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#1655 問いと主体と学びの深さと

最近の教育界では、「問い」にフォーカスされた実践が流行している。

これからはVUCAの時代であり、先行き不透明である。

調べればすぐに正解が分かる問題よりも、他者と議論しながら、最適解・納得解を粘り強く導いていくことが求められる時代である。

その際に必要なのが「問い」である。

いかに質の高い「問い」を設定できるかが重要となる。

調べればすぐに正解が出る問題や、他者と議論する必要のない問題ではない。

それらとは真逆の性質をもつ「問い」を設定する。

そうすれば、議論・対話・交流が活発なものとなり、より質の高い最適解・納得解を導くことができる。

だからこそ、今の時代は、上記のような「問い」を重視した授業実践が流行しているわけである。

しかし、このような「問い」を重視する授業実践において、注意しなければならないことがある。

それは「問いをつくって終わり」になってしまうことである。

「問い」を重視するあまり、それを生成することが「目的」になってしまうのだ。

「問い」はあくまでも、資質・能力向上のための「手段」である。

なので、「問いをつくって終わり」にするのではなく、「問いをどう解決していくか」ということも大切にしなければならない。

「問いの設定」+「問いの解決」とセットで考えるようにしたい。

もう一つ注意すべき点は、「問いが深いものになっているかどうか」という視点である。

「問い」には「質」があるので、浅いものもあれば、深いものもある。

浅い問いを解決したところで、浅い学びしか得られない。

しかし、深い問いを解決できれば、深い学びを得ることができる。

なので、生成した「問い」が深いかどうかを見極めること、深い「問い」が生成するように教師が仕掛けをすることが求められる。

よく「問いは子どもから生まれた方がよい」という意見を耳にする。

確かに聞こえはよい。

しかし、子どもから生まれる問いは「浅い」ものである場合がある。

それを見逃し、「子ども発だからよい」と放任してはいけない。

教師が何らかのアプローチをし、深い問いを生成する支援をしなければならない。

または、深い問いをプレゼントする必要がある場面もある。

子どもたちは、目の前の「課題」「学習材」「ヒト・モノ・コト」などの「客体」に働きかける「主体」である。

つまり、「問い」を生成し、それを解決していく「主体」である。

一方の教師も、「教材」「子ども」という「客体」に働きかける「主体」である。

つまり、子どもが深い問いを生成できるように支援したり、仕掛けたりする「主体」なのである。

または、子どもに深い問いを与えるという「主体」でもある。

このように「相互主体」という視点をもつ必要があるのだ。

よって、「子ども発だからよい」「教師発はダメ」などという議論は不毛である。

「問い」は子どもが生成したものでもいいし、教師が生成したものでもいいのだ。

それは、子どもも教師も「主体」だからである。

子どもと教師といういずれかの「主体」が、深い問いを生成することができればそれでよいのである。

重要なことは「だれが生成したか」よりも「深さ」なのである。

これから「問い」を重視した授業実践をする際は、「深い問い」を志向するようにしていきたい。

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