子宮と神々

 男性が持つ、根源的な存在感のあやふやさは、やはり体内の子宮が無いからかもしれない。

 宇宙は無から生まれた。
 人も子宮といふ身体の中の空無から生まれるのは、宇宙の摂理に倣ってゐると言はなければならない。

 しかるに、わたしたち男性は子宮から生まれ出たといふのに、それを身体の中に持ってゐない。
 となると、生まれながらに故郷喪失者。
 よく言へばエトランゼ。
 だから、異邦人と名のって斜に構へることもできる。
 それにしても、さびしい。一生迷子だ。

 身体内に、空無としての宇宙(kosmos 秩序整然とした調和ある世界)を持たない男性は、生涯、なんとか外界に秩序をもたらそうとする。
 男の子は外界に秩序らしいものを見つけると、例えば、鉄道路線のことを知ると、駅名をことごとく暗記してしまふ。これで全知が成立した。
 自分をおびやかす渾沌は克服され、世界は自分の握った権力と秩序(例へば、全能と全知)のもとに調和したと感じる。
 無駄なあがきなのだ。
 コスモスを求める労苦はこれからだ。つまり、権力獲得のための人生が始まる。

 男性は、運動家でも学者でも、或いは、詩人でも、集ふと「マウント」を取らうとする。
 SNSの、せせこましいコメント欄でも荒れるのは、そんな小さな電子の仮想世界の中でも、なんとか支配権を得たいからだ。
 支配権を得るとは、男性にとっては、自分の周囲が秩序立ち調和した宇宙になるといふことだ。女性には、意味がわからないのが普通だ。

 男性は、だから、生まれながらに、よほど女性化してゐないかぎり、政治に関心がある。
 女性にとって政治とは「生活上の不便の改善」と「福祉の向上」である。
 男性にとっての政治は「今の間違った社会」を「ただしい世界にすること」である。

 女性は子宮があるから性の快感も身体のものとして得ることができる。 
 得ることができるから、それを自分の身体の外に求めることはない。男性たちが老いも若きも演じる性犯罪(強姦、痴漢、窃視、ロリコン、フェティシズム(下着集め、靴集め、死姦))やポルノグラフィへの執着は、わたしたち男性が快感を観念の中でしか得られないからだ。
 実際のところ、男性は、身体の快感を知ることなく死ぬ。
 だから、せめて死と快感は同じだと思ひたくて、腹を切るのだ。
 
 男性の身体は、どこか、間違ってゐる。
 或ひは、ゼロ戦のやうに攻撃力を最大に高めることを最優先に設計されたのかもしれない。

 かうした身体に搭載された脳、そこから数学が把握されるのは、もっともなことだ。
 失敗した数学としての哲学、美を描く数学としての音楽。
 それらは、男のものである。

 生きる実感の無さ、存在の希薄さ、さういふものの代償として神さまが与へてくれたのですかと尋ねたら、「別にそんなつもりは、・・・」と女神のひとりが含み笑ひをしながら答へてくれた。

 わたしの神々は、キリスト教のGodと違って、質問には必ず答へてくれる。
 むしろ、女神も男神も沈黙してゐられなくて、かしましい。
 畏れ多いことだが、ときに煩はしくなることもある。

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