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【短編小説】「人生劇場」第4話(全5話)

 ビルの壁のパネルに、休憩90分3000円~、120分3500円~、と書かれていたホテルの前の壊れかけた室外機は、相変わらず唸るようなエンジン音を立てて、オートバイのアクロバットショーを繰り広げていた。
 森野と別れた松田は、現場百篇の言葉通り、最初の現場に立ち戻っていた。現場検証というほどではないが、松田は中腰になり、辺りに何か犯人につながるようなものは無いかと、目を凝らして探し物をしてみた。排水溝のそばには煙草の吸殻。ホテルを囲む植え込みには、コンビニのレシートやビニール袋。コインパーキングの駐車場のホンダのフィットの前輪の下には、未開封のガム。そこから少し離れた精算機の下には、昭和62年製造の10円玉……。落ちていたのはそれくらいで、ホテル街の路地裏にしては奇妙なほど、かなり清掃が行き届いていると松田は思った。
 松田=仁村は、やはりここは、自分と犯人が揉み合った現場であり、撮影のためにしつらえられた場所だったのだと直感した。仁村はここに至っても未だ、肝心のカメラの存在を確かめることが出来ずにいたが、もはやそんなことは二の次、もっと言えば、どうでもいいことのような気がしていた。カメラがあるから演じる。役者とは、確かにそのような存在で、カメラがなければ一個人に戻る。だが、本当の役者とは、カメラの有無など関係ないのではないか。今までの自分の俳優人生は、そのカメラにこだわりすぎたがために、上手くいかなかったのではないかと思い始めていた。仁村はこの機会に、新たな俳優人生を歩み出そうと、改めて思った。

 現場を後にした松田は、次の手掛かりを求めて、K寺陸橋を挟んだ四車線の通りの歩道脇で、右手からやってきた個人タクシーを手を上げて呼び止めた。松田に気付いたタクシーが、ウインカーを出して路肩に止まり、間もなく後部座席のドアが開いた。乗り込んだ松田は「すみません」と言った後、次はどこへ行くべきかを考えた。別れた彼女が言っていた通り、通り魔の犯行が関東近郊で行われているのであれば、各犯行現場を回ってみるのも悪くなかった。情報は足で稼ぐ。古い刑事ドラマのようだが、それが松田の信条だと思った。松田はあえて、すぐには行き先を決めず、とりあえず車を出してもらうことにした。

 景子はT京メトロ東西線でN本橋まで行き、そこから都営A草線に乗り換え、約20分の移動でA草にたどり着いた。スマートフォンで時刻を見ると、もうすぐ菜々子が下校する時間だった。A草のジャズバー。その情報だけを頼りに、景子は駅前でタクシーに乗り、とりあえず運転手に頼んで、しらみつぶしにジャズバーを当たってみることにした。決して効率のいい探し方ではなかったが、詳しい手掛かりがない以上、そうするしかなかった。
「ジャズバー? こんな時間に? たぶんどこも開いてないよ」
 開口一番、景子は運転手の三沢裕一郎みさわゆういちろうにそう告げられた。確かにスマートフォンでどの店舗を調べても、軒並み夕方から夜が営業開始の時間だった。それでも、もうそろそろ開店の準備をするところもあるだろうとも思い、景子はダメもとで各店舗を訪ねていった。

 4件目に訪ねた「ブルー・トレイン」というジャズバーは、大通りから細い道に入り、突き当りに立つ5階建ての縦長のビルの3階にあった。建物の左側に外階段の黒い螺旋階段が伸び、各階の外廊下に続いていた。景子は、「少しだけ、お待ちいただけますか」と三沢に声を掛け、タクシーを降りると、駆け上がるように螺旋階段を昇って行った。 
 3階の外廊下に面した「ブルー・トレイン」の店のドアの前に立ち、3度ノックをした後、「ごめんください」と景子は荒い息で声を掛けた。間を置かず、「すみません。どなたかいませんか」と続けた。ドアには、クローズかオープンと分かるような立て札やボードの類いは何もなかった。景子はもう1度、「ごめんください。どなたかいませんか……」と繰り返した。その頃にはもう、景子の声は気弱く震え始め、仮に中に人がいたとしても、とても聞き取れるような声量ではなかった。景子が三度みたび、声を掛けようとした直後だった。螺旋階段を登ってくる底の堅いサンダルの足音が聞こえ、景子がおもむろに振り返ると、階段を昇るにつれ、じょじょに姿を現してきた、白髪の頭をひっつめにした80代半ばくらいの女性と、思わず目が合った。4階で、スナック「ミチ」を営む柳下美千代やなぎしたみちよだった。
「――おや、どうしたんだい。そこに何かようかぇ」
 景子は震えていた喉から、何とか声を絞り出し、
「あ、あの。ここの、お店の方は?」
「う? もういるんでないか。3時過ぎてろうもんね」
 景子は、そう、ですか、と息を吐くのもやっとだった。
「どうしたんね、あんた。なに泣いとろうに」
 景子は美千代に言われて、初めて自分が涙ぐんでいることに気付いた。
「どれ」
 美千代は力強くそう言うと、これまで何人もの人々にそうしてきたとでも言うように、景子のもとに歩み寄り、景子よりも小柄なその体で、景子をそっと抱擁した。景子は子どもの頃、母親の万里子まりこに抱きしめられた記憶をあまり持っていなかったが、それでもそのわずかな1コマが蘇ってくるような、懐かしさを感じさせる抱擁だった。3分ほどそのまま、美千代に抱きしめられていた景子は、ようやく落ち着きを取り戻し、今ここにいる事情をすべて美千代に明かした。
「はよう警察に、と思うんじゃが、そうもいかんのね。それにしてわるい男だの。こんな奥さんを泣かせとるだに」
「いえ、正則さんはそんな人ではないんです。本当にまじめで、家族のことを思ってくれて、やさしい人で……」
「まあ、いいさ。でりゃあ、山ちゃんに声かけてみるかね」
「山ちゃん?」
「ここのマスターさね。山下晃一やましたこういちっちゅう。都内のジャズ好きで知らん人はおらん人さ」
 美千代はドアの前に立つと、固く握った骨ばった拳で、ドンドンと大きな音を立ててドアを叩き、
「山ちゃん、お客さんさね。おるんだろ!」
 景子を待つ運転手の三沢にも聞こえるくらいの声の大きさでで、山下のことを呼び出した。
 しばしの沈黙の後、こちらに人が近づいてくる気配と足音があり、間もなくドアが開き、山下晃一が姿を現した。
「――ん? なんだよ。ばあちゃんか。どうしたのさ」
 半開きのまぶたに、寝巻のような黒のTシャツとベージュの短パンをはき、けむくじゃらのすね毛をさらす山下は、若干迷惑そうに美千代に応対した。
「まぁた、寝てたんかね。冬眠のクマじゃあるまい」
 体型こそ、クマのようなからだではなかったが、山下の風貌を動物に例えれば、クマもしくはパンダと言えた。
「寝るのだって商売なんだよ。ばあちゃんだって、そうだろ」
「馬鹿いうな、起きてこそ商売だに。寝とる間に金なんか降ってきやせん」
「でも、夢はお金になるだろ。たった1晩、たった1日でも夢が見られるなら、誰だってお金を払うさ」
「屁理屈言うとらんで、ほれ、この子」
 そこで初めて、山下は美千代の後ろでうつむきながら小さくなっている景子の姿を認めた。記憶の中を探ってみたが、かつて店を訪れた客ではないようだった。
「あの、すみません。私、田村景子と言います。あの、どうしてもお聞きしたいことがありまして」
 景子のものの言い方から、山下はすぐに訳アリだなと感づいた。景子はショルダーバッグの中からスマートフォンを取り出すと、フォトを開き、3カ月前にレストランに出掛けた際、たまたま撮影していた正則の顔写真を山下に見せた。
「この人。この男の人、知りませんか。前に、いえ、昨日の夜、来たりはしてませんか?」
 目が悪い山下は、景子に写真を少し拡大してもらい、男の顔に目を凝らした。そして、――ああ、来たかと、内心でつぶやいた。
 こういったケースはもちろん、山下も初めてと言うわけでは決してなかった。1晩だけであれば、まず身内にばれてしまうことはほとんどなく、1日となっても、よほど心配性の家族でなければ、こうして行動に移したりはしない。
 
 山下は昨日の夜、店を訪れ、裏メニューを注文した正則との契約上の問診を終えた後、念のためにと、「奥さんが心配になって、あなたのことを捜しに訪ねてくることはあり得ると思いますか?」と尋ねていた。
「可能性がないとは言い切れませんが、景子は僕の性格をよく分かっていますし、1晩くらい帰らなくても、翌日のうちに帰宅すれば、何事もなかったように迎え入れてくれると思いますよ」
 ――でも、来たじゃないか。正則君。景子さんは君が思う以上に、君のことを思い、考えているようだ。さては君は、そんな奥さんの気持ちを、今までないがしろにしてきたんじゃないか。そうでなければ、これだけ心配している奥さんが、「何事もなかったように迎え入れてくれる」などと、口にすることは出来ないはずだ。そこは少し、反省が必要な部分だったかもしれないな。まあ、夢が覚めたら、君も気付くことになるだろう。それでいいと思う。

 山下は真剣なまなざしで自分のことを見つめる景子に、この場で嘘をつくことは出来ないと観念し、どうぞ中へ、と言って店内に招き入れた。
 景子は一刻も早く、写真の返事が欲しかったが、この人は何かを知っているということも分かり、素直に山下に従い、店内に足を踏み入れた。何故か美千代も、そのまま付いてきた。
 店内は入り口から一段床が低くなっていて、くの字の細い通路を抜けると、その奥が開け、色調が深みのある橙色に統一された空間に、L字型の木の大きなカウンター、そのカウンターと向かい合う形で、2、3人掛けのソファーとテーブル席が、壁に沿って左右に並んでいた。カウンターの右手には、大小さまざまなグラスが入ったアンティーク調の食器棚があり、その左手にワインやウイスキーを収めたショーケース、カウンターの真後ろの棚には、林立するビル群のように様々な形や色のボトルがひしめき合っていた。
 
 山下は景子に、2人掛けのソファーに座るように促した。そして景子が、恐る恐ると言った体で腰掛けるのを見届けてから、
「お酒は――、さすがに飲みませんよね。コーヒーでもいいですか?」 
 と尋ねた。遅れて、何故か景子の隣に座った美千代は、
春霞はるがすみはないかえ。1杯で良いから、山ちゃんくれろ」
「なぁに言ってんだよ。ばあちゃん。――まあ、でもいいよ。出してやるよ。景子さんは、コーヒーで?」
 景子はカウンターからこちらを振り返る山下に、黙って頷いた。
「あんた、酒は飲めんね」
 美千代が景子のロングスカート越しに太ももを叩く。
「あ、いえ、好きですけど、今は……」
「山ちゃん、この子も同じんでよい」
「あ、いえ、私は」
 景子は首を振るも、
「はよ、だされ、山ちゃん」
 と美千代。
「ばあちゃん、嫌がってるじゃないか。よせよ、ったくさ」
「あ、いえ、なら、頂きます。車でもないので、一口だけなら」
「おうおう」
 美千代はそう言うと、またしても景子の太ももを叩いた。

 山下は景子と美千代に、コップに注いだ春霞を出した後、自分は炭酸水の入ったグラスをトレイにのせて、テーブル席に運んだ。山下は景子の正面に座り、目覚まし代わりに炭酸水を勢いよく飲み、口元に拳を当てて、げっぷを口の中だけにとどめてから、
「この店、いやジャズの歴史から話したいところだけれど、景子さんが聞きたいのは、先ほどの男の人のことだね」
「はい。夫です。田村正則と言います」
 山下は正則の名前を噛み締めるように、2、3度頷いた後、テーブルの上の炭酸水のグラスの泡がはじけるのを何となく見つめながら、
「彼――、うん。もう隠す必要はないから彼と呼ぶけど、確かに昨日の夜、この店に来たね」
「じゃあ、店を出たあと、どこに行ったのか分かりませんか。何か手掛かりのようなものでも構いませんので」
 山下は顔を上げ、
「いや、彼は店を出ていないよ。――彼は、ね」
「どういうことですか? だったらまだ、この店に?」
 まさかと思った景子は、店の中をきょろきょろと見回した。山下は表情を神妙な面持ちに変え、両手を組んで景子の方に少しだけ身を乗り出した。そして、景子の目を見つめ、
「ここだけの話、この店には2つの顔があってね。御覧の通り、表向きはいたってシンプルなジャズバー。お酒とジャズを楽しむお客さんのためのね。それからもう1つ。ここはフリージャズにつられて、それまで奏でてきた自分の音楽を見つめ直し、自分の中に眠っているもう1つの旋律に気付いてもらい、1晩かもしくは1日だけ、その音楽を奏でる時間を提供してる」   
 景子の隣の美千代は、2人の話を聞いているのかいないのか、コップ1杯の春霞をすすりながら、うんうんと頷いていた。山下は続け、
「聞いたところ、彼はもともと演劇が好きで脚本を書いていたんだってね」
「はい。高校大学と。まるで、人生を賭けているみたいに熱中していました」
「だけどふと、やめてしまった」
「自分にはもう、情熱はないって。でもいまだに、信じられなくて」
「景子さん。景子さんが思っていることは、間違ってはいなかったようだよ。彼はちゃんと情熱を宿していた。秘めていた。ただ、燃え尽き症候群と言うものも、味わったみたいだね。だから急に、熱が冷めたようになってしまった。ただ彼も1度、もうやめると言い出した手前、景子さんにも言い出せなかったんだろうね。景子さんの言う通り、彼はまじめみたいだから」 
 景子はじっと黙って山下の話を聞いていたが、一体いつ正則の行方につながる話が聞けるのか分からなかった。なんだか、まだまだ長いトンネルの中を歩いているような気分だった。
「そこで彼は、最初は1晩と言っていたんだけれど、結局1日、自分の時間が欲しいと言ったんだ。自分だけの時間が欲しいと。それはもちろん、景子さんやお子さんに迷惑を掛けないように。彼なりの配慮の仕方で」
「はい」
「そこでこの店のプランに則って、彼には彼自身が一番に望んでいた、舞台に上がるという時間を与えたんだ。ひとりの役者としてね」
 その山下の言葉を聞いた景子の脳裏に、大学時代の正則の姿がふっと蘇ってきた。三枚目とも言えない自分の見た目や野太い声、日陰のようなキャラクター、そしてオーラ(当時、サークルで主役を張っていた同学年の椎名幸也しいなゆきなり峰岸淳悟みねぎしじゅんごに比べたら、路上の水たまりに映るネオンサインがいいところだった)から、自分は舞台裏が似合う男と、自嘲気味に話していたことがあった。江戸川乱歩にかこつけて、「屋根裏の散歩者」ならぬ「舞台裏の散歩者」と笑っていたこともあった。ただ景子は、脚本家としての才能を正則に感じていたため、彼特有のユーモアとして、自分のことを表現しているだけだと思っていた。でも考えてみれば、誰だってそうだった。景子自身も、顔立ちやキャラクターから舞台映えするような人間ではなく、舞台に上がった経験も多くはなかったが、それでも舞台に上がるのと、舞台袖から舞台を、いや、現実とは違うリアリティーを持った別世界を見上げているのはまったく違った。景色が違った。そこに憧れがないはずがなかった。正則は自分が役者になりたかったからこそ、脚本を書き、演劇とは、舞台とは、演じるとは何なのか、その本質を見極めようとしたのではなかったか。景子はずっとそのそばで、正則のことを見つめてきたつもりだったが、必ずしもすべてが見えていたわけではなかったことに改めて思い至った。
 ――馬鹿な人、と思った。そして自分も、馬鹿な女だと思った。

 山下は短パンのポケットからスマートフォンを取り出すと、アプリで正則の位置情報を調べてみた。
「彼、正則君は今、タクシーか何かでN暮里駅に向かっているところみたいだね。間違いない」
「本当ですか?」
「彼には念のために、煙草を持たせているから」
「夫は煙草、吸いませんけど」
「うん。だから小道具の煙草」
 景子は山下がどうして、煙草なんかで夫がいる場所が分かるのか分からなかったが、とりあえず居場所が分かったことで、今すぐにでも正則のことを追いかけたくなった。
 スマートフォンを見ると、午後3時40分になろうとしていた。菜々子が帰ってくるタイムリミットまで、あと1時間くらいしか残っていなかった。スマートフォンをショルダーバッグにしまい、ソファーから素早く立ち上がった景子は、
「あの、ありがとうございます。失礼いたします」
 と、この場でも礼儀を忘れず頭を下げた。
「あ、景子さん、ちょっと。そのままでは多分ダメだよ。彼は今、一応舞台に上がっているつもりだから。もし彼と同じ舞台に立つなら、景子さんも何かの役にならないと」
 景子は、山下の言っている意味が分かるようで分からなかった。
「景子さんも、役者の経験はあるんだろう。おそらく今日が、彼にとって最初で最後の舞台だから、景子さんも共演できるのは最後だと思うよ。役はお任せするけれど、ちゃんと彼の芝居に付き合ってあげなよ。それが彼の本望でもあると思うから」
 景子は、なるほど、そういう設定なのかと、これは夫が書いている脚本なんだと思うことで、自分の頭を何とか納得させた。まったく気配をなくしていた美千代は、いつのまにかソファーの背もたれにからだを預けてうつむき、眠りに落ちていた。山下はせき込んだように笑い、
「何が冬眠のクマだよ。ばあちゃん。あんたこそ、寝てるじゃねえか」  
 景子は、小さく寝息を立てて眠る美千代の姿を見て、思わず微笑んだ。

                               つづく

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