【決定版】 『鬼滅の刃』に学び、正しい道を歩こう
これまで『鬼滅の刃』について、何度も書いてきましたが、改めて「『鬼滅の刃』に学び、正しい道を歩こう」と題し、登場人物たちのセリフを中心に、まとめてみたいと思います(6,000字超)。
目次の上から二つのテーマは、かつて紹介したことがありますので、簡潔に列挙するに留めます。
『鬼滅の刃』が私たちに教えてくれたこと
■ 家族・兄弟姉妹、仲間たちの大切さ
■ 家族・兄弟姉妹、仲間たちと助け合うこと
■ 何度でも立ち上がる、あきらめない心
■ 人としての正しい道(正しい生き方)
■ 命や生きることの尊さ 等々
『鬼滅の刃』とは何だったのか?
■『鬼滅の刃』とは、人々を救う、救済の物語である。
■『鬼滅の刃』とは、人生の賛歌である。
■『鬼滅の刃』とは、人間の正しい道・生き方を示す作品である。
■『鬼滅の刃』とは、生きとし生けるもののバイブルである。
■『鬼滅の刃』とは、不滅の名作である。
さて、ここからが本題です。
あなたも現代・令和の鬼殺隊の一員に
「鬼殺隊」とは?
第4話で示された「鬼殺隊」の一般的な説明は以下の通りです。
「鬼殺隊 その数およそ数百名
政府から正式に認められていない組織
だが古より存在していて
今日も鬼を狩る」(第4話・第1巻)
物語の終盤、主人公の炭治郎が「鬼殺隊」の隊士たちのことを想い、次のように語っています。
「自分ではない誰かのために
命を懸けられる人たちなんだ
自分たちがした苦しい思いや
悲しい思いを
他の人にはして欲しくなかった
人たちだから」(第203話・第23巻)
このような炭治郎の発言からも明らかなように、「自分ではない誰かの為に」(世の為 人の為に)「命を懸けられる人たち」こそが「鬼殺隊」と言えるでしょう。
現代・令和において、「命を懸ける」とは、何かに刃を振るうことではありません。
「誰かの為に」「世の為 人の為に」自分の人生を精一杯生きることこそが、「命を懸ける」と言えるのではないでしょうか。
このような観点から考えてみると、私たちも、現代・令和の鬼殺隊の一員になることができますし、「(私も)現代の鬼殺隊の一員だ」という自覚を持とうではありませんか。
現代の「鬼」とは?
それでは、現代の「鬼」とは何でしょうか?
物語の中で、蟲柱の胡蝶しのぶは、次のように語っています。
「鬼は嘘ばかり言う
自分の保身のため 理性も無くし
剝き出しの本能のまま人を殺す」
(第50話・第6巻)
当の鬼である妓夫太郎(上弦の陸)は、
「幸せそうな他人を許さない
必ず奪って取り立てる」(第96話・第11巻)と述べています。
社会学者の宮台真司氏は、インターネットの番組で『鬼滅の刃』に言及し、次のように語っています。
「実は『鬼』というのは、設定上、もともと人間であるというだけでなく、メタファー(隠喩)として『人』なんです。鬼は基本的に自己本位の上昇志向を持つ存在で、つまり現代の人間たちそのもの」
私も宮台氏の主張に同感ですが、現代の「鬼」とは、「自己中心的で、自分ではない誰かのせいにする人間たち」と言えるでしょう。
そもそも「鬼」とは?
歴史的・文化的に見ると、「鬼」とはどのような存在だと考えられてきたのでしょうか。
「世界鬼学会会長」であり、佛教大学の八木透教授の言説を列挙してみます(『時空旅人』2021 Vol.60より)。
■「鬼は悪の象徴である」
■「反人間的であり、反社会的であり、反道徳的な存在でもある」
■「人間とは真逆な存在だといえよう」
■「鬼について考えることは、結果として人間について深く洞察することにつながる」
■「鬼は、いうならば人間の写し鏡でもあるのだ」
また、佛教大学歴史学部の斎藤英喜教授は、「『鬼』とは、煩悩に苦しむ姿でもあったのだ」(同上)と述べています。
まさに『鬼滅の刃』でも、鬼たちの「煩悩に苦しむ姿」が時折り表現されていたのでした。
人は、何のために生きるのか?
煉獄杏寿郎の母親(煉獄瑠火)の「遺言」とも言えるメッセージは、全国民必読と言えるでしょう。
「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか
弱き人を助けるためです
生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は
その力を世のため 人のために使わねばなりません
天から賜りし力で人を傷つけること
私腹を肥やすことは許されません
弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です
責任を持って果たさなければならない使命なのです
決して忘れることなきように」
(第64話・第8巻)
自分に与えられた才能や能力は、天から与えられたものであり、その力を世のため人のために使わねばならない。
さらに、自分より弱い人を助けることは、強く生まれた者の責任だということに異論はないでしょう。
炭治郎も、上弦の参・猗窩座(あかざ)との戦いの中で、次のように訴えています。
「強い者は弱い者を助け守る
そして弱い者は強くなり
また自分より弱い者を助け守る
これが自然の摂理だ」
(第148話・第17巻)
また、猗窩座(狛治)のかつての師匠だった慶蔵は、猗窩座に次のように語りかけています。
「他人と背比べをしてるんじゃない
戦う相手はいつも自分自身だ
重要なのは昨日の自分より強くなることだ
それを十年二十年と続けていければ
立派なものさ
そして今度はお前が人を手助けしてやるんだ」
(第149話・第17巻)
人は、何のために生きるのか?
上記のような登場人物たちの言葉からも、世のため人のために、弱き人を助けるために、人は生まれ、生きると言えるのではないでしょうか。
悪魔のささやきと正しい生き方・正しい道
滅んだはずの鬼舞辻無惨が、炭治郎の意識の中で、炭治郎に対し「前を向くな 人を信じるな 希望を見出すな」「自分のことだけを考えろ」(第203話・第23巻)と訴えたのでした。
これはまさに”悪魔のささやき”と呼べるものですが、裏を返せば、次のような格言を導き出せるでしょう。
「前を向くこと
人を信じること
希望を見出すこと
自分のことだけを考えないこと」
(新約聖書にも、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」〈コリント人への第一の手紙13:13〉という聖句があります)
また、第201話、伊之助の回想シーンで、炭治郎が次のように語っています。
「誰かが道を踏み外しそうになったら
皆で止めような
どんなに苦しくても つらくても
正しい道を歩こう」
(第201話・第23巻)
炭治郎が言うように、仲間や友人が「道を踏み外しそうになったら」止めるのが「正しい道」ではないでしょうか。
第146話、我妻善逸に敗れた獪岳(かいがく、上弦の陸)が消滅する際、愈史郎(ゆしろう)は次のように語りかけます。
「人に与えない者は
いずれ人から何も貰えなくなる
欲しがるばかりの奴は
結局 何も持っていないのと同じ
自分では何も生み出せないから」
(第146話・第17巻)
「情けは人のためならず」(人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分に戻ってくる)ということわざもありますが、人に惜しみなく与えようとするのが、人の「正しい道」とも言えるでしょう。
自殺がなぜいけないのか?
一般的にも、宗教的にも、「自殺はいけない」と考えられていますが、では、なぜ自殺がいけないのか、炭治郎が、亡くなった「鬼殺隊」の隊士たちに誓った言葉から紐解いてみたいと思います。
「みんなに繋いでもらった命で俺たちは
一生懸命生きていきます」
(第204話・第23巻)
私たちの命は、「みんな(先祖や家族、多くの人々)に繋いでもらった命」だから、一生、命を懸けて(一生懸命)生きていかなければならないのです。
自分の命(体)は、自分だけの命(体)ではないのですから、勝手に粗末にしてはいけない、すなわち、自分の命を自ら断つ、自殺はいけないのです。
「みんなに繋いでもらった命」について考える上で、詩人の相田みつをさんの「自分の番 いのちのバトン」という詩をご紹介します。
自分の番 いのちのバトン
父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で 千二十四人
二十代前では――?
なんと百万人を越すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いま ここ に
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それが わたしの
いのちです
みつを
炭治郎のような男になろう
『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎の魅力はたくさんありますが、その一つに、他者に対するやさしさや思いやりが挙げられます。その思いやりや同情心は、那田蜘蛛山(なたぐもやま)で倒した鬼・累(下弦の伍)にも顕れていました。
「殺された人たちの無念を晴らすため
これ以上被害者を出さないため…
勿論俺は容赦なく鬼の頸(くび)に
刃を振るいます
だけど 鬼であることに苦しみ
自らの行いを悔いている者を
踏みつけにはしない
鬼は人間だったんだから
俺と同じ 人間だったんだから
足をどけてください
醜い化け物なんかじゃない
鬼は虚しい生き物だ 悲しい生き物だ」
(第43話・第5巻)
このような鬼に対する同情心は、「慈悲」(※)とも呼べるものです。
※「慈悲」とは、仏・菩薩が衆生をあわれみ、苦を除き、楽を与えようとする心。
さらに、炭治郎の魅力として挙げられるのが、「罪悪を絶対に許さない心」です。
刀鍛冶の里での戦いで、逃げる半天狗(上弦の肆)に対して、必死に追いかける炭治郎が言い放った言葉が次のものです。
「貴様アアア!! 逃げるなアア!!!
責任から逃げるなアア
お前が今まで犯した罪 悪業
その全ての責任は必ず取らせる
絶対に逃がさない!!」
(第124話・第14巻)
「命をもって 罪を償え!!!」
(第126話・第15巻)
このような罪悪に対する義憤心、「罪悪を絶対に許さない心」、罪悪に対する”不寛容さ”は、私たちが特に見習うべき点ではないかと思います。
今の世の中では、「多様性」や「寛容さ」「尊重」がしきりに謳われていますが、どんなこと(もの)でも受け入れ、尊重することが必ずしも良いとは限りません。
もし、友人が麻薬(ドラッグ)に手を出していたり、売春をしていたら、そのような「多様性」を認め、「寛容」であったり、「尊重」してはいけないでしょう。
悪いことには「ダメだよ、やめなよ」と、勇気を持って言ってあげるのが”真の友情”ではないでしょうか。
「悪魔のささやきと正しい生き方・正しい道」でもご紹介しましたが、伊之助の回想シーンでの炭治郎の言葉、「俺たちは仲間だからさ 兄弟みたいなものだからさ 誰かが道を踏み外しそうになったら 皆で止めような」(第201話・第23巻)という言葉を胸に秘めておきたいものです。
改めて、炭治郎の魅力とは、「慈悲」とも言える他者への同情心・思いやりと、罪悪を絶対に許さない心を兼ね備えているところにあると、個人的には感じています。
己を鼓舞しよう、「心を燃やせ」
第24話、響凱(きょうがい)との戦いで、炭治郎は自分自身に叫びます。
「頑張れ炭治郎 頑張れ!!
俺は今までよくやってきた!!
俺はできる奴だ!!
そして今日も!! これからも!!
折れていても!!
俺が挫けることは絶対に無い!!」
(第24話・第3巻)
まさに己を鼓舞しながら、勝利を掴み取った炭治郎でした。
炭治郎は、蝶屋敷での「機能回復訓練」を終えて出発する前、栗花落カナヲに対し、
「人は心が原動力だから
心はどこまでも強くなれる!!」
(第53話・第7巻)と強く訴えます。
「人は心が原動力」だから、己を鼓舞し、己の心を強くする必要性は、誰にとっても変わらないことでしょう。
次に、『鬼滅の刃』を代表する名言として挙げられるのが、炎柱・煉獄杏寿郎の言葉です。
「胸を張って生きろ
己の弱さや不甲斐なさに
どれだけ打ちのめされようと
心を燃やせ
歯を喰いしばって前を向け」
(第66話・第8巻)
「人は心が原動力」だからこそ、何かに挑戦する時やここぞという時に、心を燃やさなければなりません。煉獄さんの名言を何度も唱えながら、心を燃やしていきたいものですね。
どのような時でも誇り高く生きよう
「どのような時でも
誇り高く生きて下さいませ」
(第28話・第4巻)
この言葉は、響凱との戦いの後、炭治郎たちがお世話になった、「藤の花の家紋の家」の老婆の言葉です。
この言葉の意味を伊之助からたずねられた炭治郎は、次のように解説しています。
「自分の立場をきちんと理解して
その立場であることが
恥ずかしくないように
正しく振る舞うこと かな」
(第28話・第4巻)
まだ十代の若者の言葉とは思えませんが(苦笑)、それぞれの立場や職業などに応じて、自らの立場をきちんと理解して、その立場にあることが恥ずかしくないように、正しく振る舞うように心がける…
また、立場や職業などは違えども、人として「誇り高く」生きたいものですね。
「黄泉の国」について
『鬼滅の刃』では、全編を通して、「黄泉の国」(死者の世界)や死者の存在がたびたび描かれてきました。
煉獄杏寿郎の訃報にふれたお館様(産屋敷耀哉)は、次のように語っています。
「寂しくはないよ
私ももう長くは生きられない
近いうちに杏寿郎や皆のいる…
黄泉の国へ行くだろうから」
(第66話・第8巻)
また、那田蜘蛛山で絶命寸前の鬼・累と、すでに他界している両親とのやり取り――
累「でも…山ほど人を殺した僕は…
地獄にいくよね……
父さんと母さんと…
同じところへは…
行けないよね…」
父「一緒に行くよ 地獄でも
父さんと母さんは累と
同じところに行くよ」
(第43話・第5巻)
また、炭治郎に敗れ、絶命寸前の猗窩座(狛治)に対する師範(慶蔵)の言葉――
「お前がどんなふうになろうが
息子は息子 弟子は弟子
死んでも見捨てない
…天国には連れて行ってやれねぇが」
(第156話・第18巻)
「黄泉の国」が存在するかどうかは、実際に死んでみなければわかりません。
しかし、鬼になってしまった人間に対し、すでに他界した家族らが語った「死んでも見捨てない」「地獄でも一緒に行くよ」といった言葉に、子供のことを想う親の愛情の深さがよく表れていると言えるでしょう。
結論:正しい道を歩こう
「正しい道」とは何か、ここまでの内容をまとめて列挙してみます。
■ 世のため人のために、自分の人生を精一杯生きること。
■ 人に惜しみなく与えること。
■ 前を向き、人を信じ、希望を見出すこと。
■ 友人が道を踏み外しそうになったら、止めること。
■ どのような時でも誇り高く生きていくこと。
このような「正しい道」(正しい生き方)を私たちに教えてくれるのが、『鬼滅の刃』という不滅の名作であると私は考えています。
(文部科学省は、今回取り上げた内容を「道徳」の教材や副読本などにぜひご活用いただければと思います)
私たちも、炭治郎たちのように、人として、正しい道を歩いていきましょう!
そして、世のため人のために生きていきましょう!!
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