【ネタバレ】ミッドサマー 共感・理性・他者

 更新、大分間が空いてしまいました。記事の購入やサポートをして下さった皆様、ありがとうございます。生きています。

 というわけで、ミッドサマーのネタバレ感想です。観ていない人でこれから観に行く予定のある人でネタバレが嫌いな人は(厚い多重予防線)、すぐにブラウザをバックするんだ。おにいさんとのやくそくだぞ。

ミッドサマーを観た(ホラーがダメなのに……)

 まず、普通にホラー動画全般が苦手で(文章や漫画は平気)、目を一度もつぶらずに観れる映画といったら『ミスト』ぐらいが限界。『シャイニング』は無理だと思う。しかしこれだけ話題になっているし、予告編を観て相当興味が湧き、何より大画面で観た方がいいだろうなという映画だと感じたので、恐怖を抑え込み、なんとか観に行きました。

 ホラー動画の何が辛いか。まず突発的な轟音が苦手すぎる。聴覚過敏で、未だに雷が鳴ると家から出られません。雷は早急に道徳教育を受け、公共の場で急にクソでかい音を出すのを止めて欲しい。ドラムは最近克服しましたが、これなんとかなるんですかね?梅雨の時期に強制ひきこもりになるのどう考えてもまずいんですが……
 ちなみに突発的なキモ・生命体の登場もキツい。急に顔を近づけてくるな。まず挨拶をしろよ。パーソナル・スペースって知ってるか?人間関係には適切な距離というのがあるんだ。そういうのなしにいきなり懐に飛び込もうとするんじゃない。

 そしてホラー特有の「来るぞ…来るぞ…」というタメ。あれも苦手です。音響と映像の悪魔合体を可能にした映画という媒体が憎い、憎いよ……!!!!緊張感を出されるのは全然嫌いじゃないですが、ホラー映画の場合その緊張感が先述のキモ・生命体の登場であったり、グロテスクな事件が起こったりする前振りであることが大半なので、合わせ技で最悪という感じになる。ヤバい!と思った任意のタイミングで登場キャラクターの顔全てを瞬時に蛭子能収にする観客保護システムの導入が求められている。『アイリッシュマン』でその可能性は開けただろ。頼むぞ安倍政権!!!!といったところです。

 まあそんなわけで大変観に行くのは勇気を伴いましたが、いざ観てみるとホラー成分は案外少なく、楽しんでみることができました。良かった~~~~

 以下ネタバレ感想になり、早口になります。


反転まで

 映画はアメリカの大学生御一行様がホルガ村へ向かう途中、車の映像が上下反転するところを境に区切れています。まずそれまでを振り返ってみます。

 主人公のダニーは不安に苛まれており、抗不安薬や睡眠薬を服用、カウンセラーもついています。双極性障害の妹ともども家族が車の排気ガスを家に引きこむというダイナミック自殺をしてしまったので(効率が悪すぎる、家じゅうのすきまにテープを張る気持ちはどうだ?)、完全にぶっ壊れてしまいましたが、それ以前に人間関係がぶっ壊れています。彼氏のクリスチャンにヒステリックな(しょうがない)電話をガツガツやっていきますが、電話の向こうで友人たちと一緒にいるクリスチャンは辟易している様子。最初のやりとりが電話というのもよくて、相手の顔を互いに見るような誠実で深いコミュニケーションがうまくいっていないことがいきなりわかってきます。

 この時点でダニーはクリスチャンの「理性的」なアドバイスを「言葉」上は受け容れていますが、そんな簡単に解決するはずもありません。家族を亡くして一年卒業がのびた雰囲気のあるダニー。一方クリスチャンの友人たちは論文に向き合っている。クリスチャンはどうも上手くいっていないみたいですが。

 反転前で多くの要素が揃っています。自己欺瞞であると知りながら相手に都合がいい(と思っている)解釈で自分を抑圧しているダニーに対し、大学生のインテリの皆様は理性を用いてある種のホモ・ソーシャルを築いており、その言葉は合理性の服を着てダニーを抑圧するわけです。大学のメンズたちが話すことと言ったらセックスセックスで、精神的な向き合いとかいう方向にはまったく注意がいっていません。連絡の途絶したダニーの妹の行動について「気を引こうとするムーブでしょ」みたいなことを言うのは、今の世界では"あるある"と言っていいくらい精神疾患の人間の行動に対する典型的パターンでしょう。共にあろう、一緒にいようとするのではなく、自分の理解可能な、あるいは好ましいフレームに他者を閉じ込め、自分が傷つきそうにない距離を置くこと。精神疾患の問題はこの映画に一筋縄ではいかない影を落とすことになります。

 そしてクリスチャン。クリスチャンは論文のテーマが定まっていないし、別れた方がいいのだろうと思うけれども(周りからガンガン薦められてるし)踏ん切りはつかないし、かといってダニーに寄り添うこともしない。彼は主体的に自分と他人に向き合うことを最後までしませんでした。その結果後半の悲劇が彼を襲うことになるわけですが……

 こうしてあまりに見え透いたペレの誘いにより、一行はホルガ村へ向かうことになります。車中でまだ調子に乗っているマーク。しかし世界が上下反転することにより、ここまで(男性的)理性優位だった映画は、一転してダニーやペレに象徴される共感優位のゾーンに突入していきます。

ホルガ村へ

 外部世界(現世)からの客人はアメリカ・イギリスの皆さんでした。ホルガ村(常世)に直で行くのはよくないので、中間地帯でクサやキノコをキメることにしますが、ダニーここでも自分を抑圧してしまう。案の定バッドに入ってしまい、被害妄想が炸裂してしまいました。幸先が悪い。

 村につくなりさりげなくペレがその「人を見る目」の良さで今回の犠牲者アメリカ地区を選別してきたことが示唆され、もう最悪です。執拗に今回の犠牲者アメリカ地区の皆様の顔と名前を紹介していくムーブ、完全に生贄としての性質を強めるリフレインにしか見えなくて笑ってしまいました。

 最初のショッキングな儀式は、「こんなところにいられるか!俺はもう帰る!」の様式美につながっていきます。当初、『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセンが出演しているという情報を手にした私は、もし怖くなったらビョルンを観て「これはベニスに死す、ベニスに死す……」と自己暗示をかけることで乗り切ろうと考えていたので、あまりにも早い退場で完全に計画が狂ってしまいました。あれ以上がなかったので本当に良かった。

 しかし、一人で逃げて行ったというイギリス男の彼女を心配するダニーに対し、そっけないクリスチャン。それどころか文化相対主義を持ち出して異文化理解の文脈からこの異常な状況を理解しようとしてしまう。クリスチャン、ロゴスの覇権はもう終わったんだよ……とはいえなんとなく村に落ち着くことにしたアメリカの犠牲者の皆様であった。

 なんやかんやあり、御定まりのホラー文法に従って村の禁忌に触れたマーク、ジョシュが無事(無事ではない)退場。その過程でクリスチャンがホルガ村で論文を書こうとしていた人類学兄貴・ジョシュの領分を横取りしようとします。趣味でやってんじゃねえんだよとジョシュ。そうだクリスチャン、お前には真剣味が足りないんだ。お前はずっとふらふらしている。

 最高のダンス対決がはじまり、バチバチにキマった女性の皆さんが踊るわけですが、ダニー、突然スウェーデン語が話せるようになりました。よかったね。言葉が通じなくてもダンスで人はわかり合える。トランス状態が支配する空間で猛烈な共感の力が発揮された名シーンです。

 一方のクリスチャン、ホルガ村に伝わる薬物の数々によってたび重なる誘導をうけ、無抵抗のまま史上最悪の種付けセックスをしてしまう。元から主体性のなかったクリスチャンは、薬物によって完全に村のコントロール下に置かれてしまいましたね。その光景を覗いてしまい、ぶっ壊れるダニー。ところが村の女たちは大学生の皆さんとは違い、一緒に泣き、叫んでくれる。ダニーが本当に欲しかったものが最悪の過程で手に入り、本当に良かった。

 ペレがダニーに接近する仕方もこの「わかる、わかるよ」という共感一本勝負みたいなところがあり、ダニーの気持ちはどんどん大学の仲間たちから村の領域に移っていきます。イギリスのアベックが不穏な感じになった後の発言くらいから、もうその雰囲気は出ていましたが。

 こうして最後、ダンス大会を制したダニーは最後の生贄にゾンビ化しているクリスチャンを指定。史上最悪の着ぐるみに包まれて、先に死んでいた大学の仲間、生きている村の皆さんと一緒に暖かいひとときを過ごします。一方、ダニーは気持ちが通じ合える本物の家族を手に入れることができ、(おそらく)村で幸せに暮らしましたとさ。

 最後のダニーは気持ちいいほどの笑顔で、全体通じて本当に爽やかな鑑賞体験になりました。飲み物はMATCHとかが合うと思います。

ホルガ村はどこにあるのか・わたしたちはどこにいるべきか

 本筋以外をほとんどすっ飛ばして大体の流れを追ってみたのですが、ホルガ村というのはいったいなんなんでしょうね。単純に土着宗教的なカルトといういい方ができるのかは怪しい気がしています。文明の利器をきちんと使っている事や、聖典に進化的概念が含まれていることから考えて、アーミッシュのように敬虔な反科学主義的をやっている共同体ではなさそうです。もちろんきっちり伝統的な魔術の表現もありました(経血、陰毛……)。熊の解体の仕方を子供たちに教えるシーンが良すぎるんですよね、あれこそ古き良き伝統継承のスタイル。大きくなってあの子供たちが熊をバリバリ裂いていくと思うとワクワクします。

 単純な異界ではなく、日常的なものを前提とした祭り・ハレ・トランス状態の現出としてホルガ村はあります。とても感動したのは最後の儀式において生贄が村の内部・他所者どちらからも選出されるというところです。不勉強なので申し訳ないのですが、大体生贄って自分の所の共同体から出すだけか、さらってきた奴だけ生贄にするか、どっちかじゃないですか?(自分の所だけで生贄やり過ぎて生贄が足りなくなり、生贄用捕虜を求めて戦争マシーンになったアステカ文明みたいなのもあるが……)ホルガ村の生贄システムには共同体外部と内部の弁証法があり、そのようして世界の理は保たれ、村の神話は進化していく……

 指摘しておくべきは、村の人間たちが基本的に外部の人間と理性的な議論をする気がないということです。会話が上手くいっているように見えてもそれは村の理を固守するための嘘と虚飾にすぎません。クリスチャンの胤をゲットした女性は、ダニーによってクリスチャンに死が宣告されても痛くもかゆくもない風に見えます。彼女は誇らしげに他人とは別の服を着ており、村の理のうちに喜びを感じています。クリスチャンは村にとって純粋な儀式の構成要素としての他者であり、そのシークエンスが終わってしまえば用済みなのです。

 大学生コミュニティとホルガ村。前者は共感のモノマネを、後者は理性のモノマネをして自らのコミュニティを安寧のうちに保とうとしてきましたが、自分の所属するコミュニティに耐えられなくなったとき、人はどうなるのでしょうか。ミッドサマーでは共感優位コミュニティから脱出を志向する人間が出てこなかったですが、まあしょうがないですね。人々が切実に他者との共感を求めている昨今であり、またその共感が人心の荒廃を引き起こしている昨今なので、今更前近代から近代へ、みたいな流れになりそうな「ホルガ村いやだ脱出したい野郎」はいらない、という感じはあります。

 精神疾患の人間に対してロゴスができることは少ないような気がしています。実体験としても、精神科医やカウンセラーが役に立つことは少ないですしね(『資本主義リアリズム』でもありましたが、私は少なくとも一部の精神疾患に関しては社会構造の問題だと思います)。さんざん大学生コミュニティ側を理性のコミュニティとして語ってきましたが、その理性にしたって男性的なもので、性の領域に降りていけば剥き出しの欲望を誤魔化すためのお飾りのように使われる場面だって多いわけです(マークを見よ)。

 私は、勉強など自助努力が厳しそうなレベルで精神的に悩んでいる人の話を聞くとき、大体自分にあったまともそうな宗教を信仰することを勧めています。言葉にならない苦しみや、言葉にできるが、そうしてしまった瞬間に違うものに変わってしまう苦しみに寄りそうことは宗教の得意とするところです。ミッドサマーではその力が存分に発揮されましたが、ホルガ村というカルト的コミュニティが健全なものかについてはわかりません。多分ラストシーン以降のダニーに聞くだけでは駄目でしょう。

 しかし、ホルガ村に行かないとすれば、精神疾患の人間たちはいったいどこで生きていけるのでしょうか。この映画で恋愛がどうとか、家族がどうとかいうことは言えると思いますが、それは乱暴に言ってしまえば、映画館を出たあと、自分と大切な人への向き合い方を反省すれば良いことです。だが映画の序盤(私は電話を何度もかけるダニーのシーンが全編通して最もキツいと思います)で示されたダニーの苦しみを、反転する前の世界で癒すことはできなかったのか。この問題に答えを出すのは、そう簡単ではないように思えます。

 

延命に使わせていただきます