汚染水か処理水か―失はれた科学的事実を求めて

 わたしは遺伝子組み換へやゲノム編集とかしたとする食品は忌避してゐます。食品添加物にも恐怖心があって、ずらずらっと添加物の名前が載ってゐるものは買はない。
 調べてみたら、遺伝子組み換へにしろ添加物にしろ、科学的には「危険だと示すデータは無い」といふことになってゐます。
 これに対して無理やり「危険はある」とする人たちは、「科学にはまだ解明されてゐないことがある」と言ふ。
 そのとほりでせうが、でも、これは禁じ手ですね。

 とにかく「危険がある」としたい人たちは、御用科学者が企業のくれるお金のためにウソをついてゐるとまで言ひます。
 実際、理系に限らず学者は平気でウソをつくので、ほんと、何を信じていいかわからなくなります。

 つまり、遺伝子組み換へや食品添加物を拒む人たちは、
科学者が安全だと言っても、根拠なく、なんとなく、気持ちとして、信用してゐないといふことになります。
 自分と同じ意見(「今の科学は信用ならない」といふ意見)の科学者の言ふこと以外は。
 
 わたしたちは、何も信用しないといふ状態は耐へられないので、科学者に対する不信感の強い人ほど、その反動で何か絶対に信じられるものを求めます。

 「科学者の言ふことは信用してはならない」と主張する「異端の科学者」の周りに群れ集ひがちです。

 電子レンジは諸病の元、みたいなセミナーで稼いでゐる「科学者」もゐますね。
 これは、「電子レンジを避けてゐれば病気にならないですむ」といふ安心感を売る商売だと思ひます。

  科学的に考へると、手に入るのは「仮説」だけ。
 科学的事実とは、科学者たちが多数決によって支持することに決めた仮説です。
 民主的に正しい仮説なのですが、仮説であることに変はりはなく、明日、たった一人の天才にひっくりかへされるかもしれない。
 確かなものは、なにも無い。
 科学も、生きるうへでの不安は解消してくれない。

 この記事の題名に「失われた科学的事実を求めて」と書きましたが、そんなものは無いといふのがわたしの意見です。

 むしろ、科学技術に支へられて暮らすのは、いやでもダモクレスの剣の下にゐることなり、生きるうへでの不安は増加してゐる。
 その不安に付け込めば、いろいろな起業ができます。


 それで、処理水と汚染水のことですが、科学者の言ふことを信用してゐない人なら、科学的にどうだかうだと誰がなんと言はうと、あれは汚染水ですね。

 わたしも信用してゐないはうなんですが、この問題では態度が変はります。

 中国や韓国が自分たちのことを棚に上げて日本を非難してゐるのをみると、
「おまへら、中学から理科の勉強をやりなおせ」
と言ひたくなります。

 自分の都合で「何を科学事実とするか」が変はるのはわたしだけではなく、日本学術会議の科学者ですらそんな感じです。

 科学が工学の分野みたいに「目で見て、手で触はって確かめられるモノ」を扱ってゐるだけなら、科学者の言うことを頭から信用して、
科学的に考へ、
科学的な価値観を持ち、
科学的な人間になり、
科学的に人生を送る

ことができるのに。

 ちなみに、わたしどもの世代では、上記の「科学的人生をめざせ」といふこは、小学校などでは先生たちから実際に勧められました。
 二十一世紀には無数の鉄腕アトムが空を飛びまはってゐると大人たちは信じてゐたやうです。
 アメリカの「科学力」に負けて敗戦したと思ってゐた大人たち。
 実際、「あのバカな戦争は、大和魂と科学の戦ひ。狂気と理性の戦ひ。
 誰がみても勝敗は決まってゐた」とはっきり言ってた先生もゐました。
 大東亜戦争の始まる頃、日本の科学技術は世界でもトップレベルだったのではないでせうか?
 
 それにしても、「科学的人間」って。
 聞いてゐるわたしは、いくら小学生でも「あほか」と思ひました。
 「民主的人間」と同じくらゐ、理解できなかった。

 今風に言ふと、「ちょっと何言ってるか、意味わからない」。
  

 

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