「問題の家族」 or 「家族問題」?

近年イギリスの社会学者、社会政策学者の対話が進んでいるテーマが一つある。わたしの研究(「親を亡くしたヤングアダルトの社会経済的影響」)の中でも「家族」とは何なのかという根本的な面を考えることが求められている。

より具体的にこれについて話すと、社会的に見て介入が必要な「問題の家族」という視点と「家族はそもそも問題を抱える源」(「家族問題」)という視点について、改めて議論と考察が行われている。グローバル化が進み、一つ国の中に多様な民族、文化をもつ人が暮らすようになったことや、家族の形態自体が多様性に富んでいる中で、「伝統的な良い家族」みたいなものは、もはやこれというものがない。

「健全/不健全」な、また「機能している/機能不全」家族といったもので二分されがちだったが、果たして、その線引き自体、どうやって決めるのか。社会のレベルで見たときと、個人で見たときと、同じ家族を見ても、異なる見え方がすることもある。

例えば「しつけ」と「虐待」の線引きは、誰が一体どうやって引くのか、ということが挙げられるだろう。わたしの大学院(修士)時代の同級生の中国から来ていた子は「叩かれて育ったけれど、それが当たり前だったし、愛情も感じていた」といっていた。でも、国が変われば、それこそ子どもに手をあげているのを発見されれば即通報のようなことになるところもあるだろう。その家族が「問題」と感じていなくても「問題の家族」と見なされ得る。

ある離婚家庭を「崩壊した家族」と解釈することもできれば、実は本人たちからすると「それぞれの選択だった」ともっとニュートラルに捉えていることもあるかもしれない。離婚したことで、得られたものもあるかもしれない。

英語の表現では「家族の崩壊」(breakdown of family)ではなく、良い面も悪い面も含められる「家族の変化」(change of family)という捉え方が生まれてきたことが書いてある (McCarthy et al, 2019)。

わたし個人の話をすれば、高校生や大学生のとき、比較的裕福な育ちの子が多い学校に行っていたからか、みんな余裕があって、家族も仲良さそうに見えた。自分のうちだけが「壊れている」と感じていたかもしれない。でも、大きくなってから、彼/彼女らと再会してそれぞれの家族の話を聞くと、それぞれに苦労があったり、困難があったりする。「なにもない」家族なんてそんなにないのだということを知った。一時点で見れば、幸せそうで、穏やかな家族であっても、長いスパンで見たときに、なにがしかあるのが、家族というものなのだということを30数年かけて知ったようである。そんなことは10代のわたしにはわからなかったが。

社会の中で、どの家族であっても、ある時点で「課題」を抱えたとき、重大な「変化」の局面にあったとき、その「課題」「変化」を誰がどう特定していくのか、どこまでを誰(どこ)がサポートするのがよいのか。考えるにはとても壮大なテーマだけれど、こういう本質的な問いを考えられること自体が研究の醍醐味なのだろう。


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