生長する生命との和解

 風が吹き抜ける音にあなたの活動を感じる。
 「行く人よ、我は汝と語らう。」
 そっと鳴くひぐらしに夏の足音を感じる。

 消えていった投稿者の創り出した音色がまた今夜の私を包む。去っていった肉親の声がまた虚空に漂う私に呼びかける。歴史が私の左にではなく足元に累積する。愛はそんなところにある。最低最悪の親との和解は、そのまま親を通じて繋がっている人類と自然の全体との和解である。お父さん、あなたは悲しい男だ。私はあなたの弱さ故の罪業を、ただあなたの弱さ故に水平的に赦します。父よあなたは弱かった。母よあなたは弱かった。みんな自然共同体の中で罪のない弱さを抱えている。弱さは罪を産むが、弱さそれ自体はなんら罪ではない。あなたがいくら上から目線でも、世にどのような言説が流布していようと、私はあなたを共に汗を垂らす里の人として、仲間として、ここにはじめてそのように関係を結びます。ただオンリースカイの能天気に呆ける大地の乳飲み子としてあらゆる活動態を愛する。それはともに支え合う、人という字のように支え合う頼母子講のように慈悲する。オンリースカイの天上に理想を追求することはもうしまい。ただ否応のない現実にそのまま関わる。ここにおいてはじめて隣人でも他者でもない新しい紐帯、すなわち共人が成立する。ブッダもイエスもいい友達だ、よく知ってる。私があなたと呼びたい全てのみんなへの野暮ったい人情としての愛において、我あなたを欲すと言う。野暮ったい人情としての愛は、ただ一緒に、むしろ無駄な時間を過ごすことを求める。なぜなら、天上の理想にアレテイアーを見ているのではなく、ただあなたの個体的本質にこそアレテイアーを見ているから。ここにおいて私にとっての真理は、私とあなたの関係においてのあなたにこそある。ああ、あなたの剝き出しの神経活動に触れたい、あなたの熱唱を聴きたい。私はあなたを、その時において最も固有な名前で呼びたい。親からみた子供たちと、子供からみた親は絶対的に不均衡である。お父さんは俺のことをたけしと呼ぶが、俺にとってお父さんはお父さんである。またお母さんにとって俺はたけちゃんだったが、俺にとってお母さんはお母さんである。絶対的に異質なものの連動として誰しも生まれた。視点をお父さんに取れば彼においての俺はたかしである。お母さんにおいてのあたしはさとみである。これこそが脱中心化である。モナドロジー的鏡像的。
 先に和解と言ったが、別にごっつんこして仲直りしなくてもいい。なにも虐待親父を介護しろなどと言っているのではない。また、ナチスのユダヤ人差別の如くナチュラルに出自で区別をするような底意地の悪い人間と永劫友達であれと言っているわけでもない。今やりたいことに夢中になって、没入して、そして我も時間も忘れるようにして生活していれば、安定を求めるあまり肝心なことをしないで死んでいくというような喜劇にもならない冗談でしまいになることはない。人をあなたとすることの眼目は、通常人が固定的秩序でも逸脱でもない半端にゆらいでいる活動態であるというところにある。めったに割れないビーカーの中で結晶が析出してくるようなものである。割れる逸脱を最近では「発生」と言うらしいが、発生はたまに欲しいがたまにでいい。いつも割れていると幸福と健康が遠のく。無くても同様。ところでその点、空中で手に持った球を離すと落ちる並の必然性をそなえた事象はあまりにも固定的秩序でありすぎてつまらない。逆にあまりにも理解不能な動きをする生物は、想像するだけでも恐怖であるほどに気味が悪い。心理学的にも、適度な確率性における快楽刺激がむしろ確実なそれよりも依存性を増すようだ。「生命」という語で喚起されるイメージを考えてもらいたい。恐らく、先に述べたそのあまりにも理解不能な動きをする生物とやらのことを「生命」とは、あまり言わないと思う。逆に、秩序を知り尽くしてしまい制御のしかたを弁えてしまった対象のことも、「生命」とは言わないはずだ。ある方向に生長していくが、具体的にどう咲くかわからない花、いつも好き勝手に泳いでいるが、ある場所がお気に入りの金魚、よく話は通じるが、しばしば意に適わない自然、期待を裏切りもするが、それでも回り続ける自己、そんなものたちを、私たちは「生命」と呼ばないだろうか。
 出会いと別れの宙吊りにある生命は、いつもせめて仲良くすることでかろうじてコミュニケイトを可能とするのではないだろうか。


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