見出し画像

[感想・分析]地域性を考える交流会①

2度に渡る交流会に参加してまいりました
大阪府 オポンパン創造者 「幸演会」
宮崎県 劇団こふく劇場 「ロマンス」
それぞれの作品を観劇後、代表の方々と少しお話ができるお時間を頂き
作品についてや、地域性、演劇感についてなど
沢山の質問をさせて頂きました
このような機会を頂けたこと、2団体の皆様、及び
企画頂いたラボチ、SEEKの皆様に心からお礼申しあげます

せっかく、ありがたい知見をインプットさせて頂きましたので
それを今後の活動に活かすべく、感想という形でアウトプットさせて頂きます

2作品の共通点
最も強く感じた事は、洗練された仕組み、様式美でした
魅せたい物を強調するための工夫ですね

オポンパン創造者さんの「幸演会」は“円“と“オブジェクト“
⚫︎円の無限性
今回の舞台には大きな縁が舞台上に描かれており、
その円を巧みに駆使し多くの表現がされていました

・空間の切り分け(内と外)
 物理的な屋内、屋外の表現もさることながら
 精神的な閉塞感(内)や、疎外感(外)など、
 心情描写までもビジュアル化されており、
 シンプルながら観客として、スッと登場人物の感情が刻まれる演出

・距離(無限性)
 人がどこかへ移動する際、必ずスタートとゴールがあります
 舞台上という限られた空間の中だと、
 長距離の移動はネックになる部分です(私にとっては)
 ここには私の固定観念があったのかもしれません
 スタート、ゴールはいわば線分的な、真っ直ぐで終わりがある物だと
 しかし、「幸演会」では長距離の移動時
 この円の周りを歩く表現がされていました。
 円にはスタートもゴールもない。
 自分がゴールと決めるところまで、いつまでも歩き続けることができる
 また、照明も合わさると、滑らかに時間経過を観客に伝えることができる
 距離と時間の制約を同時に克服するような設計に
 なっていたのだと思います
 (一番最初に時計を円盤で作った人は天才だと思う)

⚫︎空間とオブジェクト
円を中心に舞台の設計上、観客の視点はその円を中心に動きます
逆にいうと、その周りの空間はシーンで使う以外はデッドスペースになってしまい、舞台を持て余していかねないでしょう。そこにも工夫がされていました

・必要ないらない物
 舞台上には沢山のパンパンになったゴミ袋が置かれていました
 世界観の演出的な効果はもちろんあるのですが
 使われていない空間を埋め、観客にいらない物を見せない
 ミスディレクション的な効果もあったのだと思います
 
・邪魔にならない格子
 テーブルなど、本来存在感があるはずの大道具たち
 こちらも世界観の演出としての「精神的な檻」の
 表現だったのかもしれません
 ただ、前述したようにゴミ袋など他のオブジェクトもある中で
 テーブルの存在感が大きいものが幾つもあると、舞台が情報過多になり
 演技を邪魔してしまいます。
 しかし、それを格子状のにすることで、テーブルの向こう側を
 透過することで、そもそもの存在感を減らし、
 観客を登場人物に集中させる
そんな効果も意図していたのではないかと思います

劇団こふく劇場 「ロマンス」では“浮き彫り“と“制限”
⚫︎活かす個性、殺す個性
 殺すというと物騒で大袈裟かもしれません
 でも、ただ個性を「隠す」「消す」のではく
 意図的に「潰す」「殺す」ようにしていた感じます
 「ロマンス」のその表現だけに注目し、例えを出すなら
 “小説”がわかりやすいかもしれません
 小説にはセリフ以上に「地の文」が存在します
 この作品では、役者が自分の役として発する言葉は
 実際に口から出た言葉
 「この時、私はこう考えていた」のような心理描写のセリフは自分以外の
 3人(ないしは4人)が全て同時に話すという形式をとっていました
 なぜ、1人では無く複数人なのか
 1人だと、どんなに抗おうとその役者自身の抑揚や感情、癖など
 “個性“が滲み出てしまいます
 そうしたセリフは役者からでる1つの表現になります。
 受け取る観客は、その1つを「答え」として受容することしかできない
 (良し悪しでは無く、使い方の問題です)
 一方、複数人が一定のリズムで、一つのセリフを発する場合
 それぞれの“個性”が打ち消され霧散し、表現ではなく、言葉だけが耳から入ります
 そのセリフの“答え“は全て、観客に委ねられるのです
 役者の個性を殺すことによって、
 観客はその役に「自分の答え」を投影していたのではないでしょうか
 
⚫︎制限が生む自由な世界
 上記の続きのようになりますが
 お互いの個性を打ち消すだけでなく
 自身に制限をかけることによって、生まれる表現もありました
 例えば、演技スペース
 今回の全てのシーンは、その時メインになる役のみが舞台に立ち
 それ以外の、モブというには失礼でしょう。
 登場人物は別空間から存在を示唆するのみ
 メインの役はおおよそ、一畳のスペースだけで演技をされていました
 ZOOという奥行きのある広い舞台に、あえて一畳という制限を与えることによって
 何も表現されていない広い空間いには
 観客それぞれが想起する。想い想いの自由な登場人物、背景(世界)が
 広がっていたように思います
 モブという言葉を失礼に感じたのは
 そこに私が想像した両親や仲間、思い出の土地を広げていたからでしょう

先日、この「ロマンス」の感想を投稿した際
「精密な機会時計」と例えて表現をさせて頂きましたが(失礼をお許しください)
時計を見る時、本当に人が見たいものは、秒針や歯車などではなく
現在の時間や、未来に起こる はたまた過去に起こった
出来事なのだと再認識をいたしました

今回のに公演から受け取ったことを
作品で本当に伝えたい何かがある時
無駄なものを削ぎ落とし、必要なだけを厳選して観客の目に映し出さなければいけない
その作品の仕組みや構造、様式を毎回生み出さなければならないということでした

交流会の感想を書くはずが
作品についての分析だけになってしまいましたね
交流会については、また明日書くことといたします

 
 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?