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連載【短編小説】「わたしの『片腕』」最終話

 携帯電話がなかった当時、顔を知らない相手と会うためには、待ち合わせ場所は文字通りピンポイントで、かつ、お互いのことが分かる目印を身に付けておくことが必須でした。言ってしまえば、誰もが忠犬ハチ公像だった時代です。
 ――さて、わたし史上、生まれて初めてといっても良い、異性とのツーショット。赤毛のアンのように垢抜けず、何かと晩稲おくてだったわたしも、お洒落と言うものを頭の上からつま先まで意識し、お手本としてファッション誌を熟読しました。と言っても、ローマは一日にして成らず。一夜漬けでシンデレラに生まれ変われるはずもなく、満を持した一世一代のコーディネートは結局、店員さんにすべてお任せすることになりました。最後に、眼鏡はどうしようかと考えたのですが、いきなり母にコンタクトにしたいと言っても、蛇のようにじろりと、またよからぬ視線を向けられてしまうだけなので、そこはぐっと拳を握り、我慢しました。
 
 さて、皆さん。わたしと幹也くんが何を目印にしたか、お判りでしょうか。間違いなくお互いを認識できるもの。――そうです。それはたった一つしかありませんね。わたしと幹也くんを、ダダダダーンと、運命という楽曲で結び付けた川端さんの『片腕』。わたしたちはお互いに、その『片腕』を忍ばせた川端さんの『眠れる美女』(新潮文庫)を手に持ち、待ち合わせることにしたのでした。

 駅のそばの電話ボックス(ガラス張りのボックスの中に、箱型の緑色の電話が置いてあるものです)の前で幹也くんを待つ間、もう何度読んだのか忘れてしまいましたが、わたしは少しでも緊張を和らげようと文庫本を開き、たまたま目に入った『片腕』のある場面に視線を落としました。
 それは語り手の私が、娘の片腕の付け根を持って、ひじを曲げたり、伸ばしたりして遊ぶ場面でした。わたしはその場面を読むたびに、娘の片腕とわたしの右腕の神経が同期して、まるで自分の腕がいたずらをされているような気分になったものです。そしてその後には、次のような場面が続きます。

「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」と私は言った。
「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。
「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」
「そう?」
「そんなことしてもいいの」
「いいわ」
「…………。」私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、「いいわ、って、もう一度……。」
「いいわ。いいわ。」

 こちらもまた、わたしの右腕を百足むかでか何かが這うように、ざわざわと鳥肌を浮かび上がらせる場面です。川端さんには失礼かもしれませんが、娘の片腕をもてあそぶ語り手の私の皮被りの官能が、娘の「いいわ」という許しを大義名分として、単なるいたずらからその先へと、ぬるぬると押し付けられていくような気がして、わたしの本能的な核の部分が、じんじんと片頭痛のようにうずくのでした。
 ――さらにこの後には、

「『私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。』」

 ――そう。あれ? 

 突如、耳元で、頭の中で文章を読み上げていたナレーターとは異なる男の人の声が、わたしが目でなぞっていた部分を読み上げました。その声に全く聞き覚えはなくても、初めて聞いた気がしなかったのは、これまでに何度も何度もその人の声を頭の中で想像して、手紙の文面を読み上げさせていたからでしょうか。
 ゆっくりと文庫本から顔を上げ、斜め後ろを振り返ると、男の人が立っていました。短髪で目元が涼しく、わたしより頭一つ分、背の大きな人でした。男の人は目を細めると、「――本当に良いの?」と呟きました。『片腕』のお話に身も心も浸していたわたしは、娘の声色をなぞり、喉の奥から吐息交じりに、「――ええ、いいわ」と答えました。
 男の人は唾を飲み込むように喉ぼとけを上下させた後、背中に隠していた右手をさっと胸の前に出し、川端さんの『眠れる美女』の文庫本をわたしに示しました。そして、繰り返し確認するように、
「――みどりちゃん? 森田みどりちゃん?」と言いました。
「は、早見、唯ちゃん?」
 わたしが冗談でその名前を口にすると、男の人は八重歯を覗かせ照れくさそうに笑い、わたしと目を合わせたまま、小さく頷きました。
 こうして、遠く離れていた「片腕」と「片腕」が、運命に導かれるようにして出会ったのです。
 はい。どんとはれ。

 いえいえ、そうは問屋はおろしません。このお話は川端さんの『片腕』を枕に始まりましたが、わたしの腕の付け根にある傷跡の真相を、皆さんに明らかにすることが目的のお話です。柳田國男さんのように「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」と言うと、やや大げさになりますが、このお話はすべて、『遠野物語』同様、実際にわたしが体験したお話なのです。
 
 閑話休題。
 わたしにはその日、どうしても幹也くんに確認しなければならないことがありました。わたしは皆さんに「くまのぬいぐるみ」のお話をしたと思いますが、もちろん幹也くんにも、『片腕』を読んでそのお話を思い出したということを手紙に綴りました。わたしにとってそのお話は、決して触れてほしくはない暗部ではなく、むしろ、もしかして幹也くんも、同じようなお話を見聞きしたことがあるのではないかと思い、書き綴ったものでした。ところが不思議なことに、幹也くんはそのお話に全く触れてこなかったのです。お手紙ですから、書かれている事柄すべてに反応する必要はないとは思いますが、わたしにとってはとても大切なお話であり、秘密でした。それをこうも、今で言うところの「既読スルー」をされてしまうと、逆に何かあるのではないかと勘繰かんぐりたくなってしまうものです。

 駅を離れ、木漏れ日の差す公園のベンチに並んで座り、次第にからだと会話のぎこちなさがほぐれてきた頃のことです。
 わたしは左手で自分の右腕を触りながら、
「幹也くん。そう言えば、手紙に書いたくまのぬいぐるみのお話、覚えてる?」と切り出しました。
 そよ風の行方を追うように、視線を遠くに向けていた幹也くんは、ちらりとわたしの方を見た後、すぐに正面に視線を戻し、
「ん? ああ。くまのぬいぐるみが、女の子のからだのパーツを交換するおとぎ話だよね」
 わたしは大きく首を振り、
「おとぎ話なんかじゃない。わたしが本当に目撃したお話。この目で」
 わたしは人差し指で自分の目を指差しました。
 幹也くんはわたしの顔を見て、
「ああ、ごめん。そうなんだ」
 と、すぐに早口で謝りました。
「それから川端さんの『片腕』も、小説という作り話ではなく、本当にあったお話だと思ってる。この話もしたよね」
「でもさ、それぐらい細部にリアリティがあるって話じゃないの?」
「現実のリアルと、お話のリアリティは違う。わたしは『片腕』から、血の匂いを感じるの」
「確か物語の中では、語り手の私が娘の片腕を自分の腕と付け替えた後、私のからだと娘の片腕に血が通い合う場面があるけど、そういう事じゃなくて?」
 わたしは壊れたように、繰り返し首を振りました。
「そうじゃない。そうじゃないの。もっと生臭くて、舌を嚙んだ後のような鉄の味がして、刃物で指先を切った時のような痛みさえ感じさせる」
 わたしは言いながら、止血でもするかのように右の二の腕をぎゅっと握りました。だんだんと鼓動が早くなり、気づくと、肩の付け根辺りがずきずきと痛み出していました。
「どうしたの?」
 幹也くんがわたしの顔を覗き込みました。その顔は、本当にわたしのことを心配してくれているようにも見えましたが、紫色の不安や恐れを映しているようにも見えました。
 わたしの唇が、わたしの意志を離れて、腹話術の人形のように開いては閉じ、開いては閉じます。
「――あたし、誰にも許した覚えはないんだよね。いくら人形だからって、からだを自由に弄ばれていいなんて、そんなのおかしいと思わない?」
「みどりちゃん? さっきから何を言って――」
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。
「あたしは一言も、そんなこと言ってないわ」
「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」
「知らない。誰が言ったの? そんなこと?」
「――あたしは幻を消しに来ているのよ。」
「その通り。あなたたちがわたしたちに抱く、白桃色の幻想をね」

 わたしが正気を取り戻した時には、すっかり陽が傾きかけ、生温かかった風が冷気を帯び始めていました。長袖を着てきて正解でした。わたしは鼻先にずれていた眼鏡を掛け直し、顔を右に向け、隣のベンチに視線を落としました。そこに幹也くんの姿はありませんでした。はて。いったいどこへ行ってしまったのでしょう。ベンチの上には、幹也くんの亡骸なきがらのように、川端さんの『眠れる美女』が横たわっていました。
 ――ふふ。思わず右頬の口角が上り、ほくそ笑んでしまいました。しかし、何が可笑しかったのかは分かりません。ただ自然と、笑みがこぼれてしまったのです。
 わたしは冷え切った文庫本を手に取ると、わたしの文庫本と肩を並べるように鞄の中に仕舞いました。世界の終末のように、人気の絶えた公園は無性に寂しさを掻き立てるものです。わたしは沈みゆく夕日に背中を向け、公園を後にしました。
 
 ――これを読んでいる、あなたへ。
「あたしの片腕、必ず、返してくださいね」

                               おわり

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