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「人生」を考える

 と言っても、「人生」とは何かがわかっていなければ「人生」を考えることはできない。考えたい事がわかっていなければ考えることができません。
 考えたい対象、この場合「人生」と聞いて何をイメージするか、「人生」から何を連想するかによって、「人生」をどう捉えるかが変わります。
 つまり、「人生」が変わります。

 私達は「人生」と、この「人生」のなかで度々たびたび口にしますが、その口にしている「人生」とは何だと、その「人生」の何をわかって、「人生」を過ごしているのでしょうか。
 それがわからない、まだわかっていないからこそ、過ごしながら理解を進めているんだという向きもあるとは思いますが、どちらにせよ、もう既にある「人生」について考えがまとまっていないのにもかかわらず、そのわからない「人生」を過ごしてはいるというある種の矛盾、不可解な状況が常にあります。

 言葉としての「人生」は万人に共通ではあるものの、「人生」と言って・聞いて何を想定するのか、「人生」とは何だと認識しているのかによって、私達の「人生」についての捉え方と考え方、そして考えが分岐します。が、しかしそうではない、万人にとっての普遍性が確実にあります。

 一つに、「人生」と聞いて日々の「生活」のどうのこうのを思い浮かべることがあるでしょう。つまり食べる寝る等「生存」するための、すなわち日々の雑事や活動などを指す「生きる」に関わるあれこれです。
 私達は人間として存在しているのですから、それは確かにそうでしょう。ですが、それは「人生」の一面にすぎず、万人に共通することはこれだけではありません。もし「人生」イコール「生きる」というふうに捉えているのだとしたら、「人生」について考えるには外すことのできないある段階の認識を一足飛びして「生活」「生存」に移っていると言えます。もしくは気づいてもいないか。
 「人生」の本質を逃さないよう大局的にみるため一歩引くと言いますか、本質に近づくため深淵に一歩踏み込むと言いますか、見定めたいものは同じなのでどちらでもよいのですが、間違いのない認識をするため根源的な段階へ遡ることで、「人生」を考えるうえで外すことのできないことがみえます。

 それとは、今この瞬間に私達の誰もが「存在」しているということです。
 日々の暮らしのあれこれを予定立てるとしても、どのように生きていくのかに腐心するのだとしても、「生きる」つまり「生活」、「生き延びる」すなわち「生存」の前に、まず誰もが「存在」しているということ、つまり今この瞬間に「在る」ということがなければ、順序としてその他はあり得ない。
 「生活」について考えるにはまず「生存」していなければそれがあり得ないように、「生存」について考えるにはまず「存在」していなければそれはあり得ません。
 「生活」とは「生存」のある場面のこと、または場面の集合のことであり、「生存」は「存在」の部分集合であると言い換えることができます。

 と、ここまで「生活」「生存」そして「存在」と、「人生」について思いを巡らせる際に考えられる分岐を挙げてたわけですが、これらのうち一方が他方に比べてどうということではなく、これらすべてが「人生」であることは確かであり、であるから重要なのは、これらのうちどれから手をつけるのか、すなわち「人生」について考えるうえでより根源的なものはどれかという理由で、考える順序は自ずと決まってくるということです。

 というのも、「生活」することについて考えるという場合に典型的なものとしては、どのように雑事を要領よくこなすのかとか、どのようにすれば金銭的にお得でいられるのかなどの豆知識に話は収斂することになり、また「生存」するということについて考える場合には、ある個人における特殊な体験談や極私的な経験則など、誤った意味で哲学と冠されるたぐいの処世訓、いわゆる個々人の私事の開陳かいちんに終始することが常です。
 それらにおいては、大勢の人が実践できる具体的な事例が挙げられることがあったり、一定数の人達には再現性のある理論や法則でありえることも含まれてはいるのでしょうが、しかし結局それらはどこまでも相対的なものか個人的な話であるため、万人に共通する絶対的な普遍性があるとは言えません。
 ですのでそうしたことではなく、私達のうち誰においても必ず共通していること、つまり私達の誰もが現にこうして「在る」というこのこと、「存在」するということについて考えることはイコール「人生」について考えるうえで最も根源的であり、現実的なのです。
 ですから、「存在」について考えるということが、とりもなおさず「人生」について考えることに直結する、誰にとっても初歩的な段階であるということが見えてくるはずです。

 私達にとって必ずそうでなければ何もかもがあり得ない「在る」ということ、私達の普遍である「存在」するということについてまず考えることによって「人生」を本質的に捉えることが大前提であるのは、生活を営むにも、生存を続けるにも、まず存在をしていなければ、それらはあり得ないということからも間違いありません。その逆はあり得ないのですから。
 「私」や「自分」と呼んでいるこの「存在」がなければ、「私」や「自分」と呼んでいる者の生活も生存も問題にはなり得ないのです。
 なので、その「存在」について考えることを飛ばしてしまうようでは、生活するためのどうのこうの情報を集める理由など本来は見出せませんし、各々で個別に異なる生存のあれこれについてになどほんとうは段階として移ることはできないのですが、どうでしょうか。

 ですので、ある価値観・世界観、もしくはどのように生きているかに少しでも触れればその人物が「人生」の初歩的な側面について、すなわち核心である「存在」についてまずどれぐらい考えを巡らせているのか、つまり本質的で根源的な事についてどのような考えをもっているのか、そしてどのように考えているのかがわかります。それとも何も考えることなく、「生活」や「生存」といった世俗的な側面に飛びついているだけでしょうか。
 平たく言えば、生活をどうするかなどという現世的処世訓でもなければ、生存することの価値を疑わない個人的な人生譚でもない、私達にとって核心的なことを考えるところから、ということなのですが。

 ということで、「人生」とは何かと、どのような認識をもち、どのような順序と段階で捉えているのかによって、自分自身が「存在」するということについての考えは変わります。そのため自ずと「人生」が変わります。
 自分自身が「人生」をどのように認識しているのか、その段階と順序を自覚することで、いかに生きるか・どのように生きるかといった細々した事を考えるということばかりではなく、「人生」とは「存在」とは、そして「自分」とは何かを考えることに繋がってくるからです。

 「人生」を考えていたつもりが「存在」を考えることになり、「存在」を考えるということは「自分」を考えるということになる。
 そしてそれは「自分」という考えようとしている「存在」が、考えようとしている「人生」について、どれだけ何を知っていて、いかに何を知らないかを自覚することでもある。
 このように現実と呼んでいるこの日々があり得るためには欠かすことのできないことだという意味で最も現実的な事柄に向き合っているのだとしたら、日頃の時間の使い方がどうだとか生涯のキャリアがなんだということがどうして先に問題になり得るでしょうか。

 私達の「人生」を考えるため、人間における「普遍」を認識し、それらを改めて整理する段階へ遡ったわけですが、その段階で向き合う対象とは「存在」であり、それはつまり「自分」と呼んでいるこの「謎」です。
 順を追って足場を整地するように普遍的な事柄について整理したその先とは実は底の抜けの「謎」に繋がっており、そこでは既に「生活」や「生存」といった生死のみに関わることは「人生」の主題ではないことを実感せざるを得ません。

 考えようとしている「人生」を、既に過ごしているという「謎」
 知ろうとしている「存在」、しかし既に存在しているという「謎」
 考えよう知ろうとしているそれらではなく、それらを考えよう知ろうとしているこれらが「謎」
 私達にとって「人生」と名付けているこの事態は既にここに在り、また「存在」と呼んでいるこの状態は既にここに居るという意味で「普遍」なのでしたが、しかしそれとは同時に「人生」とは不可解な事態であり、「存在」とは不可知な状態であることも、万人にとって共通の不可思議な構造をもった「謎」なのでした。

 よって『「人生」を考える』と題しましたが、私達が考え得るのは私達が考え得る事つまり「普遍」について、そして私達が考えることのできないのは私達が考えることができない事すなわち「謎」であると、何を言ったことにもなってはいないがしかし、「ほんとうのこと」を考えたのでした。