民主主義のいろいろ・続々

日本的なものへの回帰! 
それは僕等の詩人にとつて、よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。
誰れか軍隊の凱歌と共に、勇ましい進軍喇叭で歌はれようか。
かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。
暫らく我が静かなる周囲を去れ。
            (『日本への回帰』萩原朔太郎)


 参政党の民主主義はフランスの民主主義。

 家業や社会的地位と結びついた利権を守るために集団をなす人々を軽蔑する個人が選ぶ民主主義。
 洗練されたすれからしの都市生活者。本を読むのが好きなプチインテリ。
 自分の貯金の他に、大事なものが無い。人生の価値は「自分の愛する者を愛すること」。
 要するに、愛。
 これは現代人なら誰もがそこに入り込んでそれより先に進めなくなっている袋小路だ。

 社会のしがらみ、既存の利権などが役に立たなくなって、どの集団に属しても利益が得られない人たち、いわゆる浮動票層(選挙に行かない人たち)の民主主義。

 厳密に言えば、参政党の民主主義は、フランス民主主義の修正版。
 伝統文化をぜんぶギロチンにかけてしまうと、かえって個人と個人の権利のぶつかりあいになる。そうすると、自分という個人の愛する家族や子供たちの利益も損なわれてしまう。
 それで、伝統文化から個人主義にとって都合のいいものだけを残して、他は「民主的」なものへと変えようとするのが、参政党流だ。

 二・二六事件を「どんな主張があるとしてもテロはいけません」と言って、いいとこどりの天皇機関説に好意を寄せる参政党のアドバイザーと称するインテリたちは、大正デモクラシーを信じた大正教養人たちに似ている。
 心を病んだ、或いは、病んだ心で生まれて来た詩人・萩原朔太郎が晩年に辿り着いた絶望、日本がたどる運命に対する絶望(『日本への回帰』)を知らない、明るく元気な知識人たち。


 れいわ新選組の民主主義は、アメリカの民主主義。
 アメリカ大陸を植民したイギリス人にとって、伝統とか文化とかいったしがらみは、新天地の新しい生活にとっては、邪魔でしかなかった。
 フランス人は貯金をすることに仕事の意味を見出したが、アメリカ人は、投資して不労所得を作り出すことが最高の仕事だと思った。
 アメリカ国民は、全員が、ファイナンシャル・アナリストだ。
 金持ち母さん、金持ち父さん、金持ちLGBTQ+さんの国。
 
 どんな貧乏人でも、最上位組織の富裕層と同じような一攫千金、濡れ手に粟の人生を夢見て生きている。
 
 厳密に言えば、れいわ新選組の民主主義は、アメリカ民主主義の修正版。 
 すべての国民が、全員、ひとにぎりの富裕層になれば、誰もが幸福になれると信じる民主主義だ。
 「全員、ひとにぎりの富裕層」、この言葉の矛盾を、政治によって正面突破しようとする革命政党だ。

 わたしの考えは、民主主義なんかを信じるのは、もう、やめよう、ということだ。

 別に民主制でもいいが、「民主主義」という、誰もが納得できる定義もできない概念を振り回すのはやめるべきだと思う。

 今の日本では、
 なにかというと「民主主義」を持ち出して自分の党派的な主張を、あたかも正義であるかのように装っている。
 「民主主義」を武器にして「民主主義の破壊だ」という弾を、互いに、撃ち合っている。
 それよりさらにわるいのは、ほんとうに「民主主義を掲げていれば、何もしないでもそのまま、正義の側に立てる」と信じて疑えなくなっていることだ。

 「民主主義の、・・・」と言い出しかけたら、その言葉を持ち出すことによって、自分は何が具体的に気に入らなくて、何をどうしたら自分の気に入るようになるのかを考えてみるべきだとわたしは思う。そして、それをいちいち具体的に言葉にすれば、初めて、まともな「民主的議論」が始まるだろう。

 LGBT理解増進法なんて必要が無いとわたしは思うが、それに対して、手続きが民主主義的でない、民主主義の破壊だ、民主主義は終わった、などと言っている人は、自分をふりかえって、常に、民主主義的に生き、民主主義的な手続きを用いてものごとを決めているのか、よく考えてみるべきだと思う。

 特に、参政党、ほんとうの民主主義などと言い出したら、先ずは、十万人党員全集会から始めないとまずいんじゃないだろうか?
 各支部から代表者を決めて云々というのは、まさに民主主義の最も偽善的な側面で、「全員が話し合いをはじめたら、収拾がつかなくなる」という現実に対して、玄関には「ほんとうの民主主義」の大看板を掲げたまま、裏からこっそり出ていくという方法だからだ。

 れいわ新選組は、政権を取ったら独裁政党になると思う。
 本気で日本を変えようと思えば、そうならざるを得ない。
 既存の体制を壊さない限り、「全員、ひとにぎりの富裕層」となる理想世界の実現は不可能だ。

 LGBT理解増進法設立の茶番は、正義を求める人たちがどんな社会を求めているかをあぶりだした。
 正義の求める人々は、妥協しない。
 既存の体制の中での「改革」や、漸進主義などは、むしろ、差別の温存どころか、さらなる差別を生み出すことでしかないと信じているのに違いない。

「誰ひとり取り残されることない世界」は、ちまちまとした体制内改革や、表面を取り繕うほんの一部分の改善では生まれない。
 いったん、東大官僚たちの、偏差値エリートたちの、私利私欲の塊りの政治家の、富裕層どもの作り上げた、日本という腐りきった管理社会(それを再生産する管理教育制度)を叩き壊さない限り、何も始まらない。
 たぶん、今の日本を憂えている人は、そんなふうに考えて、右にしろ左にしろ、前を見ているのに違いない。
 前方になんらかの革命(維新でもアップデートでも言い方は自由だ)を見据えているのだと思う。

 わたしはネトウヨなので、どんな種類の(理想世界実現のための)革命にも反対する、反革命の立場である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?