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休みが終わりつつある日々に。

ずいぶんと、頭が軽くなった気がする。
それは物理的な問題ではなく(むしろ休養期間で髪量も体重も増えた)、
当然のように精神的な問題だ。

休み始めの頃を思い出す。とはいえ記憶は曖昧で霧がかかっているから、上手く回想ができないけれど。
ただ、ひたすら茫洋としているか、パニックになって泣いているか、寝ているかのどれかだったことは覚えている。

数少ない自分の記録(公開していないアカウントでの呟き)では、昼はパニック発作のようなものがよく出て、突然理由もなく過呼吸になったり泣いていたりしていたようだ。そして夜は鬱が強く、風呂に入るのもおっくうだったし、昼間の「無」を取り戻そうと起きているのだけれど、何もできずに中途半端な意識で転がっていた、と思う。

1週間ではなんともならなかった。ただはっきりしない意識のまま、未来への絶望と自分への失望に薬で麻酔を打ち(用法用量はきちんと守っています)、何もできずただ転がっていた。

でも、少しだけあたたかいものを感じる機会はあった。
比較的身体が動く時に、紅茶を一杯淹れる。尊敬している人の教え通りに、砂糖をたっぷり入れて。その一杯を飲んでいる、その瞬間だけは焦燥に満ちた一切の「暇」のない時間の中で唯一、時計の針がゆっくりと回っていたように感じられた。外も室内も湿気と温度は不快指数、自律神経も乱れて暑いのか寒いのかわからなくなっていたけれど、その紅茶は確かにあたたかかった。

2週間目くらいからだろうか。ようやく意識が自分の制御下に戻ってきて、「休みをやろう」と思えるようになった。

休職期間も1ヶ月になったから本気、かつ全力で休みの作戦を立てる……とまで上手く頭は働いてくれなかったので、ただひたすらに「一ヶ月は何があっても休みだ」と脳内での確認を繰り返しながら過ごした。

テレビの他愛のないバラエティ番組を見たり、YouTubeで美しい風景の動画を見たり、犬の散歩に行ったり。
テレビの便利なところは、だいたい曜日によって番組が決まっているところだ。それを見ていると、
「今、○○を見ている。○○が見れているということは、今日は休みである」
「そして来週も○○が見れる、つまり来週も休みである」
という自己確認ができる。それがないと常に仕事が待ち受けている感覚に陥り焦燥感に苛まれてしまうので、案外、テレビの存在に助けられた。
(この辺のメンタルコントロールの方法には個人差がかなりあると思うので、それぞれ自分に合ったやり方を模索した方がいいかと……)

そして、ようやく作品も作れるようになってきた。しかしまだ少し趣味の評価に対する心の置き所が定まっていないようにも感じる。
以前書いたように数字に振り回されない創作が理想で、noteに書いたことで自分のなかでもそういう価値観がゆっくりと定着し始めていたのだけど、今回の大爆発で精神のゆらぎが帰ってきてしまったのだ。

とはいえ。自分でも「ゆらぎ」と記したが、そりゃそうで精神は常に一定ではない。諸行無常の価値観で物事を見たり感じれるほど解脱していないので、ゆらぎを受け入れまた一歩一歩進んでいくしかないのだろうな、とも思う。

休みが終わりつつある日々に思うこと。
もちろん、復帰してから上手くやっていけるかとか目の前の生活とか貯金の残高とか今月の給料とかもう不安要素が山のように降り積もっているんだけれど。
周囲の力を借りて、今回も幸運なことになんとか生き残っているのだから、この先も「生存」を一番の目標に掲げてやっていきたいと思います。

とりあえず、復帰しました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

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