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「看仏連携」看護とお寺の出会い 人生最終盤から死後までの連携を

大阪・大蓮寺で1月18日、「看仏連携」という催しが開かれた。副題は「あなたの街のお寺が<人生会議>の舞台となるために」「<看護と仏教>地域包括ケア寺院の可能性を考える」だ。人生の最終盤を支える看護師と、ともすると死後のことだけ顔を出すと思われている僧侶が連携、協働することの意義、実際にどうするかを考える場だ。全国各地から集う約100人の参加者は僧侶と看護関係者がほぼ半々。4時間以上にわたり熱気あふれるトークが繰り広げられ、これを機に実際の「動き」が広がり始める予感が満ちた。私は2014年に上梓した拙著の中で、寺が生前からライフエンディングステージにかかわるべきだと説き、以来いろいろな場でささやかながら発信もしてきただけに、こうした試みが動き出したことは感慨深い。内容を本当に概略・メモ的だが記録しておくと同時に、思うところを少々記す。

社会的資源としてお寺をとらえると
そもそもなぜ「看仏連携」なのか、どんな意義があるのか。主催者の秋田光彦・大蓮寺住職から趣旨説明があった。社会資源として寺をとらえると、様々な可能性がある。全国に約75000ある寺は、コンビニの約56000よりも多い。加えて、寺には「歴史・自然・空間・時間」の4つの資源がある。それが生み出しうる「場の力(ある、集う)・癒しの力(祈り、語り、行事)・学びの力(気づく、対話)」は、いま「地域」という漠然とした概念で言及されているものに実態を与えうる。一方で地域の衰退とともに消えていく寺が増えていくだろう。いま、看護は亡くなるまでを支えて僧侶は葬儀からというのが現状だ。だが、生から死へという流れの中で本来、重なっているであろう部分があるはずで、そここそが連携していくべきところではないか。亡くなりゆく人を生から死まで連携して支えていく。そのための具体的な方法を考え、動きたい。まずは「もやっとした場づくり」で、お互い会ってみる。

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当事者性のある日本の僧侶
続いて、「介護者カフェ」を宗派として広めている浄土宗から東海林良昌さん、大阪で主に独居高齢者に生前から「寄り添う」活動をしているNPO法人ビハーラ21事務局長の僧侶、三浦紀夫さんが活動内容などを報告し、寺院・僧侶の可能性を語った。

東海林さん:介護者カフェは行政サービスからは漏れ落ちているケアラーを支える活動だ。拠り所として寺を活用する。寺には僧侶や寺族がいることで、介護体験の苦しみや死別の悲嘆を受け止める人がいることが特色。悩む私たちを仏様が見守っている場でもある。寺でなければというわけではないが、「助けて」といえる場が地域で増えればいい。日本の僧侶は、他の国の僧侶と違い結婚し、酒も飲む。一般の人と極めて近い生活をしている。つまり介護など当事者性がある。その感覚は大切にしたい。

看護師らにデスエデュケーション
三浦さん:していることは、亡くなりゆく人のベッドサイドで話をすること。終末期ケアから喪の作業、仏事へのバトンパスをする。「あのときから来てくれていた人」と、遺族に認識される存在になり、遺族にも寄り添う。カンファレンスにも参加する。看護や介護の人たちには死生観をもっていない人が多い。看護師らの悩みの相談を受けることも多い。デスエデュケーションを医師・看護師向けにすることも。寺は可能性があるだけに、もったいないと思う。医師や看護師の中でお寺の力を求めている人はいっぱいいると感じている。

臨床宗教師の目標は「くず箱」になること
セッション2では、がん専門看護師の志方優子さんと、龍谷大学教授で臨床宗教師研修主任の鍋島直樹さんが登壇。志方さんからは、スピリチュアルペインは医療者だけでは解決できず、現場が悩んでいる現状が語られた。鍋島さんは、死は「他者」の存在がなければ成立しないという点を指摘。他者は此岸と彼岸で支え手が異なり、此岸では「人、自分自身、大切な事物など」であり、彼岸は「仏や神、先祖など」になるとしたうえで、臨床宗教師の目的とは「くず箱になること」だと説いた。逃げずに待ち、すべてを受け入れる存在だ。

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訪看ステーションを寺が開設
次いで、浄土宗願生寺住職で、医療法人日翔会チャプレンをしている大河内大博さんが、自身の活動報告とここまでの議論のまとめを行った。見事なまとめだった。
報告:願生寺では5月に訪問看護ステーション「さっとさんが願生寺」を開設する。また、在宅医療・訪問看護と連携し、スピリチュアルケアの専門職を在宅医療の現場にコミットさせる「スピリチュアルケア在宅臨床センター」も法人化して立ち上げる予定だ。こうしたことをすると「坊主が金儲けのために介護・看護にまで手を出してきた」というようにいわれる。でも、寺を存続させることが住職の一番の使命であり、そのためには必要なことはしなければいけない。訪看は、お寺の困難と社会の困難を掛け合わせたところにある。今後の少子高齢化、人口減少社会では「生きるとは? 仕事をするとは?」といったことが深く考えられるようになる。宗教の再覚醒があると思う。

死を完結させるための共同作業のための「言葉」は医療者に届くのか
まとめ:
介護者カフェ:地域の人の「助けて」の受け皿になる。答えがないことを当事者がつながることで支える。たとえば介護者が被介護者に対し殺意を抱くケースが多いというが、一概に否定できることなのか、ダメなことなのか。正解のないことを仏様に委ねる。

三浦さん:僧侶は社会資源であるというとらえ方。バトンタッチのためには待っているのではなく、僧侶の側が看護の側に出向く必要がある。患者や家族への関り方の課題を共有し解決していく「伴走」。看護職へのデスエデュケーションはいわば智慧の伝授にあたる。本領発揮は死後の遺族への寄り添いにある。

志方さん:医療現場の中の異物者である僧侶への看護側からの期待が表明された。がん患者が増え、がんと共生していかなければならないいまという時代は、スピリチュアルケアが必須になる時代だ。一方で医療側にはスピリチュアルケアには限界がある。難題に向き合うための「場」が必要。

鍋島さん:死を成立させるための「他者」の必要性。それはバトンを共にすること。寄り添う存在として僧侶は屑籠になるべき。

こうしたまとめの上で大河内さんは論点を提示した。「寺という場と、僧侶という人。場が必要なのか人なのか。またそこ、もしくはその人に『法』はあるのか」「僧侶の魅力とは何か。急性期の場で歓迎されるのか。死を完結させるための共同作業のための『言葉』は医療者に届くのか」

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3つの提言
この後、グループに分かれてワークショップを行い、様々な期待表明や提案がなされた。最後に主催者の一人である㈱サフィール代表の河野秀一さんから僧侶への提言がなされた。「1:病院でチャプレンの役割を果たす。2:人生会議(ACP)でのファシリテーション役となる。3:看護師の悩みを聴くなどしてケアをする役割」

「この場限り」にしないためにと、秋田さんがあいさつで触れたのは今後の展開だった。大蓮寺では、9人に1人が無縁遺骨となっている大阪の現状を踏まえて「ごえん葬」という形で無縁の人のための葬儀を始めること、願生寺と同様に訪看ステーションを始めること、などだ。様々な場を通じて看仏連携を実際に動かしていく決意が感じられた。

結局は日常から地域に開いているかがポイントでは?
冒頭にも記した通り、私は意義深い一日だと感じた。医療現場でも間違いなく亡くなりゆく人へのスピリチュアルケアは必要とされており、看護師自身の精神的なケアも求められている。それに応えられるのは僧侶という存在であり、寺という場を活用できる可能性が示唆された。いわば、ボールは僧侶の側に投げられており、どう投げ返すか、見送るかは僧侶次第だということが浮き彫りになったと感じる。

だが、僧侶の現状はどうだろう。期待に応えられる人はどの程度いるのか。私は、臨床宗教師などの資格は別段必要ないと思っている(あって悪いわけではないが)。要は僧侶が他者と信頼関係を築けるかどうかがポイントだ。檀信徒や地域の人に信頼されれば、たとえそれが一人であっても、その人にとっては僧侶は死の不安を前にとても心強い支えになる。資格があっても信頼関係がなければ意味はない。僧侶が醸し出す宗教性こそが一番のスピリチュアルケアになると考えている。東海林さんのいうように、一般人と感覚の近さは大切だが、修行と日々のお勤めで醸し出される宗教性がなければ僧侶はただの人になる。

信頼関係を結ぶためのポイントは日常から寺を「開いている」かどうかだ。地域の人たちと向き合い、話をしているか。寺に気軽に足を運んでもらえる工夫、仕組みをつくっているか。結局は、日常からそうしたことを意識している僧侶がエンディングステージでも支えになりうる僧侶になるのではないかと思う(裏返せば、そうでない寺や僧侶がいきなりエンディングステージを支えるとか、生前からスピリチュアルケアをするなんぞと言い出しても片腹痛い)。

「看仏連携」という言葉の意義は大きい
これまでも地域包括ケアシステムの一翼を担うように、地域で医療や介護の人たちと連携をしてきたお寺や僧侶はある。だが、今回の大きな意義の一つは「看仏連携」という言葉を生み出して、世に出したことではないだろうか。言葉を与えることは、大切だ。実態はあってもこれまでは「医療と寺院の連携」など単一のワードになっていなかった。看仏連携という言葉ができたことで、目指す方向性が明確になった。人口に膾炙する可能性が出たことで、実態が動く可能性が生まれた。また、「医療」ではなく、実際のケアに深くかかわる「看護師」にフォーカスしたことも注目だ。医師と僧侶では「間隔」が広すぎるが、看護師と僧侶は実は協働できる点が多い(とこの日も再認識した)。看護師こそがライフエンディングステージで亡くなりゆく人を支える「主役」であることを思えば、看護師側の注意を喚起し「ここに僧侶がいますよ!」と直接に呼び掛けて気づいてもらう道筋をつけたのは大きな意味があると思う。主催者の慧眼に敬意を表したい。

どなたかが発言していたが、今回は「お見合い」で最初に出会ったようなものだ。まだ様子見の段階。今後もお付き合いを続け、お互いをより深く知り、よりよい未来を共に築ける関係になることを願っている。私も微力ながら、できることはしていく。「伝える」ことは私の役割だ。発信していきたい。

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