見出し画像

【映画「正欲」】普通について考えさせられた

こんにちは。
先日、「正欲」を見てきたのでその感想を少し書きたいと思います。


あらすじ【ネタバレ少なめ】

パワハラで働きづらさを感じていた佐々木佳道は両親が交通事故で亡くなったのを機会に、仕事を辞めて地元・広島に帰ってくる。
広島のデパートで働く桐生夏月は産休に入り結婚を急かしてくる同僚に嫌気が差していた。デパートにたまたまやってきたなつきの同級生から久しぶりに同窓会をするから連絡先を教えてほしいと頼まれる。その時、佳道が広島に帰ってきていることを知らされる。夏月の脳裏には、中学校の頃の佳道と共に校舎裏の水道から水が吹き出しているところがよぎる。
二人はある秘密をもって生活していた。

以下、ネタバレを含みますので、空欄を設けます。










感想

佳道・夏月の紹介シーン

冒頭は、佳道が食堂で冷水機でコップに水を入れているところから始まります。しかし、すでに水は溢れていて、すごくブラックな職場環境なのだろうかと思いました。
その後に、上司と同僚が今度の休みに草野球をしようと誘っているものの、「どうせ来ないよな」と言われていることから、パワハラなどではなく単に人付き合いが悪いだけなのではないかと違和感がありました。

後に、佳道は水に関心があることが明らかになりますが、(本人が好きだといった本来の姿から離れた躍動的な状態ではないにしても)水野様子を見ていたのではないのかとあとになって感じました。

同じく、夏月も産休に入った同僚の女性から「30から出産がキツくなる」とありがたいようなありがたくないような助言をされていました。夏月もよし道と同様に水に関心があることが明らかになるものの、その情報無しでも職場として嫌な感じだと感じさせる内容です。

しかし、同僚の2回目のシーンで夏月は他の同僚とも交流しようとしないことが明らかになっています。そうなると、最初のシーンの見方も変わってくると感じました。

夏月は自分のことを知られまいと同僚と交流することを避けていたのです。

「正欲」は大々的なBGMやハラハラドキドキの展開というよりも、かなり写実的な演出だと感じました。どのタイミングで切り取るかで、見方は変わっていくというのが驚きでした。

夏月のセリフ

夏月が佳道を轢きかけてホテルの一室に行った際のセリフで「命の形が違う」、「地球に留学している」という表現が出てきます。

そこで「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出しました。”地球”という場所では普通とされていることが、自分の中では異常だと感じる。それは自分と違う命の形をしているからなのだと。

自分が認めてもらえないときについて考えた時に、「いっても他人だから」とか「皆自分のことしか考えていない」といった言葉がまず浮かんできます。また、「同じ人間なのに」のような、互いにひがんでいる時に用いられるセリフもあると思います。しかし、夏月は地球自体を完全に見知らぬ土地というような言い方をしています。

これは完全に自分が地球に入り込んだ、”よそもの”であると感じていることを暗に示しています。留学というポップなワードでその異質感が出るのはすごいと思いました。

神戸八重子と諸橋大也

学園祭実行委員である神戸八重子がもう一人の委員と共に、ダンス部に演目の相談に行きます。八重子は男性恐怖症だが、ダンス部の諸橋大也にだけ、その恐怖を感じず魅力を感じています。

八重子が大也に資料を渡す際に手が触れてしまいますが、八重子はあまりどうじては居ませんでした。これは相談しているという状況もあり我慢しているのだと感じていました。これが後に八重子が発言する「男性に対して感じる恐怖を諸橋くんからは感じない」ということを暗に示していたのだと思うと、とても意味のあるシーンだったんだとびっくりしました。

実行委員が”ダイバーシティ”という言葉が消費されている感じがする熱弁に対し、ダンス部部長がゲイカルチャーで流行ったダンスなどを提案します。それに対し、大也はそれ自体がダイバーシティを深く考えていないと啖呵を切ります。この時点で、大也も世間に対して疎外感を感じているとは予想がつくものの、佳道や夏月と同じ嗜好を持っているとは想像がつきませんでした。

発表のスライドがプロジェクターに映るか八重子と大也が試しているシーンで、八重子は大也に自分は男性が怖いことを告白します。しかし、大也は分かってもらおうとしている八重子に対して反発的な態度を示します。

やっと繋がれる人が出来たという言葉で、佳道がチャットでやり取りを交わしていたSATORUFUJIWARAが大也だとはっきりするわけですが、大也からすると男性が怖いという八重子は周りから認められたマイノリティーだと感じたのかもしれないなと思いました。

大変だよね、と同情してもらえるどころか、「そんなのありえない」と言う人までいるのに、水に関心があるというのを素直に言えるわけがない。自分がどういう状態なのか言えるだけでも充分じゃないかと思ったのかもしれません。

私自身も確かに、人に相談できる悩みごとと相談できない悩みごとがあるし、だれかに言って慰めてほしくても、そのフェーズにさえ到達していないということは確かにあるから大也のような状況じゃなくとも共感できる部分があるなと感じました。

「普通」について考えさせられた

あるシーンで、夏月は佳道に普通の人がする「セックス」がどんな雰囲気のものなのかやってみたいと言い出します。しかし、実際に行為に及ぶのではなくどのような位置関係でどんな動きをするのかをお互い想像しあって試していました。佳道は「トレーニング」みたいと表現します。そして、二人は「普通の人も大変だ」と笑い合っていました。

私達が日常生活で使う「普通」とは、やはり自分本位の意味を持っています。自分が「普通」と呼ばれる集団に属した、マジョリティ(多数派)の人間であることを前提として考えているからです。

それと同時に、自分が勝手に「普通」を定義してしまっているかもしれないという意識を持っていないと、時には人を傷つけてしまいます。

自分の思い込みや偏見は良くないという風潮が強まっている世の中ですが、自分のことを「普通」だと思うことはやめてはならないと感じました。

最後の啓喜が夏月を取り調べる場面で、「普通」じゃない側で「ありえない」とまで言われた夏月が「普通のことです」と啓喜に啖呵を切っていました。

たしかに、夏月や佳道が抱えるものは私達が想像する世界では「普通」ではないと言われるかもしれないけど、皆が「普通」であり「普通でない」のだから、ひとまとめに「普通の人間」だとかそうでないとか考えるのは良くないと改めて感じました。

最後に

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
こういった写実的な映画を見ると、日常の生活も映画っぽいかもしれないと見てしまう自分がいて、なかなか子どもだなあと思ってしまいます。アクション映画を見て強くなった気でいるのと同じではないかと。
久しぶりに映画をみて、それが「正欲」でとても良かったです!



この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?