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母性の精神分析~家族像のローカリズムと吉本隆明の着眼点~

 しばらく前の講義で河本英夫教授に「(お前は)対象aわかるか?」と聞かれ、躊躇した末に「わかりませんね」と答えたところ、「わからない?なんか見えないようにしてんね」と笑いながら言われたが、これがなにか事態を端的に表しているように思えるのである。
 というのは、多くの人は言語構造(ネットワーク)の方の秩序で精神を安定化させているが、どうやら私は対象aで安定化させているそうである。だから、授業では、他の人への配慮からあまり深いことまでは言えないと言っていた。ジャック・ラカンの議論では、神経症圏の人間においては対象aは隠蔽されており、精神病圏の人間においては対象aは実体化されているのである。対象aの実体化とは、極端な事例だと幻聴などになる。例えば私が部屋で怯えて過ごしていた時に、いつもなにやら「たけちゃーん」などと死んだ母親から呼ばれているようなその感覚がそれである。
 そういえばこの教授、「トップダウン型は全部神経症だから」と言い、ともかく神経症を嫌悪している傾向があるのだが、まさに、例えば『共同幻想論』やフランス現代思想などを引用するまでもなく、トップダウン型とは伝統的な言い方でわかりやすく言えば「父権主義」「家父長制」のことである。
 読者の方にイメージしてほしい。まず、母親の顔、次にそこから目以外を消す。次に目から視線以外を消す。…それが「まなざし」です。(河本英夫の授業より)

 こういう話もある。私の友人がフランス語の単語帳の例文に掲載されていたという「無意識は言語によって構造化されている」という一文を紹介してきた。こうした例文があったほうが覚えるでしょう、ということである。しかし私はその内容がピンと来なかったため、話をしたところ、全く話が噛み合わなかった。本当に、私にはその、象徴界の言語構造の議論が実感としてわからないのである。これは私が考えるに、実際に、私の象徴界の事実としてはそうなのだろうと思う。すなわち、象徴界の言語構造が、「常識」の概念の枠組みでかっちりと構造化されているのは、精神分析家のジャック・ラカンの用法で言うところの「神経症」圏の人間の話だと思うのである。

感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない

宮澤賢治『春と修羅』より

 すなわち、概念化や概念の枠組みで「理」の秩序を固定してしまうことは、非常に神経症的な営みであるが、それは賢治に言わせれば「きちがひにならないため」なのである。

 ラカンの理論では、人間に自明に健康な「健常者」はおらず、全ての人は「神経症」「精神病」「倒錯者」などに分類される。そして、大半の人は神経症であり、強いて健康ということを言えば、「症状の発現していない神経症者」ということになる。要するに、「父」の審級の受容や、日本文化的には社会適応をしっかりした人、或いは東アジアの儒教的には文献の規範を内面化した人、こうした人たちが「現実」的に「父」の禁止を内面化しており、健康であるということになろうと思う。この問題はフロイト-ラカン路線で最重要の議論である「エディプス・コンプレックス」に関わっている。

 私は、中学生の頃は非常に原理と言語論理のこだわりの強い人間だったので、つねに根拠とそこからのトップダウン=演繹型の合理性を信じてやまなかった。しかし、2013年の10月だったと、恐らくはっきりと指定できるが、その頃に、根拠の根拠、定義の定義の問題に行き当たり、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」の問題を言い出し、その直後に「世界は水溜まりのようなもの」「すべてはすべて」という「無分別智の悟り」に至ったと直観した。振り返るとそこから私の内的秩序は一挙に崩壊していった。まず、それまで観ていたアニメがほとんど視聴できなくなった。集中力が持たないのである。そして、毎日数記事更新していたアフィリエイトブログの更新が途絶えた。しっかりと保てなくなったのである。そうしていたところ偶々11月に入ると長らく別居していた母が病気を得たことで帰って来たのだが、その際にを連れてきて私に押し付けるかたちになった。そういえばその前の段階で、まだ私が演繹型のこだわりに生きていた頃、母親と話していて、私が論証的なことが正しさだと言っていたようなところ、母親が否定してきたので、では、母親にとっては何が正しさなのかを聞いたところ、「直観!」と帰ってきたのである。
 ユング心理学とラカンを齧った今となってはこの事態がわかる。「無分別智の悟り」という体験は悟りでもなんでもなく、或いは悟りとは、一つの遷移体験である、ということである。

直観(ちょっかん、英語: intuition)とは、知識の持ち主が熟知している知の領域で持つ、推論、類推など論理操作を差し挾まない直接的かつ即時的な認識の形式である。
なお、日本語の直観(ちょっかん)は、仏教用語のप्रज्ञा(プラジュニャー、般若)の訳語の一つである直観智に由来する。直観智は分析的な理解である分別智に対する直接的かつ本質的な理解を指し、無分別智とも呼ばれる。また、整理整頓などでも洞察力や判断力よりも直観を必要とされることが多い。

Wikipedia 直観 より


 恐らく、精神分析的家庭というものがあり、それは日本ではそんなに多数派ではないということは掴めている。フロイトやユングの家庭というものは、そんなに多くみられない。むしろ、ドラえもんやクレヨンしんちゃんのような家庭像がこんにちでは一般的だろうと思う。周囲を見ていても思う。だから、ユングやフロイトが切実なのは、まさにフロイト的な家庭であったり、ユングの母親であったりというものが、それとしてわかる人たちではないだろうか。
 評論家の吉本隆明の『書物の解体学』では、バタイユやジャン・ジュネと並んで最後にユングを評論しているが、吉本はある時期から異様にユングにこだわりを持っていたことが観測できる。基本的に『共同幻想論』の中でも芥川龍之介の死についての議論を展開したり、さらに「対幻想論」や「母制論」で「母」ということにこだわった人だから、生涯をつうじて吉本が何にひっかかっていたのかは察しがついている。この点でまだ私が未読なもので読まねばならないと思っているのは『母型論』という著作である。どういう正体不明の現実性からくるものなのかはわからないが、吉本はこの著作で統合失調症の原因に関する持論を展開しているようである。

 しかし吉本は『共同幻想論』の中で、必ずしも「憑かれ」やすい人が女性とは限らない、もし俗説が事実であれば精神病院は女性で溢れかえっている、と言っている。どうか。吉本隆明はオウム事件の際、麻原を宗教家としては絶対に認めると言って騒動になった。オウムの信者たちに話を伺ったチベット密教研究者によれば、信者は一様に「麻原はお母さんみたいな人だった」と言うということである。麻原の宗教的病理は、確かに男性宗教家のそれというよりもむしろ幕末明治期に頻出した女宗教家のそれに近いと思う。

 68年の革命には明らかに父殺しの情感があったのだから、思想的な反父権闘争に向かったのも事実であろう。常に別様の可能性を考えることが、或いはそれは『現代思想』誌の情緒だったのかもしれない。だから、「従来の作法や文明に抗っているあなたの姿を思い連ねた」ということなのである。

2024年2月7日


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