激高する道長に去られ、一人取り残された後、水面に映る自分の顔に石を投げたのではないでしょうか。耐え難い自身の嫉妬の醜さ、彼を愛しながら追いつめてしまったことへの慚愧…自分を責める思いばかりが浮かんでいたでしょう。
   何より優しい道長を変えてしまったのは、まひろの世を正すという多きすぎる願いに彼が性急に応えようとしたからです。彼女は、これにも苦しみます。

 ただ、彼女が道長の妾になれという言葉を拒絶した思いは間違ってはいないでしょう。男の身勝手に振り回される女性ではなく、一人の人間として身分に関係なく彼と対等に向き合いたかった。女性である前に人なのです。まだ明確でばないにせよ、彼女は一人の人間としての尊厳を求めているのでしょう。

 道長はそのまひろの思いに気づかない限り、まひろとの約束を叶えることはできないでしょう。まずは、自分の提案が身勝手であることに気づかないといけませんが、それも今の道長には遠いもののようですね。

 ああ、直秀がいたら、二人を叱ってくれたかもしれませんねぇ…


おわりに
 母ちやはの死をきっかけに、この世が男性中心に作られていることを政のレベルから、または婚姻及び妾という平安期の結婚システムから突き付けられてしまいました。そこには一人の女性の思いが入り込む余地はありません。ですから、まひろはそれに振り回され、自身の今後の生き方に悩まされることになったのです。倫子との気の置けない会話によって、生き方の方向性は一応、見いだせたものの、哀しいことに心身共に通じ合った想い人の道長にすら、他の男たちと同じく、自分を苦しめる傲慢さや身勝手が眠っていることに気づいてしまいました。

 皮肉なことは、彼の中に眠るそれを目覚めさせたのは、まひろへの激情、そして世を正したいというまひろの願いから彼が政の頂点を指向することになったこと、その二つであったことです。彼女の無謀な願いが、道長を変えてしまったことも、彼女の苦しみに加わるのです。

 一方、そんな彼女の懊悩に寄り添うこともできず、自分の想いだけに突っ走り、勝手に絶望してしまった道長の今後の動向も気になります。まずは、物語の最後、彼が兼家にお願いにあがったこととは何なのかということです。順当に考えれば、まひろとの関係に絶望し、捨て鉢になった彼が嫡妻を得るために縁談を探してほしいと進言することです。政治的には正しい行動ですが、まひろに見せつけるためのヤケクソだとしたら、予告を見る限り、野心からしたたかに彼を狙う明子女王はともかく、純粋に彼を慕う倫子には不憫というものです。当然、まひろも悲惨です。
 
 また、最悪の展開として考えられるのは、まひろを無理やりにでも妾にしてしまうという可能性です。というのも、今回、道長がまひろに妾話を切り出したことには、史料的な由来があるからです。日本の初期の系図集『尊卑分脈』(南北朝時代に成立)には、道長と紫式部の関係について「御堂関白道長妾云々」という記載があるのです。「云々」という文言は、この説が伝聞であることを示していますので信憑性は疑わしいところがありますが、道長と紫式部が愛人関係とされる根拠とする人もいます。

 おそらくは、本作の二人の関係も、そして妾話も、このことを元に創作されています。だとすると、そうした危うい展開もないとは言えません。万が一、東三条殿内に住まわせたりしたら、「源氏物語」の紫の上は体験談ということになりかねませんけど(笑)
 どちらにせよ、道長が自暴自棄で行動を起こした場合、その男の理屈で苦しむのは女性たちですね…結局、女性たちを救うのは、女性同士の絆になるかもしれませんが…さて、どうなるでしょうか?

 こう考えると、今回のまひろの気持ちを、道長が本当の意味で知るのは、ずっとずっと先のこと…彼が「源氏物語」」を読んだときかもしれません。光源氏を受け入れたばかりに彼と他の女性との関係に苦しんだ、源氏最愛の女性、紫の上の顛末からか、あるいは逆に心の平穏のために源氏を拒絶し続けた気高き朝顔の君の心映えからか…「源氏物語」に出てくる多くの女性は、まひろの心が投影されていることになるでしょう。
 そして、それを読んでまひろの気持ちを知ったときの道長とまひろの関係が手遅れなものになっていないことを祈りたいものですね。






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