今夜のおかずは卵焼き

 晩御飯に卵焼きが出た。
 薄い皮にして焼きながら巻いて重ねていくやつ。名前を聞いたら、
「卵焼き」
と言はれた。なんかカチンときた。歳をとってゐるので、どうでもいいことに腹が立つことがある。
 「それは総称でしょ。目玉焼きとかポーチドとか、この焼き方についた名前を教へてくれって言ってんのよ」
と言ひ返したら、その後、少し、口論になった。口論になると、男性脳の妻にはまったくかなはない。どんな議題にしろ、ヒステリーしか武器の無いわたしを言ひ負かすのは、妻にとっては、赤子の手をひねるやうに容易(たやす)い。
 これは卵焼きといふのだと納得した。

 「美味しい?」
と尋ねられた。この問ひに対する答へは決まってゐる。他に応へようがない。
 「美味しいです」
 実際、美味しかった。
 「でも、・・・」
と、妻が機嫌のいい表情になったので、おそるおそる言ってみた。
 「色は、美味しさうぢゃないね」
 「さうなの。ナガイモを混ぜているせいもあるけど、卵がいい卵だから、色が薄いのよ」
 妻は機嫌を損ねなかった。ほっとした。
 けれども、よく意味が分からないので、さらに尋ねたら、卵の黄身は、黄身とは言ふものの、どれもが必ず鮮やかな黄色といふわけではないさうだ。でも、ふつうは、鮮やかな黄色でないと売れないので、鶏の飼料に何か卵の黄身が黄色くなるやうなものを混ぜてゐるのださうだ。
 
 ほんまかな?と思ったが、調べてはゐない。
 卵の黄身の黄色の強化に関しては真偽は確かめてないが、それでも、自然の卵としてはさほど黄色くもないものを人が工夫して鮮やかな黄色にして売ることは、無い話では無いなと思った。

 といふのも、わたしは、近頃、スーパーマーケットの農産部門(野菜と果物を扱ふところ)に派遣されて、白菜やキャベツを半分や四分の一に切るといった仕事をしてゐる。
 そこで驚いたのは、大根が真っ白でないと売れない。キュウリが曲がってゐると捨てる。リンゴにちょっした傷があると廃棄。小松菜の入った袋に小さな虫が見つかると返品される。そして、虫もろともゴミ箱ゆき。

 農産物なのだが、商品としては「製品」と呼ぶらしい。
 「これは曲がってるから、色がくすんでるから、製品にはならない」とか「これは、なんとか製品になる」とか。

 製品とは、「拵へて造ったもの」といふ意味だらう。
 「こしらへる」を辞書でひくと、
あれこれ手を加へて、思ふやうなものに仕上げる
と出てゐた。
 だから、農産物を「製品」と呼んでもいいのだらうが、なんか、自然に対するおごりのやうなものも感じてしまふ。野菜や果物は、どこまでいっても自然物では無いのかと思ふのだが、生産者と自称する人たちは自分たちが拵へてゐると思って疑はないのだろう。それだけの労力と知識と工夫を駆使してゐるからだ。

 拵へものなら、形も色も思ふやうなもの、つまり売れるものにしてゆくのは当然だ。そのために、農薬やら添加物やら、それから遺伝子に対する細工などが迷ひなく加へられてゆく。これも当然だ。

 生産者がそんな気持ちになったのは、もとはと言へば、消費者の野菜に対する意識に応えたからだと思ふ。
 農薬の異常なくらゐの大量の使用は、曲がってるとか色がくすんでるとか、綺麗ぢゃないとか、虫がゐるとか、虫の食べた跡があるとか、なんだかんだで、文句を言ってきた消費者のせいだといふ気がする。
 だから、結果として何が起きても自業自得かもしれない。

 ただ、これから大人になる子供には、次のやうな教育はしてほしいなと思ふ。すなはち、

①農産物とはそもそもどんなもので、どんな品種改良の歴史を経て今のものとなってゐるのか、

食べるにあたって、
②どんな色や形に気をつけるべきで、

③どんな色や形が、「見た目」の美しさはなくても、別に中身の良し悪しとは関係が無いのか、

④袋入りの小松菜の中に虫がゐたら、その小松菜は食べてはいけないのか食べていいのか。虫の種類も含めて教へる。

 かういふことを基本的な知識として知ってゐると、消費者としての意識も変はってくると思ふ。すると、生産者や小売業者の妙な、ざっくりとして言へば「不自然な」工夫も減ってくるのではないだらうか。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?