見出し画像

ヘルシンキ空港で猛ダッシュをしたくはなかった

列車、飛行機、船。長距離移動での乗り継ぎは、充分な時間的余裕を持って楽々にこなしたいのは当然だけれど、そうはいかないこともある。その日は搭乗機はスカンジナビア半島にさしかかる前から座席前のモニターに遅延が告知され、変更後の到着予定時間、乗り継ぎ時間とゲートが記されていた。なんということ。ヘルシンキに到着後に次のコペンハーゲンへ発つまで1時間45分あるはずの乗り継ぎ時間が、無残にも15分になっている。じゅじゅじゅうごふん?!と心で叫びながら私の瞳孔はすでに開いていたかもしれない。その先の悲喜劇を覚悟した。
ドアが開くや否や、手荷物を引いて搭乗口から飛び出す。
 
夜明け前のヘルシンキ空港はまだ眠っていて静かだが、たった15分で入国審査と荷物のセキュリティーチェックを通り、巨大な空港の端から端のターミナルへ移動せねばならない。テナガザルが木々を渡るように素早くだ。手荷物を引いているので、すでにテナガザルの片手はふさがっている。
 
走る、走る、否、正確には訳あって、人様が想像する走るという行為はとうていできず、例えるなら舞妓さんが祇園の細い通りを遠慮しながら足元をぱたつかせて急いでいるような感じ、といえばなんだか少し聞こえはいいが、実際はそのような愛らしいものではなく、おそらくは足が特別短く産まれたヤドカリがかりかりと、通路を引っかきながら進んでいるような状態だ。ヤドカリが立ち向かうハブ空港のターミナルは北欧の怪物が両手を広げたほどの規模。こちらの体感ではかなりのスピードなのだが、ちっとも前へ進まない久しぶりの水泳のよう。そういえば同じ乗り継ぎで、同時に走り出したカップルの姿はどんどん遠のき、もう見えない。さようなら。彼らは彼らの実力で最終目的地に近づいているのだ。

幸いにもすいていた入国審査で息継ぎをし、神の助けか待ち時間がほぼなかったセキュリティチェックを滑り抜け、もがきながらの猛ダッシュ。すると頭上で空港アナウンスが「フィンランド航空でニューヨークからコペンハーゲンへ乗り継ぐ奴よ早く来い!今すぐ来い!」と合計4回もせき立てる。そう、わかっている、わかっているのだ、だからこそこんなに四肢をバタつかせているのだ。右目の端にちらりと見えた開店前のムーミンショップもイッタラもマリメッコも今日は寄ることもなく通り過ぎ、ひたすら急いでいるのだよ。
すると、見えて来た。あれがゴールだ。目的のゲートが見えて来た。そこには今か今かと待ち受ける職員が数人、長く手を伸ばして招いている。どうやら間に合ったようだがここでスピードを緩めては侍ではない。最後の力を使い切り、機内へ飛び込んだ。
 
セーフだ、セーフ。息は上がり顔を上げるとすっかり着席した乗客たちがいっせいに目を見開いてこちらを凝視していた。その時の私がどんな顔をしていたのかわからないけれど、一番前の席にいた大柄の男性が慌てて立ち上がり、恐怖に満ちたような表情で私に言った。「ここ、ここへ座りなさい!」私は思った。何?そこへ座るの?私の席じゃないだろうけど、じゃあまぁ座るけど、と私は彼の席に座った。今思えば、その男性がたいへん優しい方だったということは確かだ。ありがとうございます。たいへんお待たせしました。ただ、そのときの私は夜明けの苦行がようやく終わり、荒げた息のまま見知らぬ人の座席に座り、これで全てが終わったような感慨に囚われていた。そしてふと、それがまだ旅の始まりの前だということを思い出していたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?