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幸せを感じる基準

 世界には、故郷で暮らしたいのに暮らせない人がたくさんいます。そんな人たちが切望していることは、故郷で安心して暮らすことだと思います。

 私は、もうここに住めなくなるかもという心配は1度もしたことがないです。私がどんなにしんどいときでも、私の置かれている状況を切望している人がいる。私がもし、難民だったら、これ以上しんどいんだったら、どうなっていたんだろう。たまにそんなことに思いを馳せます。

 でもたぶん、そうではないです。彼らは私よりも、小さいことに喜べるし、感謝の気持ちを持てるんだと思います。幸せを感じるためには、幸せを感じるハードルを下げることが1番な気がします。

 私は他の人より精神状態の波が激しいです。私は、沈んだときに感じる苦痛を味わったことがない人が羨ましいし、他の人からは1番パフォーマンスがいいときの私を本来の私とみなして欲しいです。

 でも、自分の中では、パフォーマンスがいいときの自分を基準にするんじゃなくて、1番沈んだときの自分を基準にした方が幸せを感じることができる気がします。パフォーマンスがいいのは当たり前じゃなくて、ラッキーなことなんだと思えたほうが幸せになれると思います。

 この苦痛を味わったことがある私には、幸せになるチャンスがあるのかもしれない。こうやって、見方を変えていけたらいいなと思っています。

 でも、なんで幸せを感じるハードルを下げるのが難しいのか。それは、社会が資本主義や学歴社会の影響を強く受けているからだと思います。資本主義は、人々の満ち足りない感情を糧に成長していきます。もし人々が今の状況に満足してしまったら、購買欲が下がるから、経済は危機に陥ると思います。

 学歴社会もしかり、人々がより偏差値の高い学校を目指すから、塾にお金を落としています。もし人々が無理なく目指せる学校を目指してしまったら、塾にお金は落ちなくなります。だから、偏差値が高い学校に行かなければ幸せになれない、というようなイメージを植え付けられているのだろうと思います。

 もちろん資本主義にも、学力を重視することにもメリットはあって、そのメリットがデメリットを上回るとみなされているから導入されているわけだし、それを否定しようとは思いません。でも、導入段階では圧倒的にメリットの方が大きくても、続けていくとデメリットが大きくなっていきます。その段階に来てしまうと、メリットはその存在がプラスにはならず、あって当然のものとみなされるようになっています。

 逆になくなったら絶望と混乱を引き起こすものになっています。アルコールやニコチンみたいな感じかな?この状態は依存と呼べると思います。依存するものが増えると、しんどいです。これこそが生きづらさの正体なのかな、と考えたりしています。

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