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afeterコロナに残る葬送の儀礼とは

亡くなった人を送る、弔う儀礼として、最終的には何が残るのだろう。新型コロナウイルス感染拡大の中で、お葬式が大きく変容している。葬儀・告別式という流れは、今回のことがなくても葬儀の縮小化の中で風前の灯だった。家族葬が一般化して参列者は減り、「一日葬」や「直葬」などの広がりで、通夜から告別式までして火葬という形の葬儀は減っていた。それが今回のコロナ禍でとどめを刺された。

火葬場での別れの重要性

感染して亡くなった方は、志村けんさんに象徴されるように、感染防止のために遺族が最後のお別れができず、遺骨になってからの対面となっている。家族でさえも病院では直接、触れることもできず、火葬の場面にも立ち会えないのだ。「顔を見られずに別れなくてはならなくて、つらい」。志村さんの兄の言葉だ。

大切な人が亡くなったという事実を受け止めるうえで、火葬の立ち合いは極めて重要な意味がある。肉体が失われて遺骨になることを目の前で事実としてみることで、「あの人は亡くなったんだ」という死の受け入れが始まる。それがないまま「あなたの大切な人は亡くなりました。これがその姿です」と骨だけ渡されても、頭ではわかっていても心では納得しにくいだろう。逆説的に、今回のコロナ禍で火葬の立ち合いの意義は深く社会に刻み込まれたのではないか。

参列者が限定された葬儀


火葬場での最後のお別れができないのは、感染者に特有の状況ではある。だが、葬儀は亡くなった人の感染の有無とは無関係に、すべてのケースで変化しているようだ。実際に愛媛県の葬儀でクラスター感染が発生したこともあって、感染防止の観点から人が集まらないように配慮が求められている。参加者はごく身内に限られるケースが増加している。思い出を語り合う直来などもできない。悲しみや記憶を共有したくともできないケースが増えているのだ。

告別式の終焉


葬儀は死を受け入れるための最初の儀式という意味がある。それは遺族だけでなく、亡き人が属していたコミュニティにとってもだ。告別式はコミュニティにとっての意味合いが色濃かった。社会の個人化と高齢化で、コミュニティと縁が薄れてから亡くなる人が増えたことによって、告別式は形骸化し、家族葬という形で社会・コミュニティとのかかわりの薄い儀礼になっていた(実際には、参加が便利な通夜が事実上の告別式となっていたことは、ジャーナリストの碑文谷創さんが「通夜の告別式化」と指摘した通りで、告別式はつとに内実を喪失していたといえる)。ある意味、告別式は慣習という名の惰性で行われていたともいえるだけに、若くして亡くなった人や著名人などを除いて、今後はおそらく実施されない形がスタンダードになっていくのではないか。

葬儀の行方は?


まだ残っていた遺族にとっての、遺族のための葬儀は、先述したように参列者がごく少数のケースが増えている。これまでの家族葬には友人ら近しい人を含めることもあったが、コロナ禍で本当に「家族」だけになった。これがafterコロナでも続くかどうか、見極めたい。関係性の希薄化によってこの形がフィットするとするなら、家族以外の参列は「無駄」と判断されて消えていくだろう。死の受容のためには家族だけでなくもう少し範囲を広げた友人らの支え、共感、記憶の共有が必要なのだとすれば、細々ながら葬儀はそれなりの人数を集めて行われ続けるだろう。

僧侶の読経だって

また、愛知県の葬儀関連会社では、僧侶がスマートフォンの画面越しにお経をあげるサービスを提供しているという。葬儀で僧侶の読経も本当に必要なのかどうか、それにどんな意味があるのか。宗教者の一種の覚悟や心構え、葬儀における宗教の意義を説明していくことなども問われていると思う。

不要なものの峻別が始まる


災害やコロナ禍のような危機的状況になると、惰性で行われていたこと、これまでの仕組みの不合理さなどが否応なく一気に浮き彫りになってくる(この国の政治のコロナ禍への対応のお粗末さ、社会的弱者へのみごとなまでの共感力・想像力のなさだって、結局は日頃からそうした政治や社会体制を私たちが生かし続けてきてしまったことの証左でしかない)。慣習・習慣も、あらためて不要と必要が厳しく峻別され、急速に変化していくだろう。人を送り、弔う儀式で一体何が本当に必要なのか。一つ一つの意義が問われ、峻別されて変容し、最終的にはまた新たな習慣・慣習として定着していくだろう。

私たちは本当に大きな変化のただなかにいる。

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