都市という経験~狭さと受肉のリアリティ~

 私が東京都文京区に引っ越したのは2022年9月のことなので、それからはや1年半になる。その間に、私の現実性は佐賀県唐津市を離れ、徐々に、或いは急速に、都市化していったと思う。今回はその過程で得た「都市経験」について、実感と観測から書けることを書こうと思う。


人と倫理と聴覚経験

 人口が密集すると「倫理」が生起する。これは私の言葉ではなく、哲学者河本英夫の受け売りであるが、言い得て妙であろうと思う。東京に住むとわかるが、地方とは違い、部屋にいても外にいてもつねに「人」を感じなければならない。どこにいても「人」なのである。これがいわゆる「都会に疲れた」という感覚の由来となる。実際に、現代のみならず、そもそも古代ギリシアのポリスの集住をはじめ、中国の春秋戦国時代やインドの都市国家時代など、そうしたところに生起するのが倫理であるから、表象として古代ギリシアのファランクスと対応付けるのは妥当だと思われる。
 部屋にいても、つねに同居者や隣人への気遣い、外からは都市の音、外に出ると、人がいるのである。こうしたところから生起した議論に「まなざし」論があろうかと考えられる。例えば、統合失調症の症状に「被注察感」というものがあるが、これは「外に出ると周囲にじろじろ見られる」という感覚となって立ち現れる症状である。猫などをイメージしてもらうとよいが、動物にとって「視線」は生存上決定的な重要さをもつ。肉食動物の顔面に貼り付いた眼は、草食動物に、または同種の他の雄に向けられる。ラカンの「対象a」にも数えられている「まなざし」の原点は、生やさしい母性の以前に、そうした性と死の「現実的なもの」だったようである。こうしたところから、都市ではつねに「まなざし」の利用と無化が間断なく行われる。ところで、「まなざし」は共同性に関わる社会的な機能を含意しうることに注意されたい。
 養老孟司の『唯脳論』では、都市空間は、道路や建物から街路樹、部屋の内部に至るまで全て「脳の産物」であると、脳によって配置されていると説かれている。これは妥当な議論だと思うが、かえって人間にあっては不規則なものこそ現実性が高まるものなのであって、都市空間において不規則なものとはすなわち日常卑近な意味での「他者」である。不規則なものの現実性に関しては、例えば、絶対に勝つゲームや絶対に当たるパチンコは面白いかということを考えてみるとよい。こと行為に関しては、実際に人はそのような不規則性によってこそ依存もするらしい。(「父なる神」の性格を参照せよ。)

 さて、田舎においては取り巻く自然が日々不規則なのだが、たとえば都市人の現実性は空を見上げさせない。都市人にあって、最大のリアリティは内輪の人間の感情の機微である。そこの現実性が増すということは、すなわちそこにゲートが開かれておりそこに対して敏感になっているということである。

さて、居住地と精神疾患は関連するのだろうか。都市に住む人ではうつ病や不安障害のリスクが上昇しており、統合失調症の罹患率も都市で生まれ育った人では非常に高いことが報告されている。どうやら、精神疾患は都会生活と関連しそうである。
都市で育つことによる脳への影響を調べたドイツのユニークな研究がある。 
実験参加者が、fMRIと呼ばれる脳スキャナ内で認知課題(時間的制約の中で計算問題を解く)を行った後、ヘッドフォンを通じて否定的フィードバックを受けるというものだ。そこでは、実験前後の主観的ストレスレベル・唾液コルチゾール・心拍・血圧を計測した。参加者は、現在もしくは過去の居住地がCity(人口10万人以上)、Town(人口1万人以上)、Rural(それ以下の農村など)のいずれかで分類された。

すると面白いことが分かった。まず、現在住んでいる都市の大きさは扁桃体の活動と関連し、活動はCity → Town → Ruralの順に活発だった。ちなみに扁桃体はストレスや恐怖などネガティブな情動の処理に深くかかわる脳部位である。

また、都会での生い立ちは、社会的認知にかかわるといわれる膝周囲部前帯状皮質(pACC)の活動と関連し、pACCの活動と都会での生い立ちの度合いは明確な線形相関を示した。一方で、ストレスがかからない課題時にはこのような違いは見られなかった。つまり、都市での生育経験・現居住はストレスに対しての脳の応答性を変えることが分かったのだ。

ちなみに、都会で育つとpACC、扁桃体間の機能的結合が低下することも分かったが、これは精神疾患のリスクとして知れている脳の情報処理の特徴である。この実験では、都市生活経験以外にも、健康状態・心的状態・年齢・教育・収入なども調べたが、それらの要素はこうした脳の反応の違いに影響しないことがわかった。

https://www.nttdata-strategy.com/knowledge/infofuture/70/report10/

 ここで先程の養老孟司の『唯脳論』を参考に出すと、そこでは現代の都市社会が「脳化=社会」、すなわち全てが脳により配置された脳の産物であるという議論になっている。建築や部屋の中までを含み、街路樹や公園もそうであるように、すなわちそこには基本的に、技術上の、ではなく、もっとひろやかな意味での自然な「遊び」が存在しない。だから「遊び」は外部の自然には求めようもなく、人心の「内部」に確保せざるを得なくなる。この、「鷹揚さ」のような、「他者」のための「隙間」として生起するような倫理は、都市的な作法として適合的である。前近代においてそうした類型の「倫理」が求められた空間と言えば決まって王朝や幕府などの人口が密集する場所である。或いは、「修行」という名目とは関係なく、不要なトラブルを避けるためにこそ、禅寺ではあらゆる事柄において極力「”音”を立ててはならない」という「教訓」になっていたのかもしれない。
 田舎でも最近では、ともすればネットに窮屈な居場所を作ってそこで青年期の育ちを経験するような人が増えてきているので一概に言いづらくなってきているが、敢えて古い粗略化を使って「都市/田舎」の区分で言えば、かつて田舎の方々が感じた都市人の「冷たさ」の正体は、この「隙間」に隔てられているという事態ではなかったかと考えられる。
 都市の聴覚経験としては、だから好きなだけ音楽をかけるようなものではなく、部屋の中にいても同居人や隣人に気を遣うような、ウォークマンや、現在だとパソコンやスマホにイヤホンを接続するような聴取のしかたが基本となる。地方の公立中学校にいた頃、同級生に「ウォークマン中毒」や「ガム中毒」が何人もいたことを思い出す。
 だから、最も典型的な近代的空間とは学校であり、それも公教育である。あの、教室と時間割に示される配置型のカント的時空間を想起されればよいし、だいたいクラスの黒板の上や横には「反省」などという標語が掲げられているものである。あれほどまでに人口を密集させて、「道徳」ごときで社会からいじめをなくそうとしてもむだというものである。だから求められるのはこんにちにおいても列島の改造であり、また学校の改造である。断じて、「倫理が主、人間があと」ということにはならず、むしろ「環境」が人間や倫理を規定するのである。

受肉都市論…予定社会、或いは言語的経験

 都市が「脳化=社会」というのも、まだ粗雑に過ぎる議論である。実際には脳にも相矛盾する多岐にわたるモードがある。そのなかでどのようなモードを取り出して環境デザインをするのかにこんにちの焦点があるのであるが、都市とは概して「受肉」である。すなわち、中世ヨーロッパの円形都市や、東アジアの城郭都市のように、観念的なものの「受肉」がそのまま都市になっている。同時に、広場や内裏など、言語的な支配が中心を占めるといった事態である。その観点から見ると、京都から江戸=東京への遷都は、きわめて象徴的な操作として有効だったと言わねばなるまい。日本の大都市で、東京ほど「円形」になっているところはないだろう。しかし、戦後の「東京の中心」は、いわば、ロラン・バルト『表徴の帝国』で論じているように、「空虚」である。

だがまた、いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上学の歩みそのものに適応して、わたしたちの都市の中心はつねに《充実》している。文明の価値のもろもろ、つまり精神性(教会が代表)、権力性(官庁が代表)、金銭性(銀行が代表)、商業性(デパートが代表)、言語性(カッフェと遊歩道をもつ広場が代表)、これらが集合し凝縮しているのは、まさにこの特別な場所においてである。中心へゆくこと、それは社会の《真理》に出会うことである。それは、《現実》のみごとな充実に参加することである。
 わたしたちの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は、中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。

ロラン・バルト『表徴の帝国』より

 すなわち、「真理」であり「現実」でもある場が、西欧の円形都市には中心として存在するのである。しかもそれは西欧形而上学の受肉として。
 そうした都市の一方で、田舎に「受肉」の気配は見られず、往々にして「遊び」の領域が広範に広がっているものではなかろうか。或いは、「都市」と非対称的なことに、「田舎」にはそもそも「空間性」がないと言ってもよいのではないかと思う。都市空間とは言っても、田舎空間とは言わない。
 前近代にあっては、世界のどこでも、農村を主として、「都市の空気は自由にする」という事態が成立していたように、都市は圧倒的な農村という現実に囲まれた理念的なものであったが、こんにち、かえって生活と生産のアクチュアルな機能こそ都市にあり、農村や集落こそがどこかユートピアじみたものとしてまなざしを注がれているのである。

 さて、予定予約という規範は元来自明なものではなかった。そもそも、従来は時計がなかったのだから当然である。しかしこんにち、日本ではますます予約文化が浸透し、通勤通学する人々は何時何分のどの電車にどのドアから乗るのかまでほぼ決定して生活している。これほどまでに精確に動く都市はない。「中国は街全体が多動的」という話があるが、聞き及ぶところの海外はたいていがそのようなものである。ところで、意識の出現と時計が連動しているという議論は、哲学的社会学系の言説あたりにいかにもありそうな議論であるが、これは実際には、数多の物とのフィードバックで成立している事態ではあると思う。すなわち、意識はとうの昔から出現しているであろうが、意識的に物事を認識することが要請される社会では、腹時計や曖昧な時間感覚ではダメで、明確に今がいつなのかを知るために時計を”意識的に”確認する。そうすることで意識的認識という「認識行為」へとフィードバックされ再強化される。それがまた時間の曖昧さを許さなくする。これが一つの自己形成でもあると思われる。近年ではスマホの普及によりいつでもデジタルの、○○:○○というかたちでのかっちりとした時間が意識されるようになり、時間意識の変化も進んだのではないか。恐らく、待ち合わせの時間などを伝達する際に、伝え方が変わっているはずである。このように徹底的に無駄を排除することが受肉社会の基本形となる。こうした事態がすなわち「合理性」と呼ばれるものである。だから、私が思うにそもそも「西洋だけがなぜ合理的な社会を生み出したか」などという問いは、そもそも筋違いの疑問だったのである。なぜなら、そのような狭隘でローカルな事態を「合理性」と呼んだまでの事だったのだから、である。自己意識、或いは自己反省が「自律(オートノミー)」の立脚点であるとすれば、まさに「近代」化、或いは「都市化」は神経症的ディシプリンに規定された時代を告げるものである。合理主義や超越論哲学のみならず、「社会(科)学」や「進化論」、「精神分析」は、その立脚するところが基本的にこの構造をもっている。もちろん、諸学が時代を形成したのではなく、時代が諸学を形成したのでもない。諸々の構成素が時代の経験と円環関係を取り結んだまでである。実際に、社会学者や精神分析を必要とする者の概して都市人であるさまを考えみるとよい。
 そうした事態に対してドゥルーズ&ガタリは「資本主義と分裂症」と題して「スキゾ」や「ノマド」の称揚を遂行したが、妥当性を有する議論だったのだろうか。重要なことは、あくまでも「学問という現実性」自体はローカルなもので、それをなにか世界と勘違いしてはいけない。「世界は広い」とは、なにもアフリカに行くということではなく、隣人の趣味も知らない狭隘さを言うのではないか。

 言語的反省はそうしたローカルな「合理主義」の基本であるが、基本的に自意識のフィードバックが起きると自意識は当然肥え太る。それはドストエフスキーの書いた小説がどれもこれも自意識の問題に彩られており、『地下室の手記』などに典型がみられるような事態を想起してもらえばよい。これが自己を聖化することの病理であり、場合によっては醜形恐怖や神経症をもたらす。そこで、およそ病理に対する最もうまい方策の定式化としては、「何かについて常態的にフィードバックさせない」ということであり、その伝統的なやり方が「信仰」、すなわちキリスト教の十字架という縦木と横木に示される神とコミュニティとの交わりや、寺社の講中に示されるものであった。だから、精神的な事態に対して「ノルアドレナリン」や「ドーパミン」の過剰分泌というだけでは明らかに思考のモードが不足している。薬物での対症療法はしてしかるべきだが、長期的に見れば根本治療を、より厳密には、より息の長い対症をしなければならない。心的構造も諸行為の変数も一時的なものだから、それは厳密には「根本」治療とはならない。同時に、可変的であるという余地を残しておくことが生き方の幅をうまく持たせ、人を運命論者に追い込まない。とはいえそもそも発達に困った人々は、その点に関しては現段階では受容的になるほかないとは思うし、それはより身体性の強い問題である。そうした点に着目すると、心とは可塑性の別名であり、身体とは訂正不可能性の別名である。極限に可塑的であるものには形がない。「定型」とは社会的に安定した身体である。そこで、可塑的だから「自由」だと考えてはならない。可塑的であることは「自在」ではあるが、かえってそうであるからこそ速攻で「朱に交われば赤くなる」のである。赤くならないということは意志の強さやかたくなさではなく何か他の要因を疑った方がいい。或いは、例えば毎日まとまった時間を決めて『聖書』に触れている人は、そうした『聖書』を通じた「神の言葉」とのカップリングによって「かたくな」さが出現しているというのが事の真相であろうと思う。だから、ゲットーのような排除は順接的に信仰の持続をもたらすものである。

 こうした議論を展開したのも無駄というものではない。このような事態はあるものの、道路や街路樹、建築物といった構造物に支配された受肉都市は、家などを想定してもらえば確かに予め計画的に設計されているが、いざひとたび「受肉」し身体化すると訂正不可能性が極端に増すのであるが、それは当然の成り行きである。とはいえふた昔前の脱構築主義建築がうまくいったというような話を聞いたためしが私にはない。やはりこんにちにおいても都市的な建築といえば四角四面のオフィスや住宅である。すなわち、毎日変わらないことに利点があるというような、常同的なフィードバックを継起的に継続させるような環境に身を置いているのだから、精神を病むのもまた事の成り行きとして当然である。或いは環境と言うよりも、例えば花巻の宮沢賢治の作品には「風」が吹くように、逆に、都市人には風が吹かない。交歓がないということは、すなわちゲートが開かれていないということであり、現実性の強度が低いのである。だから例えば「観光」は仮初めであり、観光は交歓をもたらさないということは言えるだろうと思う。その点で、都市人に頗る相性がよいのが、財布を持って散歩に出かけることである。基本的に人やモノにはゲートが開かれているので、モードの転換にちょうどよいのである。

アポロン的な文京区、ディオニュソス的な中央線

この中で特徴的なのは、都内で朝日新聞がトップとなっている13市区だ。23区内では文京区・中野区・世田谷区・杉並区の4区、市では武蔵野市・三鷹市・狛江市・小金井市・多摩市・稲城市・国立市・西東京市・国分寺市の9市が該当するが、実にその約6割となる8市区(中野区・杉並区・武蔵野市・三鷹市・西東京市・小金井市・国分寺市・国立市)がJR中央線の沿線なのだ。

https://toyokeizai.net/articles/-/140249

 この記事に表れているように、高学歴の多い地帯において、恐らく戦後リベラルの地帯において、朝日新聞は強く、特徴的な地区が文京区中央線沿線である。私が文京区に住んでいることから経験的にわかることとして、確かに経済より文化であることは明らかだが、同時に明らかに「中央線的経験」と「文京区経験」は質を異にしている。中央線沿線では、三鷹や高円寺に行ったことがあるが、あちらは明らかに、新宿文化が西に延長されたものである。それでも新宿とはやや異なるサブカル文化であり、典型的な事例を析出するなれば高円寺の文化人体質や三鷹の太宰治や中野の大槻ケンヂになろうかと思う。対して文京区は、街並みや、私が通っている教会の経験の印象からいうなれば、例えば文化資本においてカンディンスキーやバッハやカフカを好んでいそうな層が多いということは言えると思う。もちろんキリスト教バイアスは差し引かねば精確にはならないが。上野に通いやすいということは重要な意味をもつだろう。なお、かつては、今の森鴎外記念館のある千駄木あたりに文化人が集中していたらしいし、実際に数多くの文筆家がそのあたりに居を構えていたのであるが、大半は空襲ののち中央線沿線に大移動したようである。
 ちなみに私なりに「文京」を解題しておくと、由来のさらに由来にあたるものは湯島であろうと思う。湯島から北に延びる地帯に、例えば本郷などに学生を集めたので、結果的に知識人も居着いたのだろう。余談を言うと、封建道徳と当の知識人たちの思想は実は概して相性がよい。文京区では日共すなわち共産党が強いのであるが、中央線沿線では杉並などに顕著にみられるように、野党系か、さもなくば新左翼が議員になれるという事実があるのである。
 そうした現実性から私は、文京区をアポロン的、中央線沿線をディオニュソス的と解釈するのであるが、これは「理解」というよりも「了解」されるか否かのことなので、されなければ、そこまでである。

 さて、ここにはある種の問題提起ばかりを連ねたが、実際には相当な課題に開かれているのであり、事はそう単純に解決するものではない。或いはこれほどまで構築の進展したこんにちにあっては、「解決」という構想自体を捨てなければならない局面なのかもしれない。

2024年3月11日


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