見出し画像

『西田幾多郎の実在論』の感想と考えたこと

前回に続いて、今回も西田哲学を深掘りしていく。今回はこの本を読んで、より西田哲学への理解を深めれたと感じている。


前回の西田哲学に関する記事はこちら。

今回は体系的にまとめるというよりは、読みながら気になったところや気づきをメモしていたのでそれをそのまま載せます。その方がとっつきやすいかも。

絶対矛盾的自己同一

絶対矛盾的自己同一の関係にある矛盾した二つは反対のものとして分けて考えられているが、元々最初は一つのものだと考える。だから、空間も時間も実在の次元においては一つのものだ。我々の認識する上で一つのものを二つに分けるがために矛盾が発生したのだ。つまり、矛盾はパラドックスは理性や論理の次元の上だから生じているのだ。

思考は空間次元の場で行われており、時間が忘れられている。空間次元は共存的で無矛盾的。時間は連続的な相互否定的。だから思考次元では許されない矛盾も実在次元では許される。つまり、矛盾と考えるのは時間の欠如が原因ということか。

有名な親殺しのタイムパラドックスも西田哲学を元にすれば解決するのだろうか?これから考えてみたい。

西田哲学の「絶対」とは?

ヘーゲルの正反合の弁証法と西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一は異なる。
ヘーゲルでは、最後は低次元の矛盾が止揚(昇華)され、一つ上の次元で統合された新しい概念になる。そのため、最後の段階では新たな概念が生成され矛盾は無くなってしまう。
しかし、西田幾多郎においては、矛盾はそのまま保存され一つになっていることを言う。西田の弁証法は絶対弁証法と言って区別する。
絶対矛盾的自己同一、絶対無、絶対現在……。絶対が付くのは、一方から相対的に否定するのではなく、矛盾する両方を共に否定する絶対的なものという意味で、通常の相対的な価値観と区別するため、絶対をつける。
絶対とは矛盾するように見える双方の「間」を意味する。

絶対無と絶対現在

究極の絶対矛盾的自己同一こそ、有(存在)と無の絶対矛盾的自己同一だ。その存在と無の絶対矛盾的自己同一が成立する場所を絶対無という。それこそ実在の次元である。
仏教でいうところの「空」がこれに当たる気がする。
空間的視野に立つと、存在と無の絶対矛盾的自己同一である絶対無になり、時間的視野に立つと、過去と未来の絶対矛盾的自己同一である絶対現在となる。どちらの要素を強調するかによって名前が異なるだけで同一の場所と言える。

その他のメモ

・時間とは限定するものがなく、自己自身を限定するもの。
時間とは、今、今、今という時刻の非連続の連続である。つまり、絶対矛盾的自己同一だ。

・通常の思考・理性は身体を元にして成り立っており、主語的論理に成り立っている。西田は主客のない、ありのままの姿で世界を捉えるようにいう。無意識に身体性に基づいた認識や思考を脱するように言っている。つまり身体とは「言語」のようなものだ。確かに、手が足りないや盲目的というように身体を使った言葉を元に思考している。

・量子力学的には、量子とは波であり粒子である。波は連続的な時間的な性質、粒子は共存的空間的性質だ。量子も絶対矛盾的自己同一の分かりやすい例と言える。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?