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【短編小説】「人生劇場」第2話(全5話)

 森野由梨もりのゆりこと、本名矢井田茜やいだあかねは、SNSの闇バイトで知り合った鏑木かぶらぎという男から、今日の午前10時30分ごろ、「ソドムの森」というラブホテルの101号室を訪ね、その部屋に待機している男に、「YUYA ABE」のクレジットカードを渡すようにと指示されていた。
 その後のことについては、そのまま男と事を行うのが嫌なのであれば、上手く話をそらして、部屋から逃げ出すなり何なりすればいいとも言われていた。K町のホストの黒鉄大也くろがねだいやに貢ぐための、たった5万円ぽっちの報酬欲しさに、深く考えもせず依頼を引き受けたは良いものの、茜は男とどうこうすることなどまったく考えていなかった。そもそも、見ず知らずの中年男と同じ部屋の中にいるだけでも息が苦しくなりそうで、叶うなら、今すぐにでも部屋を立ち去りたいくらいだった。男の風俗を朧気おぼろげにしか知らない茜は、この後の流れが分からなかったが、阿部と言う男をバスルームにでも誘い込み、相手だけ先に裸にさせてしまえば、あとは何とか逃げ出せるかもしれないとも思った。だが、どのタイミングでそのことを言い出せばいいのか、見当が付かなかった。

「――森野さん。あの、先に少しお話させてもらっても良いですか」
 阿部からの意外な提案に茜は驚いたが、中にはおしゃべりを楽しもうとする客もいるのだなと思い、行為に移るまでの時間稼ぎにもなるし、まあ、話だけならと、付き合うことにした。
「この街は、森野さん詳しい?」
「すみません。住まいは別なので。ホテルまではいつも、送迎ですし」
 当然、嘘だった。茜はS玉の人間で、ここまでは一人、電車と徒歩でやってきたのだった。
「それは残念。じゃあ、もう一つ。このあたりで、たぶん昨日かな、通り魔事件があったことは知ってる?」
 茜は日ごろ、あまりニュースを観ない人間だったため、まったく思い当たる節がなかった。ただ、何も知らないのも逆に怪しまれると思い、
「――あ、ありましたね。連続通り魔。ここだけじゃなくて、関東近郊で立て続けに起きてる」
 とっさに思い付いたことを口にした。
 松田はすかさず、「関東近郊」「連続通り魔」という情報を頭の中に書き留めた。
「犯人について、何か詳しい情報は?」
 阿部が重ねて問うてきた。茜は口から出まかせを言った手前、そんなことは知るはずもなかったが、ここはとにかく、この場をやり過ごすために嘘を重ねるしかなかった。
「確か細身で、性別不明の20代から30代って言っていたような気がします。黒のパーカーを着ていて、フードをかぶって顔を隠していたような」
 茜はあえて「ような」という表現を重ねることで、自分の記憶が曖昧であることを強調した。これなら、まったくの嘘を言っていることにもならないだろうと思った。
 阿部は仁村に戻り、森野の話を聞きながら、頭の中に犯人のイメージを作り上げていった。しかしまだ、特徴があるようでないに等しく、探偵松田としては、これだけで足取りをつかむのは難しいだろうと思った。
「あの、どうしてそんなことをくんですか?」
 茜は森野由梨というより、茜としてふと思ったことを阿部に尋ねた。松田はここで、本当のことを打ち明けるべきか迷った。実はその通り魔を追っているんだと言っても、おそらく信じてもらえないか、そうなんですかと適当にあしらわれるだけかと思ったからだった。しかしこうして、クレジットカードを返してくれるくらいだから、悪い子でもなさそうだった。ここはひとまず、文字通り信用しても良いかと、阿部ではなく松田として話し始めた。
「森野さん。実はその犯人と昨日、この近くで偶然鉢合わせて、取っ組み合いになったんだ。ただ恥ずかしながら、相手の方が一枚上手でやられちゃって。――で、その借りを返すために、犯人を捜してる」
 茜が部屋に入り、阿部を一目見て、気になっていた服の汚れやシャツのよれ具合はそれが理由なのかと、合点がいった。茜はとりあえず、阿部の話を信じた。
「え、大丈夫ですか。けがとかは」
 それは本心から出た言葉だった。
「うん、なんとかね。でも、スマートフォンも財布も無くしちゃったみたいで。犯人が持っていったのかもしれない。だから、クレジットカード助かったよ」
 またそれは、松田=仁村としての本心だった。
「阿部さんは何か、心当たりはあるんですか。犯人の?」
 その時点で、仁村の脚本の中にあった犯人像は、意外な人物という程度の設定でしかなかった。そこに仁村は、先ほど彼女が話していた犯人の特徴を書き加えはしたが、犯人を意外かつ魅力的な人物に仕立て上げるには、まだまだ特徴が足りなかった。そこで仁村は、ちょうどいいかと、彼女が話していた犯人像に設定を重ねる形で、
「犯人と取っ組み合った時に、ちらりと見えたんだ。首筋に大きなあざがあるのを。だから、それを見ればすぐに分かると思う。でも、その痣だけで犯人を捜すのは、さすがに骨が折れると思う」
 仁村自身も予想しない形で、犯人の特徴が付け加えられていく。
「そうなんですね」
 茜はとりあえず、相槌を一つ打った。阿部の話を聞いていると、表向きは女性との行為のために、自分のことを呼び出したのではないような気がしてきていた。茜の想像では、女性が部屋に入った後は時間が限られていることだから、すぐにでも行為に移ろうとするはずだと思っていた。
「――あ、それから匂い。制汗剤じゃなくて、なんか独特の匂いがしたんだよ。あれって、香水だったのかな」
「どんな、匂いですか」
「うーん。香水には詳しくないんだけど、どんなと言われたら、柑橘系だと思う」
 なるほど、柑橘系かと、仁村は自ら即興で考えたことに頷いて見せた。

 その後も、二人の間で通り魔に関するやりとりがなされたが、仁村に言わせれば、その会話は次のシーンへと移るための場つなぎのようなものでしかなかった。せっかく共演者がいるのだから、何かこう、物事が動き始めるような展開が欲しいとは思っていた。仁村の頭には、ここで一つ、ラブシーンを挟むという案も浮かばないわけではなかったが、共演者とはいえ、何も事情を知らない彼女を相手に、さすがにそこまでする気持ちにはなれず、次の一手のために長考を続けることになった。

 一方の茜は、ここまで阿部の話に上手く歩調を合わせ、嘘に嘘を重ねることで、それなりに話題の中心を逸れることなく会話のキャッチボールをこなしてきたと思っていたが、阿部が急に質問をやめ、黙り込んだことで、にわかに不安になった。もうおしゃべりの時間はおしまいとでも言うような、押し黙り方だった。もしかしたらこの人は今、この後のことを考えていて、自分はすでに、想像の中で裸にされているのではないかと、そんな妄想すら頭に浮かび始めた。そう思うと、自然と拳に力が入り、ぐっと警戒心が強くなった。実際のところ、阿部の沈黙は2、3分程度のものだったが、茜にとってはその数分が10分にも感じられ、部屋の空気と共に時間が停滞していくかのようだった。さらには、BGMもないこの部屋で、自分が唾を飲み込む音が阿部にいやらしく聞こえはしないかと、そんなことまで気になりだした。

 その時、仁村の頭の中では、幾筋かの手が浮かび上がっては来ていた。自分がこう指せば、彼女はこうくるだろう、と。あとは、たった今作り上げた犯人を追うために、これからどうするべきか。だいぶ輪郭は出来てきたが、まだ決定打が足りなかった。犯人の内面もできていないし、動機も不明。これではまだ、巷の噂話が作り上げた不審者程度の人物でしかなかった。これでは視聴者も納得しないだろう。フードから顔がのぞき、顔がはっきりと分かった瞬間、誰もがあっと驚くような、そんな犯人像が欲しかった。それから、その犯行に至るまでの過去や背景が分かったときに、ぐっと胸を打たれるような。そんな設定が求められているはずだと思った。
 
 茜はやがて、重苦しい沈黙に耐えられなくなり、苦肉の策として、
「あの、お手洗い良いですか?」
 と言って立ち上がり、阿部の返事も聞かず、問答無用でトイレに駆け込んだ。すぐに鍵を閉め、ふたの閉じた便座に腰を下ろした。今までずっと息を止めていたかのように、大きく息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返し、ようやく本来の呼吸を取り戻すと、思った以上に緊張していたのだろうか、どっとからだに疲れを感じた。ただ、ここにいれば、ひとまずは安心だろうと思った。

 松田=仁村は、トイレに向かった彼女の後ろ姿を見届けてから、彼女に聞くべきことは聞いたし、そろそろ次の展開があってもいいだろうと、立ち上がってハンガーにかけていた上着を着、再びソファーに座り直して、彼女が出てくるのを待った。――だが、彼女はなかなか出てこなかった。5分、そして10分が過ぎた。もしかして、何かあったのかと声を掛けようかとも思ったが、生理的な事情があったのかもしれないと思い直し、もう少し待つことにした。

 一人だけの空間で若干の冷静さを取り戻した茜は、便座のふたに座ったまま、いろいろと策を練ろうとしていたが、トイレの慣れない空間に再び息苦しさを感じ始めていた。このままでは本当に、気持ちが悪くなりそうだった。そうこうするうちに、トイレ内の酸素が薄くでもなったのか、呼吸が荒くなり始め、だめだ、もうと、とにかくトイレを出て、広い空間の空気を吸いたくなった。

 水が流れる音もなく、ようやくトイレから出てきた彼女の表情を見た松田は、青白い顔と額に浮かぶ脂汗を見て、彼女のことが心配になった。何か食あたりでも起こしたのだろうか。「大丈夫?」と思って立ち上がり、手を貸そうとした矢先、彼女は急にその場で立ち止まり、右手の拳に左手を重ねて握り、胸の辺りにぐっと押し付けた。明らかに表情がこわばっていた。松田は瞬時に、彼女が自分に対して恐怖心を抱いていることが分かった。自分の何が恐怖を抱かせたのか、皆目見当が付かない中、松田は何も危害を加えるつもりはないことを示すために、開いた両手を前に出し、少しずつ後ずさりした。間もなく背後にソファーが見えると、そのままゆっくり腰を下ろした。

 茜は阿部の様子を見て不思議に思い、あれ、この人はもしかして、自分に何もする気はないのではと、少しだけ警戒心を解いた。そして、恐る恐る尋ねてみた。
「あの、今日阿部さんは、どうしてわたしを呼んだんですか」
 実際のところ、松田=仁村は、森野=茜のことを呼び出したわけではなかったが、茜はいつの間にか、森野由梨という風俗嬢として、本当にそう思ったかのように尋ねていた。松田は彼女の声が、わずかに震えていることに気付いた。もうこれ以上、おびえさせてしまっては申し訳ないと、松田=仁村として腹を割って話すことにした。
「森野さん。すまない。初めからそんなつもりはないんだ。ただ少し、誰かに通り魔事件について話が聞きたかった。ただ、それだけ。だから怖がらなくていいし、心配しなくていい。今、森野さんがトイレから出てきたら、一緒に部屋を出ようと思っていたところだから」
 松田は意識して、ゆっくりと落ち着いたトーンで彼女に説明した。茜は阿部の目を見つめ、話を聞いていたが、阿部が本心からそう言っていることが、何となく伝わってきたような気がした。途端、からだの力が抜けて、なんだか今までの自分の振る舞いが馬鹿らしく思えて、思わず笑い出しそうになった。

 松田は阿部として、クレジットカードで部屋の料金を支払い、茜と共にホテルをチェックアウトした。
「阿部さんはこの後、どうされるんですか? 通り魔を追うんですか?」
 ホテルから出た二人は、茜が帰るためのタクシーを捕まえるため、ホテル街の路地裏から大きな通りを目指して歩いていた。
「うん、まあね。でもその前に一度、現場に戻ってみようかと思ってる」
 現場百篇。あそこで目覚めた時はまだ、通り魔を追う探偵松田と言うキャラクターも固まっておらず、現場周辺をあまり観察していなかった。スマートフォンや財布も、ズボンに入っていなかっただけで、犯人と揉み合った際に、現場のどこかに落としたということも十分に考えられた。そこで松田は、このままホテル街を離れる前に、現場に立ち戻ってみようと思った。――また、仁村としてもそうすべきだと思った。

                               つづく

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