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「光る君へ」第13回 「進むべき道」 その2 道長をめぐる女性たちの生き方

はじめに
 とうとうまひろと道長は道を違えてしまいました。最初から先のない恋でしたが、運命に引き裂かれたという以上に、彼らの想いの深さとそれによる躊躇が招いたすれ違いが決定打となったように思われます。
時は流れ、4年が経ち、二人は関わり合うこともなく、それぞれに生きています。父の思惑の結果とはいえ異例の出世をした道長は、まひろとの約束を守るべく政の世界へ身を投じています。勿論、不慣れな初心者ゆえに気概はあっても空回りをしている感は否めませんが、その言動は前回、道長自身が明言したとおり、不思議はありません。

しかし、気になるのはまひろです。道長と歩む道を諦めた彼女は「私は私らしく自分の生まれてきた意味を探して参ります」としか言えませんでした。第11回noteで指摘したように、この言葉は額面通りではなく、そこにあるのは、恋に破れ、自分の生まれてきた意味を見失ってしまったという深い哀しみです。つまり、「探していく」とは言うものの、実質はどうしてよいかわからないという彷徨でしかないことを仄めかした言葉なのですね。加えて、生活が困窮している彼女は、現実的には日々の生活に追われているわけで道を探すなどと呑気なことは言っていられません。

唯一の救いと癒しは、さわという親友が傍にいてくれるようになったことですが、それでも「進むべき道」は彼女の見出すものです。


 彼女は教養もあり賢いですが、何の力もない娘にすぎません。政はおろか他人様になにかをしてやれることもありません。また、彼女は「家」のために婿取りをして家計を助けることもしません。それは、おそらく「道長を見続ける」という呪いに近い操を立て、今なお道長を想う気持ちから離れられないからでしょう。ともかく、彼女は、「家」や政といった平安貴族がそのために人生をかけたものとは無縁のところにいます。

 勿論、貴族である以上、その常識に縛られ、またその弊害に直接的、間接的に苦しめられているのはたしかですが、一方で彼女はそこに積極的にかかわることができない立場です。このことは当時の女性一般にも通ずるところでしょう。皇太后という立場に立ち極めて政治的な詮子、あるいは道隆の実質的な参謀となっている貴子のほうが、本作の女性陣の中ではやや特殊な立ち位置と言えるかもしれません。


 しかし、政に直接かかわらないまひろのような女性も、また何らかの希望や願いを持ち生きていくはずです。そこで今回は政には直接かかわってはいない道長をめぐる女性たちの様子を整理しながら、まひろが「進むべき道」はどんなものなのかを考えてみましょう。

※その1も合わせてお読みいただけると幸いです。

1.学問を活かしたいまひろ

(1)民を救うという志

 ある日、市中になけなしの野菜を物々交換の品として、日用品の買い出しに行ったまひろは、ふとしたことから人身売買の場面に遭遇します。我が子を売ることはあり得ますが、今回の場合は文字の読めないことにつけ込んで証文を書かせ、了承の確認がないまま親から安く子ども買いたたこうという悪辣なものでした。理不尽が許せないまひろは、すかさず止めに入り、かえって怪我を負うことになります。彼女を庇う乙丸が、またとばっちりでひどい目にあっているのが可哀想ですね。正直言って、この忠義ものが、本作で一番いい男かもしれません(苦笑)

 結局、母子は引き離され、この人買いを止めることはできませんでした。この程度で済んでよかったというさわの手当を受けながらも、まひろ自身は、この事実に心を痛め、無力な自分に不満げです。どうにもならぬことは受け入れるしかないと知っているさわは、「もうお忘れください。民のほとんど字が読めませんから」と民の宿命であり、またこれが日常茶飯事のことだと慰めます。

 しかし、さわの慰めを聞いたまひろは逆に「文字を教えたい」とつぶやきます。唐突な思いつきにさわは呆れたように「一人二人教えても今日のような不幸は救えませんよ」と根本的な解決にはならないこと、そしてそれは自己満足にすぎないことをあっけらかんと諭します。

 さわは、まひろの妹分ですが、世情を知っているか否かという点ではまひろより随分、大人で、また現実的な物事の道理が見えているようです。さわ自身が言うほど、彼女は「物知らずのうつけ」ではありませんね。また宿命を受け入れるような諦めはありますが、悲観的になるではなく、それに負けない逞しさと明るさも同時に持っています。

 先のまひろの市中での買い物でも針売りとの交渉の空気が悪くなりそうになるとすっと割って前に出て別の出店の話で逸らしていますし、まひろの弁によれば、こっそり魚の干物を差し入れ、それが両親にバレ、叱られても、懲りずに度々差し入れていることが窺えます。まひろの気の置けない友人として、影日向に心遣いをしていることが伝わりますね。ですから、先のまひろを諭すような言葉にも嫌味がありません。きっとこの4年間、さわの存在にまひろは随分、救われただろうと察せられます。


 そんな彼女の大らかさへの安心感があるからこそ、まひろは、さわが語る世の道理に対して「一人でも二人でも救えたらいいわ」と返し、自分の身の丈にあった人助けから始めたいという自分の本音に気づけたのでしょう。

 さわに差し入れをしてもらい、欲しい日用品も思うようには買えず、手の届かない品は市場で見ないようにするなど、この4年間は立ち行かない暮らしぶりであることは容易にわかります。家刀自の仕事は恥ずかしくはありませんが、生活が厳しければ喜びは勿論、「自分の生まれてきた意味」を見出すこともできなかったでしょう。人買いの一件に出くわし、それについてさわと忌憚なく話せたことは、まひろにようやく訪れた転機となったのです。


 おそらく、さわはそんなまひろの無謀を笑うこともなく、あっさり受け入れたのでしょう。その夜、まひろは半月を見上げながら、「より良き世の中を求め貴方は上から政を改めてください。私は民を一人でも二人でも救います」と道長に語りかけ、決意を新たにしています。

 なんとなくですが、彼女が月に道長を重ね、語りかけるのは久しぶりではなのではないでしょうか。道長を思い返しても泣くことはなくなり、ようやく「自分の生まれてきた意味」を見つけられた今のまひろだからできることです。おそらく道長が聞けば「おかしな奴だ」と言いながら認めてくれる…そんな自分勝手な会話も夢想したかもしれませんね。彼女の表情は、晴れ晴れとしています。


 その後、まひろは乙丸を連れて、文字を学びたい人を募るための辻で大袈裟でわざとらしいデモンストレーションを始めます。まひろが辻でのパフォーマンスが効果的と思いついたのは、間違いなく直秀たちの散楽の影響ですね。彼女は、彼らのことを忘れることなく、それを血肉しているのですね…もっとも素人同然のそれに周りは訝るばかりで空回りしているのはご愛敬です。まあ、付き合わされている乙丸も、演じている矢部太郎さんもこれだけ受けないと居たたまれない気分だったかもしれませんね(笑)

 とはいえ、たった一人の少女の興味関心を引き、彼女に文字を教えることにまひろは新たな喜びを見出します。もとより貧しい民相手に始めたこと、稼ぎになどなりません。乳母のいとが、こんなにお家が困窮しているときに「どうなんでこざいましょう」と二度も繰り返して、為時に訴えるのは致し方ないのですが、為時は娘の好きにさせようと決めているようです。言って聞くような娘ではありませんし、これまでかけた苦労を申し訳なく思う気持ちもあるのでしょうね。


(2)まひろを認める宣孝

 こうしたまひろのあり方を否定しない意外な人物が宣孝です。金峯山へ御嶽詣をしてきた宣孝は、神の目に留まるために派手は格好をしてきたと得意げになって、その装いを見せびらかしにやってきました。何しに来ているんだ、お前…と思わなくはないですが、「お似合いでございます」と爆笑するまひろと目を丸くして驚く為時を見れば、生活苦のこの家にとって笑いをもたらす宣孝の存在もまた一服の清涼剤のようになっているのでしょう。

 この派手な装いは、清少納言「枕草子」の「あはれなるもの」段にも記載があり、この後、筑前の国司に任ぜられたことからたしかにご利益があったようで、彼のやったことは成功しています。まひろがご利益があったらお祝いと軽口を叩いていますが、やらなきゃいけなくなります。

 さて、笑いが一段落したところで、おそらく何度目かの「婿取りの話だが…」と切り出しますが、まひろは判で押したように「幾度も申し上げましたけど、私はどなたとも夫婦になる気はございません」と独身の意向を強く申し出て突っぱねます。元々、まひろの婿探しは、まひろの依頼はなく、為時も積極的に頼んではいません。ただただ、為時の家の窮状を見かねた宣孝の勝手な善意によるものです。ですから、まひろが断るのも定番です。

 それでも懲りずに婿を紹介しにきているのは、相変わらず散位のままの為時の家の経済的事情と「婚姻こそ貴族の娘の幸せ」という常識があるからです。宣孝は、まひろを幼い頃から知り、成人の儀には立ち会っています。言わば、彼は義理の父、親戚のおじさんのようなポジションです。ですから、まひろに対する保護者としての意識が強くあると思われます。

 前回、実資を紹介しかけた件を見てもわかりますが、経済的に裕福で、妾が嫌だというまひろの意向を汲んで嫡妻のいない若く、そして彼女の教養に見合う賢い貴族を選んでいます。まひろにとっては、好条件になる人物を見繕う努力を最大限しており、それはこの4年間で紹介した人物は皆、そうだったであろうと察せられます。彼女の賢さを昔から気にっていますが、それはあくまで保護者としてです。今も婿を探融通に長けていない父為時に代わって探しているというのが、当人の考えでしょう。


 ですから、後々、宣孝とまひろが夫婦になるからと言って、この時点から彼女を狙い、ロリコン趣味全開だったという見方は、本作においては穿ちすぎです。少なくとも、彼女が無理やりではなく宣孝の妾になることを選択するのです。そんな性欲第一の男を選ぶというのは、まひろらしくないでしょう。

 また、彼女の宣孝との初婚は、まひろが26歳。当時としては、この年齢は適齢期をとうに過ぎてしまった老嬢なのですね。対する宣孝のほうも、初老を超えてしまい老境の域に入っている状況。男ぶり盛んな時代ではありません。年齢差はあっても熟年カップルのようなものです。ですから、いやらしい目線で宣孝を見ることは、まひろに対しても失礼というものでしょう。


 さて、今回の断りが少し違うのは「今、子どもに読み書きを教えており、やりがいもありますんで」という天職を得たかのような台詞です。不思議そうに宣孝は「読み書きを教えて稼ぎになるのか」と聞きますが。「なりません。されど、文字を知らぬゆえに騙され、不幸になる人を少なくしたいという思いでやっておりますので、楽しゅうございますし、やりがいもあります」と心底、嬉しそうに断言します。
 すると、宣孝「実入りもないのに楽しいのか…おかしなおなごだの」と言って笑います。その様子には、まひろをバカにするようなものも、嫌味なものもありません。ただ、楽しそうに輝いているまひろに対する、ある種の安堵の表情を見せます。

 前回、前々回で婿入り話を振った際のまひろは、宣孝への不信も隠さず、どことなく棘があったものです。しかし、今のまひろには無理や背伸びをしたところがなく、純粋に今やっていることに喜びを見出しています。だから、宣孝は、変で面白い奴と思いつつも、すんなりと彼女のあり方を認めたのでしょうね。まひろの特異な性質、その根っこまで知って、彼女の中身の美しさを知っているのは道長だけですが、宣孝はそこまでではないにせよ、まひろのあり方を認めてやれる数少ない男性であることも間違いないでしょう。


 ここでふと思い立ったように、為時が、宣孝の子息であれば婿に丁度よいのでは?と提案します。この息子は、宣孝と共に派手な格好をして御嶽詣に行った隆光のことでしょう。年齢はまひろよりも3歳ほど下になります。この申し出に「あれはダメだ、あれはダメ!」と強く否定します。嫡男ゆえにもっとよいところに婿入りという意味合いかにも見えますが、結果的に隆光の嫡妻は同程度の相手でしたから別段、為時の家と縁組することを拒否することはありませんし、為時と宣孝との仲であれば、誤魔化さずに正直に言うでしょう。
 にもかかわらず、「ダメダメ…ダメ、ダメ、ダメ、ダメ…ダメダメダメ」とやたらにダメを繰り返し、頑なに拒絶するのは「まひろのような賢い娘では到底太刀打ちできぬ」という理由が額面通りなのだろうと思われます。加えて年下ですから、尻に敷かれてえらい目にあうのが関の山かもしれません。

 ただ、この頑なな拒否からは、いかに宣孝がまひろの才能を買い、人として気に入っているかが窺えます。もとより彼は、まひろの賢さに見合い、若く、そして裕福な相手を真剣に探していました。これは、まひろのハードルの高さと為時の家の窮状を鑑みてのことですが、裏を返せば、彼自身が、まひろの相手は自分以上に賢く、自分以上に裕福で、自分よりも若い相手でなければ、義理の親として認められんということの表われです。となれば、彼にとって自分の劣化版でしかない息子なぞ問題外でしょう。

 まひろのことを考え、最高の相手を探しては断られ、それを繰り返したことで、かえってまひろの良さにどこかで気づく、あるいはそれが保護者としての感情から愛情へ変わっていく瞬間があることが、この場面ではほのめかされているのかもしれません。今はまだ保護者意識ですけれど。


 さて、兼家の死が近いから為時の再任も近いかもしれないということを伝えると用事は終わったとばかりに宣孝は退去します。その姿を見送りながら、為時はふと「お前の夫を持たぬ強い気持ちはよくわかった。されど、その真意はどこにあるのだ」と問います。彼女を詰問したいのではありません、ただその頑なさを不思議に思ったのでしょう。ですから、うつむきかげんになるだけで答えられない娘に「言いたくなければそれでもよい」とあっさりです。

 不器用な父は彼なりに娘の幸福を願うだけです。だから「されどあまり己のいく先を決めつけぬほうがよいぞ」とだけ助言します。父が声高に婚姻を勧め、強要してきたわけではないことを知る娘も「誰かよい人が現れるかもしれぬとおっしゃりたいのですね」と素直に、父の愛情を汲み取ります。それができる親子関係になれたことが、第1回から見ている視聴者にはほっとする場面です。

 ただ、道長を相手に一生分の恋をしてしまった彼女には当分、いずれ現れる「よい人」のことなどリアリティがありません。まら、現れたとしても、彼と同じように魂まで強く結び合い、志を共にできるのか。あの奇跡はそうそう訪れるものではないとも、まひろには思えるのではないでしょうか。

 今の彼女にできるのは、子どもに読み書きを教えるやりがいをやり通しながら、この家の家計を助ける現実的な折り合いをつけることです。ですから、彼女は「どこかのお屋敷に働きに出たい」と申し出ます。経済的自立をしていれば、婚姻に惑わされず、道長に誓った民を救うことを自分なりにできるからです。
 しかし、貴族の世の中は信用社会です。為時は「五位の受領の娘ぐらいでないと無官のわしの娘でやっとってもらえるかどうか…」という厳しい現実を話します。やれるだけのことをやるというまひろですが、結果は父の言うとおり散々なものとなり…その苦労は倫子のもとに届くことになります。



2.復讐にすべてをかける明子女王

 道長をめぐる女性の二人目は、明子女王です。道長関係では、ごく最近登場した後発キャラクターですが、そのインパクトとストイックさはまひろも倫子も超えていますから、既にその存在感は無視できません。

 さて、そんな彼女も道長の妻となって4年が経ち、閨にて妊娠を告げます。しかし、道長はとくだん感情は見せず、それよりも「こんなときでも笑顔がないのだな」と彼女の心持のほうを心配します。といって、その心配がプレッシャーになるのよくないと思ったのか「まあ、無理をすることはないが…」と添えます。この二人の関係には、倫子との関係にはない緊張があるように思われます。

 倫子にせよ、明子にせよ、道長にとってはどちらも政略結婚であることに変わりはありませんが、左大臣の娘である倫子は不幸な生い立ちではありませんし、また初夜で道長を押し倒し感情を爆発させた様子から、彼女が道長を慕っていることは明らかです。
 ですから、、無理やりの婚姻といった感じは薄く、また兼家の病に関するやり取りを見てもわかるように倫子は、道長の心に寄り添い、それをほどくような心配りをしています。おそらく、土御門殿は道長にとってそこそこ居心地のよい場所だろうと察せられます(義母にもかなり気に入られてますしね)。

 それに比べ、安和の変で失脚し失意の中で亡くなった源高明の娘である明子女王は、決して幸福な生い立ちではなく、後ろ盾のなさを姉、詮子につけこまれ、婚姻するしかない状態にされていくさまを彼は御簾ごしに見ています。また、そのとき、彼女の気位の高さや気の強さも感じ取ったでしょう。しかも、嫡妻ではありません。道綱兄から妾の辛さを聞いている道長は、笑いもせず、感情の起伏も薄い明子に気後れする、必要以上に気遣うところがあるのではいかと思います。
 背中に添う彼女を避けるように立ち「そなたを微笑ませることのできぬ俺も不甲斐ないが、立派な子を産んでくれ」と声をかけるのも、実際、申し訳ない気持ちが先だっているのかもしれませんね。


 明子は「微笑むことすらなく生きて参りましたゆえこういう顔になってしまいました…」と語りますが、これは真実だと思われます。道長はその不幸な半生を想像するだけですが、彼女は藤原北家への憎しみに満ちていますから、その恨みが彼女に心から笑うことを許さないでしょう。
 子ができたことは「嬉しゅうございます」と言いますが、これは兼家に目通りできるチャンスだと思えばこそですね。だから、彼女は兼家の見舞いをすることを提案します。


 さて、兼家との謁見、既に認知症に侵され、おぼつかない様子の彼は、道長と共にいる相手が誰であるかすらわからない有様。ですから、高明の娘、明子女王と知っても「父上は息災か」などと惚けたことを聞いていしまいます。仇がそのことを覚えていないことほど腹立たしいことはありません。病のせいとはいえ、兼家は明子の地雷を踏んでしまいます。
 明子は薄く笑うと「父は太宰府から帰ったあと、身罷りました」と淡々と事実を語ります。道長の前で笑わない彼女が、ここでは薄く笑うのが不気味ですね。言葉は事実だけですが、その言外には「お前たち藤原が父を太宰府へ追放、左遷したから」だという皮肉が込められています。

 しかし、正気を失っている今の兼家に皮肉など通じるはずもなく、亡くなったという事実だけに反応し「気の毒であったのう」と明子の地雷をさらに踏み抜いていきます。老いさらばえた父が、追いやった政敵の娘もわからず、彼女の心を逆なでするというのは、道長にとってはさながら地獄。居たたまれなくなり、部屋を飛び出てしまったのは仕方ないところ。彼には何の罪もありませんから気の毒なことです。


 道長の不在は明子には好都合、偽りの笑みを顔に張り付けながら、呆けた兼家より手元の扇を賜るよう願い出ます。あれほど腹芸を得意とした兼家が、小娘一人の腹も読む意思すら持てず、ぼんやりしているさまは、この世の無常というものでしょう。まんまと扇をせしめた彼女は、今度こそ満面の笑みを顔に浮かべ、笑い声すら漏らしながら御礼を言います。笑うことを忘れていきてきて、道長に一度も見せなかった笑顔は、復讐の歓喜に彩られ凄絶なものとなっていますね。

 おそらく彼女が微笑むのは恨み骨髄にまで気持ちが高ぶったときなのでしょう。例えば、兼家が明子の地雷を踏み抜いたとき、道長は彼女の心中を思い、居たたまれなくなりましたが、彼女にとっては「必ずやり遂げる」決意を新たにした瞬間です。その決意が、彼女を笑顔にして、ますます輝かせるのです。つまり、恨みと笑みがイコールになるのが、明子の特性だと言えるでしょう。
 そうなると、道長の前で微笑まないことは寧ろ情があり、誠実だと言えるかもしれません。こんな彼女の性質を恐ろしさと取るか、そうしかできなくなった哀しさと取るかは、難しいところですね。


 こうして、呪詛のための品として兼家の扇の入手に成功した明子は「今度こそ息の根を止めてやります」と豪語しますが、兄俊賢は「お腹に子がいる」からやめるように忠告します。以前のnoteでも触れましたが、人呪わば穴二つというように呪詛はかけたものにも返ってくるものです。呪いを受けるのが明子一人であることは百歩譲っても、何の罪もないお腹の子に返るようなことは道義に反するだろうというわけです。


 しかし、明子は、かつて父の無念の死に対して震えるほどの怒りを抱いた兄が藤原の風下に立つようになったことを「腰抜け」となじります。俊賢は自嘲気味になると「月日は流れた。自ら命を絶てぬならば、生きていく他はない。生きていくなら力のあるものに逆らわぬがよい」と答え、「それが私の学んだことだ」と長年、悩み抜いた末の生きる術であると断言します。
 彼も単純に藤原家になびいているのではありません。自分の生きがいを探し、「家」の存続を第一とする平安貴族の本然に返ったのです。

 父、高明の無念は、息子である彼が栄誉を手に入れ、次へその血をつないでいくことで、やがては昇華される…そのように考えを改めたのではないでしょうか。事実、彼はその処世術で道長を支える四納言として名を馳せていきます。受けた苦労を力に変えていくことも生きる勇気なのです。
 だからこそ、その血を引くお腹の子を大切にするように言ったわけです。勿論、お腹の子にかこつけて、妹に愚かなことを止めさせたかったというのもあるでしょう。

 兄の吐き捨てるような物言いに、彼の決断が「腰抜け」でもないとわかった明子は、なじることも、その生き方に異を唱えることもしないと言います。しかし、「ただ私は必ずやり遂げます」と自身の意思だけは頑なに貫き、兼家への呪詛を諦めません。父の敬愛が、彼女の大きな要因だと思われますが、ずっと恨みに凝り固まり、自然な心からの笑顔も忘れた彼女には、これ以外の生き方ができなくなっていると思われます。
 自らの心も身体も復讐に捧げ、その炎にくべ、寧ろそうして燃え尽きたいとすら望んでいるかもしれません。彼女は、生きることを諦めているのです。そんな彼女に理想も、政も、恋も何もありません。

 こう考えると、明子女王とは、実はまひろの反転した姿であることが見えてきます。もしも、まひろが道兼の恨みに凝り固まり、それを晴らすことだけに人生をかけたとすれば、明子女王のようになったかもしれません。たまたま、道長に逢い、哀しみも辛さも希望も志も共有できたこと、そして倫子のような友人ができたことが、まひろを救い、今、民を救う細々とした活動に希望を見い出せるまでになったのです


 明子は兼家が亡くなったとき、目的を失うことになります。そのときの選択、あるいは道長の心遣いによっては、彼女から本当の笑顔を取り戻す可能性もあります。彼女の復讐の念がどう昇華していくのか、あるいは新たな標的を見つけて、より恨みを深めていくのか。これもまた「光る君へ」の見どころとなりそうですね。因みに倫子が90歳まで生きたように、明子女王も85歳まで生きたと言われます。まだまだ彼女の人生は長いのです。


3.嫉妬する倫子に複雑な表情をするまひろ

 まひろの就活は、あまりにも多くのところで門前払いを食らったこともあり、その苦境はサロンを通して、倫子の耳にも届くことになります。4年前、これからも仲良くしたいと友情を確かめあったまひろと倫子ですが、婚姻、出産と倫子のプライベートが激変してしまい、土御門殿サロン自体の回数が減ってしまったようですが、姫君の一人が「まひろさんを覚えておいででしょうか」と切り出したことから見て、相当の期間、ここへ訪れていないようです。無論、まひろは既に余裕のない生活にありましたから、都合が合わないまま、時が過ぎてしまっているのでしょう。


 ただ、このことは4年前のあの日、道長と倫子の婚姻を知り、自身の失恋を確信し、傷心にあったまひろにとっては、好都合だったかもしれません。倫子はまひろと道長の間柄を知る由もありませんから、道長と倫子の婚姻において倫子には何の咎もありません。また、親友倫子が想い人と結ばれたということ自体は、心から祝福したい案件です。しかし、道長への恋心がそれを拒みます。
 まひろにとって道長との別れは深く傷つくことでしたが、一方で敬愛する友人の婚姻を心から喜べないこと自体もつらいことだったのではないでしょうか。全然、そうではないのに、どこかで倫子を裏切ってしまったような気持ちに苛まれたと察せられます。倫子は、まひろを対等に扱い、心を救ってくれた人ですから。


 また道長が婿入りした土御門殿へ出入りすれば、何かの拍子に道長とバッタリ出会うかもしれません。道長の顔が見られたら嬉しくもありますが、同時にそれは苦しみです。失恋の痛みだけではありません。道長を傷つけ、政略結婚を覚悟させてしまった自責の念も強くあります。彼はこの婚姻を幸せにはならないと言っていましたからね。ですから、見たいけれど、できる限り道長から離れて、自らの心が落ち着くのを待ちたかったでしょう。

 勿論、意に反して、道長が倫子と幸せになっていて、土御門殿で二人の仲睦まじい様子を目の当たりにするとなれば、それに耐えられる自信も、まひろにはなかったはずです。妾になることすら、彼を待ち嫉妬することを耐えられないと思った彼女ですから。このような複雑な心境もあり、自然と土御門殿から足が遠のいていったのでしょう。


 無論、倫子はこうしたまひろの逡巡は知りません。ただ、彼女が父の散位から働くことを選び、苦労を受け入れることにしたこと知るのみです。安易な同情はかえってまひろに失礼であるとわかっている彼女は、心の片隅で気遣いながらも見守るに留めていました。しかし、その苦境が予想外と知った倫子は、顔色を変え、土御門殿で働けるような計らいを整え、まひろに文を遣ります。本当に大事なときこそは、彼女のできる範囲で助けようと思っていたのでしょうね。


 そんな彼女の温情を見れば、まひろもなんとなく避け続けていた逡巡を捨て、飛んで土御門殿へ駆けつけるのは当然でしょう。道長に鉢合わせになってしまう危険を冒すことになろうとも、一にも二にも、倫子の真心に応えたいのです。まひろと道長の魂のつながりは尊いものですが、まひろと倫子のシスターフッドな関係も同じくらいに大切なものなのです。丁度、子どもに文字を教えることでささやかながらも民を救う生きがいを見出せるようになり、時間薬によって道長への想いもある程度、整理がついています。つまり、今という時期が、まひろの土御門殿行きを後押しした面もあったでしょう。

 参上して「私をご心配いただく心暖まる文を頂戴し、胸が熱くなりました」と感謝の真心を過不足なく語るまひろの嬉しげな表情は、倫子の前でしか見せないものです。そんなまひろに安堵した倫子の「今日は会えて本当に嬉しいわ」の笑顔もよいですね。時を多少経ても変わらぬ二人の対等で親密な関係性が微笑ましいですね。まあ、道長の件があるのでハラハラもしますけど(笑)


 ただし、倫子の申し出た土御門殿での仕事については、まひろは「仕事は決まってしまったので」と断ります。この断りの理由が嘘かどうかは、現時点では判断しかねます。次回以降まで保留ということでよいでしょう。ただ、彼女としては、何より倫子に道長との過去が知られることを恐れているでしょうから、何らかの理由を立てて断ったとは思われます。ただ、仕事についての嘘はすぐにバレそうですから、つかない気もするのですね。


 まひろの答えに「まあ、それは残念」と言いながらも、「それなら、こうしてたまにお訪ねください。まひろさんとお話しとうございます」と添えます…というかこっちが本音ですね(笑)彼女はまひろを雇うと考えたとき、赤染衛門のように傍において話し相手になってもらおうぐらいの算段をしていたということが、ここでわかります(笑)本当にまひろが来るのを待っていたのです。

 そして、「今日はまだ内裏から戻りませんけど、殿にも会ってくださいね」と嬉し気に付け加えます。嫌味でもなんでもなく、当然のことです。何故なら、まひろだけが倫子から秘めたる想い人がいて、必ず婿にしてみせるとの決意を聞かされているからです(第11回)。その答え合わせは、婚姻後にするというのが約束でした。二人はお互いに「楽しみ~」と笑い合ったものです。だから親友にお披露目して、ちょっとした惚気話の一つもするというのは、倫子からすれば自然な流れだと言えるでしょう。


 勿論、まひろにとっては、改めて道長が他の女性と夫婦になったことを突きつけらるこの言葉は、針で刺されたような痛みが走ったことでしょう。倫子の言葉に曖昧に答えると「目覚ましいご出世、まことにおめでとうございます」と誉めそやすことで、倫子の婚姻を祝福します。素直に「私も驚くばかり」と笑う倫子に「よろしゅうございました」と返すまひろですが、このときの表情が絶妙ですね。
 まひろは笑顔をつくりながら、時折、陰りが入り、それを打ち消すように笑い、また陰るということを繰り返しています。笑顔と苦しさがまひろの表情を行き来するのは、素直に祝えない辛さも倫子の幸せを祝福したい気持ちも本物だからなのですね。


 さて、話が一段落したところで、倫子は意を決したように懐に忍ばせた文、三通をまひろの前に並べます。わざわざ懐に忍ばせてあったのは、まひろが来たら話そうと倫子が思っていたからでしょう。一つは、こうした話ができるのはまひろだけだから。今一つは、その文が漢詩だったからです。まひろに漢詩の教養があることを知っていますからね。

 そして、その三通の文の漢詩は、言うまでもなくまひろが道長にあてた恋文です。倫子曰く「大切そうに文箱の中にかくしてあった」とのこと。今回の定子といい、倫子といい、どうしてあんたらは人の文箱を勝手に盗み見るのか…という問題点はさておき、道長についても何故、昔の女の手紙を後生大事に残して、よりによって他の女の家に持ち込むのか~!?となった視聴者も結構いたのではないでしょうか。


 恋愛には、大まかに「上書き型」と「フォルダー型」の二つがあるものです。前者は新しい恋人ができれば、前の人のことはすっぱり忘れられるタイプです。このタイプはもらったプレゼントは大手質屋に売り捌きますし、手紙や写真もゴミ箱行きです。そして後者の「フォルダー型」は、付き合った人一人一人の思い出フォルダーが存在し、それを大切にするタイプです。こういう人は別れても相手を大切に思っていることがありますね。
 嫡妻以外に妾を持つのが普通の平安貴族の男性陣は、「フォルダー型」っぽいですね(笑)どちらにせよ、証拠になるものは燃やして、フォルダーは心の中だけにしておくことが無難な気はします。ただ、道長はそれだけではない面もありそうですが、それは後述しましょう。


 余談はさておき、予想外のものに内心狼狽えるまひろをさらに追撃するのが、漢詩だから男性とも思ったのだけど「女の字だと思うのよ」という鋭い一言です(笑)倫子は賢く、観察眼の優れた人ですので、流石の直感としか言いようがありませんが、まひろ以上に視聴者の心臓に悪いですね(苦笑)

 「さあ…」と首を捻ってはぐらかすまひろの目は完全に挙動不審が宿っていますが、不倫の文を前にして困っているという体で誤魔化せる程度でしょう。そして、漢詩を知るまひろに「どういう意味かわかる」と問う倫子に、意を決して、その漢詩が陶淵明の漢詩「帰去来の辞」であることを説明しようとします。第10回noteで解説しましたが、この漢詩、道長のお悩み相談と勘違いして返したもので恋文というよりも志の言葉。ですから、説明もなんとかなりそうとまひろは思ったのではないでしょうか。

 この漢詩が結果的に二人の魂を結びつけ、あの世の契りとなっていったことは当事者以外にはわかるものではありませんから。


 しかし、言いかけたところで、「もういい…」と強く言われ、まひろはかしこまった上で動揺します。いつも落ち着き、大らかな倫子が初めて見せた嫉妬の色だからです。そして、まひろだけは、その嫉妬が向けられるべき先が自分であることを知っていますから、動揺は極まります。倫子にとってみれば、文のやり取りが他の女とあったという事実だけで十分です。今更、内容など意味はない…というよりますます傷つくだけです。

 ただ、倫子が疑ったのは、見えない女の存在ではなく、道長のもう一人の妻、明子女王とのことでした。「あちらとは文のやり取りがあったのね…」と諦めたように、されどやや悔しげにつぶやきます。まひろにとっては、最悪の事態は免れましたが、倫子以外の妻の存在は初耳だったらしく、別の動揺が彼女を襲っています。

 倫子にしてみれば、初めてにして唯一の殿方が道長です。ですから、ときめくようなやり取りも夢見たはずです。それができるよう赤染衛門につき、教養も身に着けてきたのですから。いきなり訪ねてきて情熱的に抱かれたことも、嬉しかったのでしょうが、他の女とはときめくやり取りがあったのであれば、自分にそれがないことは不満です。この嫉妬心は乙女心のなせるところでもあるのですね。

 そして、その不満を「私には一通の文もなく、いきなり庚申待の夜に訪ねてこられたの。突然」と親友にぶちまけるのは仕方ありませんが、衝撃を受けるのはまひろのほうです。自分との別れを告げたあの夜、その足で倫子のもとへ忍んでいったのか…それをどう解釈してよいものか、道長はどんな気持ちであったのか、それを考えると、まひろの心は千々に乱れるばかりです。

 結局、倫子は「でも漢詩ですから、この文は殿方のものということにしておきますわ」と事をこれ以上荒立てないことを明言します。貴族の女性としての宿命として飲み込むことにしたのは、今の道長の自分の慈しみが信じられ、幸せだからでしょう。その余裕が事を収めさせたのだと思われます。勿論、嫡妻としてのプライドもあるでしょう。また、親友まひろに溜まったものを吐き出せたこともプラスに働いているように思います。まあ、まひろには複雑なことですが。


 まひろにとっては一つの危機は去りました。とはいえ、心に残るのは「あの人はこの文を捨てずに土御門殿まで持ってきていたの…」とこのことです。この文の存在は、道長が婚姻の後もなお、あの夜に至るまでのことを未だに大切にしているということでしょう。それは今なお、まひろへの想いを捨ててはいないということかもしれません。また、あのとき、彼はまひろの願いのため、世を正すため政の頂点に立つとも言っていました。順調な出世とこの文は、その約束と志が生きていて、彼が頑張っているとも思えるでしょう。

 実際、彼はそれを叶えるべく努力をしていますが、おそらく、この文を持っているのは、まひろへの想いだけでなく、自身の初心を思い返すために持っていたのではないでしょうか。あの約束を叶えるための彼の戦いは、まひろの考えている以上に孤独なものです。支えになるものが必要だったと察せられます。とすれば、彼がこれを捨てられなかったことは倫子には申し訳ないことですが、仕方なかったと言えるでしょう。

 

 道長が倫子と住まう土御門殿でまさかに出会った彼の本心らしきものは、まひろをときめかせます。ですから、まひろの表情には何気に嬉しさが漏れてしまし、結果、微妙に恋愛勝者のような満足感まで出てしまっています。倫子に対してそういう気持ちを持っているわけではありませんから、無意識に漏れてしまった喜びがそういう顔にしてしまったのでしょう。
 このわずかに浮かんだ自負を吉高由里子さんが、絶妙な匙加減で演じてくれていますね。流石にこの表情が、倫子に気づかれると不味いように思われましたが、ここで珍客・彰子が飛び込んでくれたおかげで、それを悟られずにすみます。


 さて、彰子はわざわざお出ましになったにもかかわらず、まひろを見るとすぐに倫子の背中に隠れてしまいます。申し訳ないと思った倫子は「この子、うちの殿に似て人見知りなの」と応じるのですが、この言葉もまひろには微妙に刺さります。道長に似ている子…彼と倫子が夫婦であり、既に子を成しているという現実を突きつけられたようなものだからです。

 一方で道長は人見知りなだけの人ではないこともまひろは知っています。三郎の頃の気さくな様子も、熱い言葉を発する情熱的な彼も…さまざまな彼を知るまひろは、この家で無難に過ごしながらも、もしかしたらすべてをさらけ出してはいないのかも…とも思わせます。一体、今、道長はどんな人になっているのか…あまりにも一気に彼に関する情報の波にさらされたまひろは、気持ちが落ち着かず、その場を去るこにします。



おわりに

 まひろの倫子への感謝と友情は、本物です。ですから、道長との婚姻もできれば祝福したいとも思うし、道長と自分の過去がこの夫婦に影を落とすことも恐れ、申し訳なくも思っています。それでも、土御門殿で道長のかつての想いが残滓に触れ、4年前のあの日を思い起こす中で、やはり彼への想いが断ち難いことも改めて自覚してしまったようです。

 それだけに、、娘を設け、まさに幸福な倫子の様子は、まひろにとってどこか物悲しいものがあります。それは嫡妻か妾の違いはあるにせよ、ありえたかもしれない道長と夫婦になった場合の自分の姿でもあるからでしょう。


 ようやく、「進むべき道」のほんのひとかけらを見出したまひろですが、想いはまだまだ揺れてしまいます。しかし、それでよいのでしょう。哀しい経験から民を救うことを望むまひろは、民の苦しみと哀しみにはとても敏感です。ただ、一方で幸せや喜びといった点はまだ理解できていないのではないでしょうか。為時が危惧するのは、結婚如何ではなく、何事にも一生懸命なまひろが、自分の幸せを得る機会を逃してしまうのではないかということなのです。今、彼女自身が、自分がどうすることが幸せになれるのかをまだ考えることです。

 政にかかわる道長は、大局的な視点を求められています。しかし、その対極に立つ彼女が持てるのは、人々の生活に寄り添う目線です。哀しみは今のところは十分です。今は幸せを知ることが大切なのかもしれません。道長と倫子の様子に惑い、宣孝から寄せられる縁談を見て、さわと他愛のない会話をする中で、そろそろ彼女は自分の幸せを模索すべきなのかもしれません。

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