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1. この連載について

僕は、もの心ついてからずっと迷子のような気分だった。どこにも馴染めず、所在がない。いつも異邦人のような気がしていて、深い劣等感を感じていた。周囲に対して常にうしろめたさのようなものを感じて、いつも嘘をついているような気がしていた。また、ぼんやりとしていて、臆病で、空想してばかりで、そんな自分を恥じてもいた。
大人と言われる年齢になってもそんな本質はあまり変わらず、常に周囲との解離感がつきまとっていた。それでもどうにかやってこられたのは幸いに思うが、内面的な苦悩はまあまあ多かったのかも知れない。いつまでたっても自分は正体不明で、生き方がさっぱりわからなかったのだ。

そんな僕は、ごく最近になって、自分という謎の存在を理解するヒントを立て続けに与えられた。
そのひとつは、発達障害の診断を受けたことである。僕は、注意欠陥・多動性障害(ADHD)とアスペルガー症候群(ASD)という、先天的な脳の機能障害を持っていたことが判明したのだ。これは、僕にとって、その後の生き方を大きく左右する「事件」であった。

それまで発達障害についての知識はほとんど無く、薄々感じていた他人との違いが、脳の器質に由来するものだという自覚などもちろんなかったが、長年悩まされていた心身の不調および、自分でも不可解極まりなかった行動の数々が、「発達障害」のひと言でほとんど説明できてしまうことに僕は驚愕した。欠けていたパズルのピースが見つかったかのように、あるいは、絡んだ糸が解けていていくかのように、次々と解明されてゆく疑問。ようやく自分の正体が明らかになったことに、僕は深い安堵を覚えたのだった。

発達障害が判明し、生きづらさの理由がわかって安心したのは事実。
しかし、その一方で、戸惑い、途方に暮れてしまったのも事実だ。
自分の性質、性格や個性だと思っていたものが、典型的な「症状」であると理解することは、ある意味アイデンティティの喪失で、今まで考えていたこと、今までの人生は一体何だったのか、という空虚な思いに襲われたのだ。
また、自分なりに行ってきた苦悩を抜け出すための努力が、ことごとく的外れで、何も克服してなどいなかったことも思い知らされた。こんな年齢になっても人間として成長のない、周囲から置いていかれている自分。僅かばかりの自尊心は単なる認知の偏り。そんな現実を突きつけられて愕然としないわけがない。

それに、発達障害を持つ人は、社会生活において問題を抱えやすい一方で、ある一面では卓越した才能を持っているとも言うが、僕にはそれらしきものも見当たらない。仮に、もし埋もれている才能があったとしても今さら何ができるだろう。これから開花させるには遅すぎる気がする。
僕は、発達障害界においても取るに足らない中途半端な存在なのである。

そんな風に、診断を受けてからしばらくは茫然と過ごしていた僕であるが、ふとあるとき、なぜだかこう思うことができた。

「自分しか見えない世界があるかも知れない」と。

診断は受けたものの、僕の症状の程度は、日常生活に深刻な困難をきたすものではなく、グレーゾーンと言われるものである。この範囲の中では結構強めらしいのだが、不注意優勢混合型ADHDとアスペルガーの症状を重複して持っているので、表面的にはわかりにくい。突出して目立つような症状がなく、一見、矛盾するような正反対の特性が混在してもいるからだ。

発達障害は「スペクトラム(連続体)」と表現されるが、まさにその症状にははっきりとした境目がなく、程度や重なり方によって個人差や濃淡があるのだ。そして、直面する困難の度合いも、置かれた家庭環境や社会的状況によってそれぞれで、症状の軽度・重度によって一概に測れるわけではない。つまり、先天的器質と後天的な経験の組み合わせで無限の様相を呈す。

普通ではないのに異常とも認められない。何の属性もなく、置き忘れられたグレーゾーンという存在は、人生という沼をわたる手がかりの綱が切り離された状態で生まれてきてしまったかのようだ。拠り所がなく、行先もわからず漂うままにその場その場を切り抜けてゆくことしかない。ただただ深く沈み込まないように。
しかし、そんな、サバイバル人生の経験こそが僕の財産なのではないか。そう思ったのだ。
こうして今、振り返ってみると、僕は確かに人生のさまざまな場面で、良くも悪くも一般から逸脱してきたのがわかる。溺れかけながら、黒と白との間を行ったり来たりしながら泳いできたその過程で、僕は、ある種独特の生きる「センス」のようなものを自分なりに培ってきたかも知れない。そう気がついたとき、霧の中にうっすらと光が見えた気がした。

生きづらさの原因がわかり、少しの希望も湧いてきた。とはいえ、目の前には依然として問題があることに変わりない。肝心なのはこれからだ。生活、仕事、その他発達障害人が直面しがちな身体的・精神的・社会的トラブルにどう対処してゆくか。そして、独自の「センス」をどのように活かしてゆくことができるかである。幸い、発達障害は近年急速に理解が広がってきて、情報も充実し、エビデンスのある改善方法も知られてきている。目下の目標は、“グレーゾーン傾向の発達障害人”としての自らの性能を理解し、コントロール方法を学習することである。

というわけで、この連載では、グレーゾーン傾向の発達障害人の目線で、これまでの体験や感じてきたこと、また、自身の発達障害改善の取り組みの一端などを書いてゆくつもりだが、発達障害ではない人には関係ないかと言えば、そうとも言えないだろうと思う。発達障害人が直面する問題は、程度や抱える量の違いこそあれ、多くの人が共通して持つもの。誰しも多少は思い当たることがあるに違いない。
また、それに加えて、あらゆる分野において、発達障害や発達心理の観点を用いる有用性も感じている。社会の動きも歴史も文化芸術も、すべて人間の脳と心が作り出す行動の結果の現象であるから、このフレームを加えて考慮すると、今まで見えていなかったものが見えてくるようで、興味深く面白い。発達障害を語ることは、科学的・文化的両面での人間の理解に役立つのではないかと思う。

かといって、発達障害の研究だとか、克服のための情報発信だとか、そういった目的や大義はとくにない。“sense of life”は、あくまで自分の理解と、興味を深める思考の過程で、個人的なエッセイと思って読んでいただければ幸いである。

僕はこれまで、どうすれば「ふつう」になれるのか、さらには「ふつうより優秀な人」にならなくては、と、散々考えてきたが、ごく最近になってようやくそれをきっぱり諦めた。もう「ちょっと浮いてる変な人」でいいや、と。
その覚悟ができると楽だ。むしろ「変人だけどなんか面白い」となれたら上等。

というか、そもそも「ふつう」って何だろうか。「ふつう」とは、社会の中の多数派を示す言葉でしかないし、たとえ多数派であろうが誰しもが違って、多少なりとも迷い苦しみながら自分の道を生きているのだ。

自分の毎日をいかに充実したものとすることができるか。それが今の僕の最大の関心ごとである。人生の喜びや何かへの貢献もその先にあると思うからだ。


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