神と陰謀の分析論

わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。

ヨブ記1:21


 わたしは10年来「陰謀論的世界観」に住んできた。2022年7月8日の出来事はその転換点となったが、未だわたしの戦後レジームは決着をみていない。
 そこでわたしは、その心的構造を明らかにしようとつとめた。そうしたところ、これから書いていくような現象が明らかになったので、報告する。




「陰謀論的世界観」のあらまし

 2022年7月8日、その時わたしは新大塚の精神科への通院を終え大学に向かうべく丸ノ内線の車内に座っていた。そうしたところ、Twitter(現X)で

【NHKニュース速報 11:52】 安倍元首相 奈良市で血を流し倒れる 銃声のような音 男の身柄確保 警察

というニュースが飛び込んできた。わたしは「安倍」というものに実存的に多大な関心を寄せ続けていたので、非常な興奮をきたした。その後のこの事件の展開はご周知の通りである。

 2004年の7月、わたしは父方の祖母の家系の信仰する「生長の家」の練成会に泊まりがけで参加を強制されていた。練成会の結果、わたしと、わたしとともに参加させられた同年代の親戚一同は生長の家を非常に嫌悪することになったが、そうして帰宅すると、母親がいなくなっていた。
 2013年、自由な時間が存分に得られたわたしは、インターネットでリンクをつなぐようにして「陰謀論」を構築していった。別系統で進行していた戸塚ヨットスクールの戸塚宏への憎悪と、統一教会と清和会とその人脈のつながりというものが合流したものと記憶している。日本会議が生長の家に出自をもつことから、これが連合して実存的な陰謀論になったようである。日本で最初にフロイト著作集を出版したのが生長の家の機関である「日本教文社」であることから、精神分析およびフロイトへの憎悪も掻き立てられた。また同時に、日本会議系の高橋史朗の始めた「親学」の議連が発達障害を親の子育ての責任にしていたので、そうした言説への憎悪と、既に診断されていた発達障害へのさらなる愛着が形成された。わたしの現在の思考はこの時期に端を発しているが、述べたようにその原体験はさらに遡ったところにある。こうしたさいのわたしの「敵」たちのことを、わたしは「連中複合体」と命名した。長州も満州も、宗教右派も競艇も、すべては「連中複合体」だったのである。わたしは平岡公毅、すなわち三島由紀夫に自己を直観していた。森友学園の籠池も、山上徹也も、すべてわたしの問題であった。


野生の思考としての陰謀論と経験の反復

 前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。ずっと長い途を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画していた長篇のことを考え出した。それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。僕は火の粉の舞い上るのを見ながら、ふと宮城の前に或銅像を思い出した。この銅像は甲冑を着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上に跨っていた。しかし彼の敵だったのは、――
「嘘!」

芥川龍之介『歯車』より

 この「或銅像」とは楠木正成の銅像のことであるが、これが皇居前に設置されているのにはもちろん政治的な意図がある。ここで『歯車』の主人公は「嘘!」と叫ぶ。「陰謀論」は卑近な関係性と観念連合することがよくある。この事例もまたそうしたありふれた一例だと思われるし、わたしはそうした様子を「嫌儲」で何度も見てきた。そして、これは「陰謀論」だけに起こることではない。卑近な関係性と連合させて世界解釈をするのは「陰陽二元論」であれ「三位一体」であれ同じである。これは例えば、イデア化した「父」や「母」各々に情感を込めておいて、そこに情感に合う諸々の事物を繋いでいくことを基本としている。この思考様式がまさに「野生の思考」や「トーテミズム」に近似していることは看取されるところだろう。これが神話の基本形となる思考形態である。

 われわれは生きていて何度も同様の感情を反復しているが、それは決して感情に留まらないし、男女関係にも留まらない。経験は反復性であり、いわば人類大で経験を反復している。だから、父なるものを直観したとき父なるものに対する経験が反復され、母なるものを直観したときには母子関係を反復する。
 吉本隆明の著作に『母型論』というものがあるが、ここにヴィルヘルム・ライヒの議論が引用されている。ライヒに関しては『現代思想 総特集 ユング』で河合隼雄が評している文章があるが、それによれば、彼はユングに似て言語よりイメージを重視したタイプの分析家であったが、性の解放を主張したことで68年の革命運動で壁に名前を書きつけられるなどし、本人自身は「オルゴン・ボックス」なる似非科学的治療器具を販売したことにより投獄され、最終的には精神分裂病を患い獄死したそうである。ライヒの議論というのは、受胎後8か月から出生後1年の間には母子の「内コミュニケーション」が成立しているというものである。それを吉本は展開して、その期間、乳胎児は「妄想」や「作為体験」に開かれているということである。胎児に関してはやや説得力もあり、それによると、母親の感情がそのまま代謝に影響し、それが直接乳児の感情をも支配するからだという。この「退行=分裂」のモードは、「無意識の核」として人間に形成されているということである。だから、従前より述べているところの「グノーシス主義」の危険性はこのことに由来しているという理解が成立する。すなわち、「一者」への「還帰」によって「退行=分裂」の相即関係が再起動してしまうのである。そのような看取をすると、人間の心は思われているよりも圧倒的に単純であることがわかる。割合なけなしのモードを活用して生存活動を展開しているのである。吉本隆明は明確にユングや芥川を事例として取り上げるが、事の次第としては、すなわち万人に妥当する話だったのである。このことから、ユダヤ-キリスト教徒が言うような、「肉の父」ではなく「天の父」に還るという話が了解されると思う。だからそれは、どのような肉の父のもとに育ったからといって、社会的存在としては「天の父」のもとの経験のモードを生きるということを意味していたのである。それが「大文字の他者」である。「父」とは、「言語」の領域であり、すなわち項としての「社会」の経験なのである。だから、一般論としては、「社会が怖い」とき、強いて名前をあてがうならば「父」が怖いのである。これにより、「こんなSNS抜け出して 二人で海を見に行くぞ」などという感度で捉えられるところ、または共同幻想からの逃走は、「父」のモードからの逃走であることが察知された。「言語を信用しない」ということ、「社会を敵視する」ということは、同一の畏怖に由来するものであろう。我々は皆、一度は分裂していた。しかし、第三項、すなわち父の介在が、我々をあの対幻想の甘美から切断した。切断はその程度によって、またその子の気質によって、分離不安として刻印される。経験は反復する。こうしたデカップリングは人生で何度も繰り返される。対幻想に希望を見た人々は畏怖の感情をよく知っていた。天照親方日の丸が死に絶えた今、社会はしだいに「他者」の所有するものとなってきた。それにより「他者」の言語を使用する頻度は格段に増した。このような社会を招いたのは確かに「連中」かもしれない。しかし「連中」の正体とはなんだろうか?わたしたちは「連中」の正体を掴む作業に入らなければならなくなった。


父たる連中の現象論、そして神

 わたしはこの文章を書いていて、気分が悪くなってきた。というよりも、明らかに「父」への憎悪を反復している。連中複合体が、父と連合しているのである。わたしにおいて、儒教、明治、野球、プロテスタント…、こうしたものはすべて父の現象として起動するようだ。
 吉本隆明が『共同幻想論』で書いたところによると、例えばオイディプス王のような自己聖化は、すなわち自己を父とすることは、神経症をきたすものである。これには非常に納得のいく説明を与えることができる。フロイトはその議論で「内面の攻撃性」ということを論じたが、これは、外への攻撃性が内面に向かうことで人は神経症になるというものである。これは哲学においても一般においても「反省」と呼ばれる事態でもある。だから問題は、「自責か他責か」ではなく、そのモードそのものを組み替えることなのだが、それは手に余るので本稿では置いておく。だから問題は「父殺し」というよりも、自分自身が父になってしまうことだったのだ。父になった<わたし>は次に<わたし>に父への憎悪を向けるようになる。それに耐えられなくなった人は、次にノイローゼになるか、妻子を攻撃するようになるかである。そこで人々は発案する。わたしたちの10年代において、我々は「安倍」を考案した。先祖が長州と巣鴨プリズンに出自を持ち、清和会であり、日本会議と関係の深かった「安倍」がわたしたちの「父」であったのではなかっただろうか。この「陰謀論的世界観」は、すなわち山上徹也の代理殺害に至るまで、我々のひめやかな共通事項だったのである。
 そのことがどこまで共通性を持っていたのかは措くとしても、既成左翼も「戦争法案」や「モリカケサクラ」などで「アベ」に全ての責任を負わせていた。衆愚的な人々にとって安倍晋三が「日本のお父さん」であったならば、既成左翼にとっても我々にとっても安倍晋三は「父」であった。彼はすなわち、全国民にとっての「父」であった。或いは少なくともわたしにとっては既成左翼よりも「安倍」の現実性は少なかったものの、少なくとも彼は「父の顔」ではあったようだ。
 ところで言うまでもなく、「父」はキリスト教圏においては「父なる神」の表象があるように、「神」のイメージと二重化される。しかし、神亡き現代において、また悪魔も狐もない現代において、その代わりに「親」或いは「毒親」が登場したと考えては、どうか。また他にも、より大きく見れば「国家」や「共同幻想」にすり替わった。これもまた、昨今の共同親権論争のように、「親」の問題が「国家」の問題と二重化されている。従来より「父」の制定した「父」中心の<法>は世界各地にみられるが、こんにち、むしろ多くみられるのは「子ども」中心の法と社会規範である。近代において、青年たちの革命は終わっておらず、未だ革命は200年にわたって継続中なのだと考えてみるとどうか。すなわち、「左翼」とは将来の革命を志向する存在ではなく、現に革命闘争を継続中の勢力だったのではないか。
 ともかくとして、現実を見渡すと数多の「肉の父」はしばしば「父なるもの」を攻撃しているものである。すなわち、我々の肉の父は「父」に攻撃性を向けることで精神を保っている節はないだろうか。
 すなわち、現代の科学、または「心の科学」は、例えばかつて「狐憑き」などで狐に病理の条理を負わせていたものを、人に向けかえた。また、政治的言説は、「天」を「人間(じんかん)」に引き降ろした。これが「世俗化」とよばれる事態である。すなわち、かつては、共同性の秩序維持のために一切の「責任」を「外部委託」していた。キリスト教も、たとえ「それぞれの十字架を負うて来い」と言っても、アダムが侵犯の責任を引き受けるべきだと説教しても、最終的には「蛇」や「サタン」や「神」がそれを引き受けていたのである。こんにちでは、それが「陰謀論」に成り代わったのである。「陰謀論」とは、一切の不条理の受け容れ先である。情態性は世界と言う現実性として立ち現れるからである。だから、以下のことが結論する。神とは畢竟、構造的不条理の擬人化である。同じことだが、連中複合体とは、統合機能である。だから、統合機能を欠いた社会、或いは非社会は、退行のなかでの至福を満たさなければならない。しかし、わたしたちはそうではなくて、より良き父を求めることができるのである。


おわりに

 わたしたちは今後、自分が父となる男の話だけではなく、母となった女が「退行=分裂」のモードを再起動しないための方策も考えなければならないようだ。エディプス化が神経症をもたらすように、女性の母性化が分裂病をもたらすこともあると考えてはどうか。今後の考察の展開が求められている。

2024年4月9日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?