飛鳥寺と釈迦如来坐像


 勢力の拡大とともに畝傍山北部から南下した蘇我氏が,本拠を移した地が現在の明日香村です。蘇我馬子はここに仏教興隆の拠点として,飛鳥寺を建立しました。境内の一角にこの説明板がありました。写真下方の木柱の地下3mにある礎に,推古天皇が仏舎利(釈迦の遺骨とされるもの)を納め,その上に塔を建てました。1196年に落雷で焼失し現存していませんが,のちに建立される法隆寺と同じ五重の構造だったとのことです。
 礎のまわりからは勾玉や耳環,馬鈴などが出土しています。6世紀半ばの仏教伝来とともに,豪族の権威の象徴は古墳から寺院へと移行していくわけですが,蘇我氏が物部氏を滅ぼしたがごとく仏教文化が古墳文化を駆逐していったのではなく,推古天皇の時代には古墳時代以来の伝統的な祭祀と仏教の融合がみられたというのが興味深いところです。逆の形として,古墳の石棺に仏具が副葬された例も見られます。


 飛鳥寺の本尊の釈迦如来坐像です。座高は3mしかありませんが「飛鳥大仏」とよばれています。「日本最古級の仏像」ということですが,意外にも文化財としての指定は国宝ではなく重要文化財にとどまっています。前述の落雷による火災で像の大半が溶けてしまい,現存する像はその後鋳造し直したものだと考えられていたためです。1940年にいったん国宝に指定されるものの,1950年の文化財保護法の制定に当たり従来の国宝を重要文化財に格下げしたうえで改めて国宝を選定し直したとき,上記の理由から飛鳥大仏は選から漏れてしまいました。しかし,2010年代に入り詳細な調査が行われた結果,顔はほぼ鋳造当時のもの,体は鎌倉時代の火災で溶けた金銅を再利用して鋳造し直されたことがわかりました。国宝の要件は満たしているのではないかということで,今後の格上げへの期待が高まります。
 また,像が鎮座する台座の石は創建時から一切動かされていないことがわかっています。つまり,飛鳥時代に聖徳太子らが拝んでいたまさに同じ場所で,我々も手を合わせることができるということです。これには史跡探索の大きな意義を感じ,目が回りそうになります。宇宙には時間の流れというものが存在しないという摂理をふまえると,像の前で静かに手を合わせる聖徳太子と,明朗闊達な住職のガイドを聞きながら像を見上げる自分の間を隔てるのは乱雑さの変化のみ,ピンポイントに全く同じ座標で発現する2つの出来事なのです。

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