ディズニー映画『ウイッシュ』を哲学的に考察してみた。柄谷行人氏の『力と交換様式』を導きの糸にして

『ウィッシュ』はディズニー創立100周年を記念して制作された映画である。舞台はイベリア半島に位置するロサス王国。この王国を統治するマグニフィコ王は幼少期に家族や共同体が悪党によって破滅に追いやられた過去を持っていた。この原体験を契機に魔法を独習し、王国設立後魔法を使って国の安寧を司っていた。そして同じ悲劇が起きないよう、王は儀式を通じて住民の願いを信託させ、社会に利益をもたらすもの(社会に脅かす可能性が低いも)だけを実現してあげていた。(願いを預けたタイミングで願いが記憶から抹消される)主人公である17歳のアーシャは100歳になる祖父の願いを叶えさせてあげたいと強く願望していた。王の弟子になるための面接を受けた際、祖父の夢を叶えてあげるよう直談判するがそれは王国にとって危険因子になると言われ断られる。素朴な夢ですら叶えられないのであれば夢を住民に返してあげるべきだと異議を申し立てるが、話を聞いてもらえず落胆する。ごく僅かな夢しか叶えてもらえないという真実を知ったアーシャは星空に願いをかけると星の精霊スターが降臨する。スターやその他の個性的なキャラクター達と共に住民の夢を王から奪還しようと奮闘する。

ディズニー映画『ウィッシュ』の上記のストーリーラインと柄谷行人氏が唱えた交換様式A(互酬)、B(服従と保護)、C(商品交換)、D(Aの高次元での回帰)には間テクスト性があるのではないだろうかと思い文字に起こしてみた。特に交換様式Dのコスモロジーを描写しているのがタイトルにある通りこの映画に対する"願い"が込められているように思えてくる。そもそも交換様式とは何かというと、端的に言って社会の構成原理のことである。マルクスは生産様式すなわち上部構造(政治や芸術など観念的なもの)と下部構造(経済的なもの)に基づいて社会は構成されていると考えたのだが、柄谷行人氏はその下部構造に潜在している交換様式に目をつけた。その交換様式を土台にメタ的に映画「ウイッシュ」の物語とその対応関係を考察していく。

まずは交換様式A(互酬)について。交換様式Aとは、贈与と返礼の交換が社会を構成する原理だと見なす概念のことである。この贈与関係を見出した人物が哲学者マルセルモースある。彼はマオリ族が共同体の間でハウという精霊が宿っているとされるアイテムを受け渡す慣習に注目した。マウリ族にはアイテムを受け取った共同体がそれを渡した共同体に必ず返礼しなければならないという社会的ルールが存在した。そして返礼をしなければ不吉な出来事に巻き込まれると信じられていた。この相互性が社会を維持する装置として働いているのではないかとモースは考えたのである。ミクロに見れば個人同士でも円滑にコミュニケーションをするために贈与と返礼を行うことを考慮すれば、納得できるだろう。一方で互酬性を社会的基盤にしているがゆえに争いや紛争が起きるというのは想像に難くない。例えば血讐である。血讐とは、共同体の構成員が他の共同体の構成員に危害を加えられた場合、共同体総出で加害者に報復する行為のことを言う。いわゆる目に目は歯に歯をのようなものである。この均衡関係が許される社会では必ず闘争が生起することは日の目を見るより明らかだ。これもまたネガティブな意味での互酬と言えるであろう。ロサス王国はメルティングポットな社会である。広範囲に渡る民族が共生しているが、その中には互酬的社会関係によってもたらされたであろう紛争から逃れた異民も一定数いるはすだ。その異民族の代表者がロサス王国を建設したマグニフィコ王である。彼に関しては王国建設後も幼少期に所属していた地域を壊滅に追いやった海賊を目の敵にしているが、彼の場合贈与と返礼に基づき報復行為を行うのではなく二度と同じ惨劇が繰り返されぬよう王国を作り上げた点で交換様式Aとは異にしている。このようにして、マグニフィコ王は交換様式Aから脱皮した交換様式B的構造主義を信念に王国を建設するに至る。
交換様式B(服従と保護)とは、国家や国王、政府等に住民を支配することができる権利が付与される一方で彼らの生命を保護する義務を負うというこれもまた一種の交換形態のことを指している。このシステムを見出したのが、かの有名なホッブスである。彼は『リヴァイアサン』の中で、人々が1人の者に自然権を譲渡することでそのものに社会を保護してもらうという社会契約説を唱えた。この段階で「万人による万人の闘争状態」から脱することができると考えた訳である。そしてその統治者を「リヴァイアサン」(海の怪獣)と呼んだ。この「リヴァイアサン」を体現する者こそ、マグニフィコ王である。この統治様式をアナロジー的に描かれているのが、マグニフィコ王が住民の願い(欲望)を一挙に預かり管理している理由を水晶玉と化した人々の願いを見せながらアーシャに告げるシーンである。人間は欲望にまみれた存在である。ゆえに悪事を働くことだってある。その欲動によって「万人による万人の闘争状態」という結果が導かれる。したがって住民にとって人間らしい生き方を実現するための一つのエレメントであると同時に社会に混沌をもたらし得る煩悩を保管することが王の役目だと言うのがマグニフィコ王の論理である。すなわち人々が欲望という生存権の一条件をマグニフィコ王に託す一方でユートピアを維持、管理してもらう社会契約を彼らは結んでいることを不文律としている。具体的なシーンをあげれば、アーシャが夢の内容を祖父サビーノに告げようとした際、王が自身の夢を危険だと判断したなら仕方がない、これ以上何も語るんじゃないと忠告する場面がそれを表している。恐らくロサス王国の大多数の住人もそのように考えているだろう。しかしながらこう言うとマグニフィコ王は作中や映画の宣伝ムービーではまったきヴィランとして描かれているが必ずしもそうではないよう思えてくる。彼は社会を維持するための必要悪を買っているという点で、だ。しかし闇を感じることも確かである。では何がマグニフィコ王を悪たらしめているのだろうか。それは禁断の魔法書に手を染めた段階で彼は完全に懲悪の対象へと変貌することになる。言い換えれば、悪魔の魔導書との契約を結んだタイミングでマグニフィコ王の統治形態が効果様式BからCへと変容しているのだ。

交換様式C(貨幣と商品)が基盤となる社会では、貨幣が強大な力を持ち商品達がそれに隷属する形をとっている。つまり商品が買われるか否かの審判は神である貨幣によって承認されるかに依存しているのだ。マルクスはこの貨幣の神的な性質をフェティシズム(物神性)と呼んだ。物語の中でこの貨幣に対応しているのが魔道書あるいはそれによって錬金された魔法の杖である。あるゆるオブジェクトを服従させる超越的な力を持つのが魔導書及び杖であり、その杖はまさしく神の杖だ。貨幣との相違点を付け加えるならば、貨幣はそれ自身の増殖を続けていくが、魔導書及び魔法の杖はそれ自身の複製はせず人々の願いを無限級数的に吸収することを目的としている。具体的にストリーラインを追って分析してみよう。アーシャが空に願いをかけた瞬間、街じゅうに鮮かな閃光が煌めく。そしてアーシャとスターが対面する。王室の窓から漏れ出たその煌めきを目撃し自分以外にも魔法使いが存在することを悟ったマグニフィコ王は、危険を排除するため、強大な魔法を手にすることができる一方で魔法の力によって自我が飲み込まれてしまうという禁断の魔法書に手を染めてしまう。さらにこの魔導書から生成された杖は、保管している住民たちの夢の水晶玉を破壊すると魔法の威力が増大するという。夢を破壊することで得られる魔法エネルギーはマグニフィコ王にとってある意味貨幣のようなものである。物語のクライマックスのシーンでは強大な力を持ったマグニフィコ王が権力を誇示するために魔法を使って禍々しいショーを見せびらかすのだが、このような行為が相対的に多くの貨幣を保有しているものがその蓄蔵量に従って政治的影響力を持つことのできるという資本主義社会の一側面を転写しているようにも見える。のみならず二度と人々が星空に願い事ができなくなるよう杖の魔術を使って上空に雷雲を発現させるのだが、そんなことしては生態系が壊れてしまい、ひいては人類滅亡に繋がってしまうではないか。この傍若無尽で非合理的行動はまさに資本主義を限界にまで推し進めていった結果生み出された環境問題のシンボルとして読み取ることができる。そして何よりマグニフィコ王が力を増大させればさせるほど自我を失っていく過程がマルクスの言う"人間疎外"の状態へと陥っていく過程にも相似している。禁断書を用いる以前のマグニフィコ王は、自ら国を立ち上げロサス王国の発展に大きく寄与してきたと、そしてさらに今や市民にも慕われているのだとことある事に誇らしげにアマヤ王妃に語っている。(悪しき男らしさの演出ではあるが)しかしそれ以降はロサス王国のためではなくむしろ魔法の杖に対して積極的に奉仕している様子である。そしてその姿は文字通り神経衰弱である。つまり魔法の杖に力を献上することに取り憑かれたマグニフィコ王は以前の主体的な統治から生まれる生の充足感が失われた空集合と化している。資本主義における負の側面のシニフィアンとしての王に支配された国に果たして希望はあるのだろうか。ある。それが交換様式D(X)言い換えればスターである。
交換様式Dが意味するところは、交換様式A→B→Cへと推移した後に、高次元のAへ回帰した社会的状態だと柄谷行人氏は言う。そしてこの高次元Aは、企図されて実現されるものではなく向こうからやってくるものだと言う。なんとも抽象的でイメージしにくいのだが、映画『ウィッシュ』においてはスターというキャラクターがそれを具象化してくれている。夕暮れ、食卓にて祖父に自身の願いが叶わないことを告げようとするや否や、叶わない夢を教えてもらったところで悲しむだけだとアーシャは叱咤される。家を飛び出したアーシャは亡き父との思い出の場所へと「ウイッシュ〜この願い〜」を歌いながら疾走する。崖に聳え立つ大木の枝先で歌い終わると空から一閃の光が放ち、そしてスターが出現する。国王が魔法使いという設定上ロサス王国は言霊のさきはう国なのだろうということは一旦は認めたとしても、数多いる一般市民のうちの1人にすぎないアーシャが思いを歌にしただけで謎のクリーチャーが現れるとは、あまりにも論理に飛躍があるように思われる。矮小化した観点になっているということを承知した上で述べるならば、実はこのシーンこそ、こちらが意図して実現するのではなくそれ(交換様式Dあるいはそれをもたらすもの=スター)は向こうからやってくるのだということを映像化しているのではないか。また最後のクライマックスシーンでは、広場に集まった市民たちが城の頂上にいるマグニフィコ王の魔術によって四肢を拘束され、アーシャもまた城の頂上で彼の魔法によって薙ぎ倒される。まさに背水の陣といったところで、アーシャが「ウイッシュ〜この願いを〜」を歌い始めると、それに続いて広場にいる市民たちもコーラスを唄い始める。すると徐々に魔法の威力は弱体化していき、ついには杖に吸収されていた人々の願いも解き放たれ、代わりにマグニフィコ王が杖に封印される。争いが頻繁に起こっていた互酬的社会から交換様式B、Cを経て人々の思いが共鳴し合う高次の互酬(=互助)社会へ回帰した瞬間である。顛末のシーンでは、スターから特別な魔法がかけられた杖を授けられたアーシャが住民たちからグランドウィザードになるよう懇願される場面がある。王権政治から民主制へと転回した瞬間である。しかしマグニフィコ王を除いてアーシャのみが強大な力を有している為、今後のロサス王国のあり方が一党(一者)独裁的な国になり国家として成り立たなくなるのではないかと危惧される方もいるだろう。しかしナチスのような国になる可能性は極めて低い。というのも正義の象徴としてのスターに授与された魔法の杖が社会に害を及ぼすような強欲的な魔法を発動させることは恐らくないからだ。架空の世界だからこそ実現できる新たな政治形態である。争いのある互酬関係=交換様式A→リヴァイアサン的社会関係=交換様式B→自我の喪失と引き換えに強大なパワーを持った王に支配される社会構造=交換様式Cをアウフヘーブンした先にある社会形態=交換様式D、それを駆動した存在はまぎれもなく謎の生命体スターである。スター無くしては交換様式Dは実現されることは無かったであろう。
ただし、興味深い点が交換様式Dが実現されたとしてもそれもまたさらにアンチテーゼとなりうるであろうことを示唆する描写が幾度か登場していることだ。例えば、アーシャたちが王から人々の願いを奪還しさらには革命を起こそうと計画するシーンでただ一人その運動に反対していた人物がいる。7人のティーンズの中で一番背の低いガーボだ。当初異論を唱えていた彼は、地下で反乱をおこそうという内容のミュージカルを他の全員が唄っている過程で自然のうちに改革派へと転向してしまっている。つまり革命の歌を歌った時点での集団の有様には多様性が失われ、全体主義的な様相を呈してしまっているのだ。マルクスが唱えた共産主義は性質上全体主義を帯びざる負えないこと、そしてそれが国家の運営を安定的に持続させるほど完成された国家理論ではなかったことを歴史が物語っているように、恐らくアーシャが王権的な地位に君臨した暁には、皆が平等に平和な生活を送ることができる反面、ガーボのような社会のメインストリートから逸脱した者がいたとしても、皆の思考様式がアーシャの思想と軌を一にそて内面化していくために多様性が希薄化するという国家の存続を危ぶませる可能性が横たわっていることだろう。社会は生理的に異質性を欲する。だから人類は生きながらえてきた。しかし凹凸のない世界、リーダーのカリスマ性に任せて思想が同質化した社会となった今、他国では悪党が跳梁跋扈する世界で万が一国防の危機に瀕した際ロサス王国はどうなってしまうのか。新ロサス王国にもその脆弱性が残存している可能性があるのだ。映画『ウイッシュ』で実現された(ようにみえた)交換Dにはそれ以外にも、問題含みとなりそうな要素が残滓として潜在していることを暗示している点がいくつかある。その1つが、杖に封印されたマグニフィコ王が、杖ごと地下牢に収監されることを王妃に宣告されるシーンである。そのシーンで思い起こされるのが"オメラスの地下牢"である。"オメラスの地下牢"という物語を聞いたことがあるだろうか。オメラスという街が舞台なのだが、この街は幸福と平和が保たれた史上最高の街だという設定になっている。しかし、この街の地下牢には小さな子供が閉じ込められていて、街の住民はそれを知っている。なぜ誰も助けないのか。それはその子供を解き放つと世界はディストピアへと変貌することを知っているからであった。この物語を現代社会へと敷衍すれば、アフリカで子供たちが貧しい生活を送っている一方で彼らのおかげで私たちは生産物を享受できている。その残酷な事実を私たちは認識しているにもから関わらず、内実普段生活していてそのことを気にすることは稀有である。やや話がそれてしまったが、オメラスの牢獄とマグニフィコ王の投獄には同じ倫理的問題性を根底に孕んでいるように思われる。人々に夢や希望をある意味で奪った悪者だという見方もあるが、それでもやはり確かに人々の命を守ってきたということもまた事実である。命を守ってくれてきた人間に対し、精神の未熟さからいっときの感情に身を任せ悪事を働いたという理由や、彼を野放しにしてしまうとアルカディアが破壊されるのではという恐怖心から、王を地下牢に閉じ込めるというのは倫理的に果たして妥当だと言えるのだろうか。恐らくオメラスの住人のようにロサス王国の住人もまたユートピアを享受する一方で常にジレンマを抱えながら生きていくことになるだろう。

以上、映画『ウイッシュ』のストーリーを柄谷行人氏の唱えた交換様式と絡めて考察してきた。あくまで素人意見なので矛盾点があったとしても許して欲しい。また何か気が向いたら映画を哲学的に考えて見たいと思う。


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