無題

 1980年代後半から1990くらゐの、バブル期といはれた時代、わたしは日本と日本人に愛想が尽きた。
 所得倍増計画のブレーンだった人(下村治氏といふ人だったと思ふのだが、今、確かめられない)が、1970年の大阪万博に浮かれる日本を見て、こんなことをやってゐてはダメだ、これからは経済成長を目指すのではなく、「足るを知る暮らし」に入るべきだといふ意味のことを言ったさうだ。
 もちろん、誰も聞く耳を持たなかったらしい。
 さうして、無限に経済成長してゆくことを誰も疑はず、それこそ幸福の実現に欠かせないものだと信じたまま、バブル期に突入した。

 その二十年くらゐ前に、下村治氏が「ゼロ成長」を唱へたことを、わたしは、そのバブル期に知ったのだが、心から同感した。
 ゼロ成長は、日本人の暮らし方を取り戻すと思ったのだ。
 はてしない経済成長の追求は、日本民族の勤勉と遊び心の調和、自然に対する畏敬から生まれる・ものを大切に使ふための工夫、信頼を基盤にした・同調と相互依存の共同体、さういった日本固有のよきものごとを破壊するとしか思へなかった。

 経済成長は、投資によって起きる。つまりは、資本主義社会の工業化と都市化の過程で金が注ぎ込まれるのだから、経済は成長してゆくしかない。工業化と都市化が或る水準を目指して進む間は、注ぎ込まれた金によって人々は「人間らしい暮らし」を獲得していった。
 だが、工業化と都市化が一応の水準までいけば、後は、「人間らしい暮らし」といふ目標から離れて、なんでもいいから投資先を探すことが目的になる。さうしなければ経済成長は止まり、今年の給料は去年より上がらないからだ。
 欧米は、旧植民地に対する搾取とアフリカ各地の紛争の継続(戦争ビジネス)などによって、ずっと経済成長を維持してゐる。日本人はそれが羨ましいのださうだ。

 とにかく今年の収入を昨年より多くするためだけの、錬金術としての投資の典型が、自分の暮らしに必要も無いのに土地を買い占めることだと思った。

 どんな暮らしが自分たち日本人として満足と誇りを持てるものなのか、そのことをまったく考へなくなってゐる。収入の額しか見えなくなった。

 こんな行為と生き方は、日本人的ではないと、当時すでに、まだネットも無いのに「ネトウヨ」だった私は、慨嘆した。

 日本は山村までもがいやがおうでも都市化してゆく。都市の暮らしにおいて、貧乏は必ず不幸である。だから、幸福になるには相当額のお金は必要だらう。
 けれども、お金があればあるほど、より幸福になれると考へるやうでは、日本人は日本人でなくなると感じた。それはヨーロッパ人アメリカ人の考へ方だ。

 欧米化していく日本など見たくないと思ったが、日本以外のどこにも行くあてがない。
 そこで、テレビ新聞雑誌一般書などあらゆる情報媒体から目をそむけ耳をふさぎ、浮世離れした研究に没頭した。
 俗世間の情報を断ち切った、精神的な修道僧の暮らし。
 もしくは、接近する外敵を発見すると、砂に頭を突っ込む砂漠の駝鳥の暮らし。

 それから三十年近くたった頃、ひょんなことから三島由紀夫氏の作品の再読を始めた。同時に、世間の様子もうかがふやうになった。たちまち、思想や社会や政治に対する俗な関心がよみがへってしまった。

 ちょっとした浦島太郎の気分。
 なんだか、わたしのやうなネトウヨが喜びそうなことを言ってゐる・元サヨクのインテリ芸人たちがゐる。弟子も含めると決して少なくない。
 インテリといへばサヨクだったときとなんといふ変はりやうだらう!

 かういふ芸人たちに影響されて、右巻き頭になった可哀そうな若者たちを「ネトウヨ」と呼ぶのだと知った。

 転向しないサヨクのインテリは、相変はらず賢そうで生真面目な顔をしてゐるが、あんまり元気がない。誰が読んでゐるんだらうかと心配になるやうな難しい本ばかり出してゐる。
 それにひきかへ「保守派」は、真相はこれだといふ・難しい本を読むのが面倒くさい人向けの・週刊誌の特集レベルの内容の・啓蒙本を乱発して大儲けしてゐる。

 そして、「バブル期までの日本は素晴らしかった。その後、日本はどんどんとダメになった」と言ってゐる。
 「給料が上がらないのは日本だけだ」と嘆いて、なんとしても、また経済成長しなくてはならないと叱咤してゐる。

 なんとかせなあかんのは、そこかい?
 やっぱり、まだ、お金の話をしてんのかいな。

 これが日本を憂える保守派か?
 日本精神を破壊した明治維新の総括はしないのか?
 バブル期までの経済成長を再び取り戻そうといふ、ミギやヒダリの「憂国の士」たちの主張に対して、わたしとしては、「世界の箍(たが)が外れたのか?」と思ふくらゐの驚きだ。

 鳥羽伏見の戦ひのとき、「お前らは最後の一騎になっても戦ひ抜け」と家臣たちを煽った翌日、徳川慶喜が大阪城からこっそり抜け出した。そして、停泊中の幕府の軍艦・開陽丸に乗り込んで品川に逃げ帰った。

 開陽丸の船将(提督)は、榎本武揚だった。後に、明治政府に従はず、北海道独立宣言をした旧幕臣である。榎本は、自身の保身のために慶喜から見捨てられて路頭に迷ふことになった徳川幕府家臣たちの生活の場を求めて北海道に渡ったのだった。

 その榎本が、鳥羽伏見の戦ひの折り、大阪城を訪れるために上陸した。
 開陽丸の提督である榎本が下船した隙をねらって、慶喜は強権によって軍艦を奪って逃亡したのだ。
 それを知ったとき、江戸っ子の榎本武揚は次のやうに呟いたと伝へられてゐる。
 「徳川も、しめい(終はり)だな」

 わたしも榎本氏のひそみにならひ、呟かうと思ふ。
 「日本も、しめいだな」
 

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