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#1664 秩序とルールと怖さと価値の切り出しと

最近の教育界は、「自由進度」「自己調整」「子どもの主体性」「ICT活用」など、子どもに自由度を与える教育実践が流行している。

それまでは「一斉授業」「一斉指導」「支配的学級経営」「学習規律」など、教師の権威で子どもを縛り、自由度を許さない教育実践がメインだった。

それに伴い、子どもたちの反発が増え、問題行動や学級崩壊が増加する要因にもなっていた。

このような「教師中心の学級経営」「教師主導の一斉授業」を見直すために、子どもに自由度を与え、「主体性」を尊重する実践が求められるようになったのだ。

しかし、最近のこのような流れにも、「限界」が見えてきている。

「自由進度」「自己調整」「ICT活用」「子どもの主体性」「子どもに任せる」ことを重視し過ぎると、学級内が「なんでもあり」の状態となってしまう。

ICT機器を遊び道具として使う。

授業と関係のない私語が増える。

人の話を聞く態度が悪くなる。

このような弊害が生じるのである。

上記の過去記事でも述べた通り、「個別最適な学びと協働的な学び」を謳う令和の日本型教育と従来の学習規律は相性が悪いのである。

そのため、「自由進度」「自己調整」「ICT活用」「子どもの主体性」「子どもに任せる」という流れは一時的なものとなり、必ず「揺れ戻し」が生じてくるだろう。

系統主義と経験主義が「振り子」のように行ったり来たりするのと同様に、「子どもの主体性重視」と「教師の権威重視」が行ったり来たりする流れになるはずである。

その証拠にここ最近は、「叱る」「教師の指導性」「ネガティブフィードバック」など、子どもや部下の主体性を抑える方向の書籍が増えつつある。

私が過去記事で紹介した通りである。

このように、「自由進度」「自己調整」「子どもの主体性」「ICT活用」など、子どもに自由度を与える教育実践の流れがメインになりつつも、その中に潜む問題点や危険性を考慮しなければならないことが分かる。

よって、「教師の指導性」を発揮し、「ダメなものはダメ」と適切に叱ったり、ネガティブフィードバックを返したりする必要があるのだ。

それは学級内に「秩序」を生むためである。

「自由進度」「自己調整」「子どもの主体性重視」「ICT活用」などというものは、結果的に子どもたちの資質・能力を育むための手段である。

けっして「なんでもあり」「自由をつくり出す」ための手段ではない。

したがって、子どもたちの資質・能力を育んでいくには、学級内に「学び」が生起しなければならない。

そのような「学び」を阻害する逸脱行為はあってはならないのである。

なので、「秩序」という安心・安全の土台が必要なのだ。

「なんでもあり」ではいけないのである。

以下では、「自由進度」「自己調整」「子どもの主体性」「ICT活用」を志向しつつも、学級内にどのように「秩序」を生み出していくかを具体的に整理していく。

1 ルールやシステムを確立する

学級内に「秩序」を生み出すには、ルールやシステムを構築することが必要だ。

最初に紹介した過去記事では、
➀聞くときと活動するときの切り替えをする
②他人の迷惑になる行動をしない
というルールを紹介している。

他にも「タブレット端末使用のルール」を設けてもよいだろう。

上記の記事のように、ルールを内在化したり、システムを身体化させるという発想が必要だ。

これを「行動主義」と言う。

ルールが内在化され、システムが身体化されれば、逸脱行為や問題行動が減り、学級内に「秩序」が生まれるだろう。

2 リーダーの「怖さ」を知ってもらう

それでも、ルールを破ったり、システムから逸脱したりする子どもが現れる。

こんなとき、リーダーである教師は「怖さ」を教えなければいけない。

「怒鳴る」「一方的に大声で叱りつける」というような動物的な「怖さ」を示すのではない。

これでは脳に「恐怖」だけが残り、心理的安全性が蝕まれる。

そうではなく、「ルールやシステムの必要性」を語り、それを破った問題点を指摘するのである。

つまり、ルールやシステムに従わなかったときの「末路」を教えるわけである。

そして、逸脱行為や問題行動は自分の成長のためにならないことを知ることができる。

そのためにリーダーが論理的に説明し、その逸脱の「怖さ」を知ってもらうわけである。

リーダーはいつでも優しいわけではなく、ときに「怖さ」も教える必要があるのだ。

3 価値を切り出す

それでも「ルールやシステムは設定したくない」「子どもの自律性を尊重したい」という場合もあるだろう。

そんなときは、子どもたちに「価値」を伝え、「自己決定」を促すようにするとよい。

これについては、前回の記事で紹介した通りだ。

行動の表と裏にある「価値」を切り出し、ポジティブで善い価値も、ネガティブで悪い価値も、全て子どもたちに提示する。

そして、「どの価値を選ぶか」「どの価値を大切にするか」を選択させる。

いわば「自己決定の場」を生み出すようにする。

そうやって、「選択肢」を提示してあげれば、子どもは「善い価値」を選ぶはずである。

その「自己決定」に対して、教師はほめてやればよいのだ。


「個別最適な学びと協働的な学び」を謳う令和の日本型教育と従来の学習規律は相性が非常に悪い。

そのため、「自由進度」「自己調整」「ICT活用」「子どもの主体性」「子どもに任せる」ことを重視すると、必ず逸脱行為や問題行動が生じる。

これは「当たり前の現象」である。

「自由」がそこにあれば、人間は「やりたいことをやる」ようになってしまうのだ。

しかし、子どもの「なんでもあり」を容認・黙認してはいけない。

では、「自由進度」「自己調整」「ICT活用」「子どもの主体性重視」を諦めればよいのか?

それでは、従来までの「一斉授業」「教師中心の学級経営」に逆戻りしてしまう。

それでは本末転倒だ。

ではどうしたらよいか?

「自由進度」「自己調整」「ICT活用」「子どもの主体性」を重視しつつも、学級内に「秩序」を生み出すのである。

それが子どもたちの資質・能力を育むことにつながる。

そのために、ルールやシステムを構築したり、リーダーである教師が「怖さ」を示したり、価値を語ったりするのである。

何事も極論ではいけない。

「子どもの自由度」を保障しつつ、「教師の指導性」も意識する。

バランス配分が何よりも大切なのである。

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