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J POPと日本映画のぬるい関係。

最近はよく日本映画を見る。ガールフレンドに勧められてみたひとつの日本映画が素晴らしかったからだ。

海外の作品に比べると、どれも画一的でまるでテレビドラマを見させられたように肩透かしを食らう、というのが僕の日本映画のイメージだった。
そのイメージが覆ったわけではないけれど、僕のみたその映画は、現代日本の状況と社会の不安定さを精緻な脚本でみせてくれた。

世の中の空気と音楽や映画は根っこでつながっている。当たり前だ、売らなきゃいけないんだから、世相を窺うのはビジネスとして王道だろう。
だとしたら、今の日本は行き詰まっているのだろうか。どの映画と言う程ではないけれど、内省的な主人公、空白のある会話、陰影を意識した街並みの映像、若しくは伝統的にアホらしいラブストーリー、行き着く所に既視感がある結末。面白いものは面白く、空々しいもは薄っぺらい。しかしひとつの日本産プロダクトとしてはきっと良く出来ているのだろう。 

エンドクレジットで流れるストーリーに沿ったようなJPOPは、良くも悪くもドメスティックで聞きやすい。

昨今言われるように韓国産のエンターテイメントに比較して負けている、と言う意見は大方、正しい。だけれど、日本のクリエイションの地力は韓国には劣っていない。
ただぬるいのだ、映画も音楽も、そしてその関係性も。自己採点、150点で漸く世界と戦えるレベルだとしたら、日本のクリエイションは自己採点が少しぬるい。

僕が関わる日本の音楽の一部は、きっと世界にいく気なんてない。問題はそこだ。
生きていければそれで良い、と言う人間がぬるい関係の中で物を作りだしている。

別に日本人だからって日本を応援したい訳じゃないし、悔しいわけでもない。

せっかく美味しそうな具材があるのに、さほど大事に料理をせずにサーブするメンタリティが嫌なのだ。








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