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シロクマ文芸部掌編小説「青い蟹」【逃げる夢】


「逃げる夢を見たの。昨夜。」
「逃げる?何から?」

「巨大な青い蟹から。」

若い夫婦が橙色に染まった寝室のベッドの上で寛いでいる。
夫は妻のその奇妙な話の切り口に、11月の冬へと向かう薄暗い夜の冷たさを感じ取っていた。

「まあ、巨大といっても私の背丈の半分くらいの大きさなんだけれど、とにかく夢の中でその青色の蟹が私の跡をずっと追ってくるから、私はひたすら逃げているわけ。最近、そんな夢をもう何度も見てるわ。」

妻は夫の顔を見ないで、天井に浮いた影の線を目でなぞっている。

「同じ夢を?それは確かに気味が悪いな。」
「そう。私は辺り一面に広がる砂漠の上で、足を縺れさせながら懸命にその青い蟹から逃げてる。蟹はその何本もの細い脚を乱雑に動かしながらも、ものすごい速さで蟹行してくるのよ。」

まるで現実に起こった災難のように話す妻に夫は酷く困惑していた。
妻は元々、日常の出来事を多様な言葉の表現を用いて詳細に話す癖があり、その度に夫の感情は揺さぶられていたのだ。
そんな妻の性格を1つの個性として受け入れていた夫だったのだが、夢の話までこうも具体的に語られると、釈然としない心持ちになる。

「それで、結局どうなるんだ?」

夫は仄かにやってきた眠気のために妻の話を早く切り上げようと、スマホの画面から目を離してそう聞いた。妻は相変わらず、夢の話を思い出そうとしているためか、天井を凝視するように目を見開いている。

「私はね、その青い蟹に追いかけられているとき、勿論恐怖からくる感情で逃げている。でもふと後ろを振り返ると、私と蟹の距離はいつまで経っても縮まることはないの。砂に足を取られて縺れたとき、私はとうとう追いつかれたと焦るんだけど、結局、その青い蟹に捕らえられることはない。」

そう話して妻が夫の方へゆっくりと顔を横に向けた時、その張りつめた表情が常夜灯の明かりによって解けるように夫の目には映った。
それから妻はどこか嬉しそうな表情を浮かべながら、

「だから私、今度その夢を見たときには、足を止めて捕まってみようかしらって、いつも眠る前に思うんだけど、夢の中の私は結局、あいも変わらず逃げているのよね。」

と夫に語りかけた。
夫は仕事の疲れから、もう睡魔が眼前までやってきているのを堪えながら懸命に妻の話を聞いている。

「青い蟹は確かに怖い。」

もう眠りの中に頭上まで浸かった夫が、消えゆく意識の中でくだらないダジャレを言ったのを妻は静かに聞いていた。
妻は夫の半分閉じた目とそのくだらないダジャレに自然と口角が上がるのを感じ、起こさないようにルームライトの灯りを落とした。


暗中、妻は夫の微かな寝息に耳をそばだてながら、自分の中に確かに蠢く生命の脚音が、夢に出てくる青い蟹のように追いかけてくるのをひしひしと感じていたのだった。



#シロクマ文芸部



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